ようこそ『神殿大観』へ。ただいま試験運用中です。
歴史も教義も制度も無視して、用語も正しく理解しようとせず、「宗教専門新聞」を称しているのは恥ずかしい。ましてや記者の暴力や差別発言や脅迫的発言は論外。
「殺してやる」「お前の脳みそは腐っている」「お前は強姦殺人犯のようだ」。これが「葬式をしない」代わりの21世紀劈頭の「ともいき」の宣言なのか。
「読売新聞では暴力は当たり前だ」(真偽は不明)と何度言われても、本願にはほど遠い。「俺は神戸で人が燃えているのを見てきたからな」と自慢するのが「一流のジャーナリスト」か。
宗教団体・大学・メディアは「平和憲法を守れ」と主張する以前に、自ら刑法を侵さず、労働基準法を守るべきだ。「愚者の自覚」「智者のふるまいをしない」を言い訳とせず、人権同和活動を閉鎖せず、総本山警備員の集団リンチ傷害事件の隠蔽をやめるべきだ。国民の税金も使われた上で、血が流れた事件を曖昧にして落慶法要を行うつもりか。「お前を人権侵害で訴える」というなら早く訴えたらいかがか。
宗教界、言論界から暴力や差別が無くなるにはまだ無量年かかるのか。まあ無理か。

飯高寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2017年6月3日 (土)

飯高壇林から転送)
移動: 案内, 検索

飯高寺(はんこうじ)は、千葉県匝瑳市飯高にある日蓮宗寺院。本尊は十界諸尊。日蓮宗久遠寺派。かつての檀林の中でも最大の規模を誇り、飯高壇林と呼ばれた。開山および檀林開祖は教蔵院日生、開基は平山常時。旧称は法輪寺。(参考:同名寺院法輪寺_(同名)

歴史

1573年(天正1年)、比叡山の修学から帰郷した要行院日統は、下総飯塚の光福寺に学室を構えた。これが飯塚講肆で、飯高壇林の起源となる。 既に京都松ケ崎檀林を開いていた教蔵院日生は講肆開設を聞きつけ、1577年(天正5年)、飯塚を尋ねる。日統を救けて講義を開くと次々と聴衆が集まった。1579年(天正7年)日統は病に伏せ、日生に後事を託す。日統の没後、地元は不受不施を主張したため日生は光福寺を離れた。飯高の領主平山常時、中台妙見宮別当妙福寺の日因が同時に霊夢を見て、日生を招く。日生は、妙福寺の講義所を弟子の蓮成院日尊に譲り、京都に帰る。日尊は妙福寺で講義するが、平山常時は、新たに飯高の地を寄進して講堂を構え、衆寮を建設。1591年(天正19年)11月、徳川家康から朱印地が寄進され檀林が公認され、飯高壇林が成立、妙雲山法輪寺と称した。1596年(慶長1年)伽藍完成。朱印地30石。

1599年(慶長4年)には28歳の日遠が入る。

中台谷(なかだいさく)、城下谷(ねごやさく)、松和田谷(まつわださく)の三つの学寮があった。 明治に檀林は廃止。現在は飯高寺と称す。 組織としての直接的な系譜ではないが、近世で最大の教育期間であったため、立正大学の前身と位置付けられている。


伽藍

歴代

http://shinden.boo.jp/wiki/%E9%A3%AF%E9%AB%98%E5%AF%BA」より作成

注意事項

  • 免責事項:充分に注意を払って製作しておりますが、本サイトを利用・閲覧した結果についていかなる責任も負いません。
  • 社寺教会などを訪れるときは、自らの思想信条と異なる場合であっても、宗教的尊厳に理解を示し、立入・撮影などは現地の指示に従ってください。
  • 当サイトの著作権は全て安藤希章にあります。無断転載をお断りいたします(いうまでもなく引用は自由です。その場合は出典を明記してください。)。提供されたコンテンツの著作権は各提供者にあります。
  • 個人用ツール