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歴史も教義も制度も無視して、用語も正しく理解しようとせず、「宗教専門新聞」を称しているのは恥ずかしい。ましてや記者の暴力や差別発言や脅迫的発言は論外。
「殺してやる」「お前の脳みそは腐っている」「お前は強姦殺人犯のようだ」。これが「葬式をしない」代わりの21世紀劈頭の「ともいき」の宣言なのか。
「読売新聞では暴力は当たり前だ」(真偽は不明)と何度言われても、本願にはほど遠い。「俺は神戸で人が燃えているのを見てきたからな」と自慢するのが「一流のジャーナリスト」か。
宗教団体・大学・メディアは「平和憲法を守れ」と主張する以前に、自ら刑法を侵さず、労働基準法を守るべきだ。「愚者の自覚」「智者のふるまいをしない」を言い訳とせず、人権同和活動を閉鎖せず、総本山警備員の集団リンチ傷害事件の隠蔽をやめるべきだ。国民の税金も使われた上で、血が流れた事件を曖昧にして落慶法要を行うつもりか。「お前を人権侵害で訴える」というなら早く訴えたらいかがか。
宗教界、言論界から暴力や差別が無くなるにはまだ無量年かかるのか。まあ無理か。

雑司ケ谷鬼子母神堂

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2019年4月28日 (日)

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法明寺鬼子母神堂は、東京都豊島区雑司ケ谷の法明寺にある鬼子母神信仰の神社。雑司ケ谷鬼子母神

歴史

由緒

1561年(永禄4年)5月6日、山本某という人物が清土(文京区目白台)にあった田から像を掘り出した。現在の清土鬼子母神堂の地とされる。法明寺東陽坊(大行院)の日性が鑑定したところ、鬼子母神だと判断した。大行院は前田利家が天正年間に創建したという。1578年(天正6年)、武芳稲荷神社境内に堂宇を建てて祀り、以後崇敬を集めて雑司ケ谷の鎮守となった。この武芳稲荷神社は現在、鬼子母神堂の境内社となっている。

1666年(寛文6年)、広島藩主浅野光晟室の自昌院英心日妙が寄進して社殿を造営した。現在の本殿はこの時のものとされる。元禄年間から江戸市中に子宝に恵まれたなどの霊験が広まり参詣者が群衆するようになった。1707年(宝永4年)、拝殿と相の間を造営。

法明寺と大行院・氏子の対立

鬼子母神堂の支配を巡って、氏子が支持する子院大行院と、本寺法明寺の間でたびたび争論となった。元和年間、法明寺日雄が鬼子母神の樹木を勝手に伐採したため、雑司ケ谷村が上訴してやめさせた。1660年(万治3年)には法明寺日延が鬼子母神堂の鍵を取り上げ、賽銭を奪ったことから訴訟となった。幕府は大行院(東陽坊)は法明寺の支配下にあるが、鬼子母神堂は法明寺の直轄ではなく大行院の管轄だと認めた。1696年(元禄9年)には法明寺が鬼子母神の門前町を「法明寺門前町」と記して書類を提出したことから氏子が反発。法明寺は謝罪文を書いた。対立の背景には権益だけでなく、寛文法難以前の不受不施の信仰を保持しようとする大行院・氏子側と、不受不施を捨て久遠寺系となった法明寺の確執があったともいわれる。

1701年(元禄14年)に久遠寺から入寺した法明寺日教が氏子の鬼子母神境内立ち入りを禁止するなど支配の強化を図ると、氏子の過半数が法明寺の檀家を離れてさらに訴訟となった。幕府は土地は法明寺の支配としたが、鬼子母神堂の別当職は大行院(東陽坊)にあることを確認した。しかし、江戸時代後期になると法明寺の支配権が強まり、1838年(天保9年)の争論では大行院住職が追放された。 (『日本歴史地名大系』『江戸名所図会』『東洋文庫 江戸繁昌記』註釈)

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