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歴史も教義も制度も無視して、用語も正しく理解しようとせず、「宗教専門新聞」を称しているのは恥ずかしい。ましてや記者の暴力や差別発言や脅迫的発言は論外。
「殺してやる」「お前の脳みそは腐っている」「お前は強姦殺人犯のようだ」。これが「葬式をしない」代わりの21世紀劈頭の「ともいき」の宣言なのか。
「読売新聞では暴力は当たり前だ」(真偽は不明)と何度言われても、本願にはほど遠い。「俺は神戸で人が燃えているのを見てきたからな」と自慢するのが「一流のジャーナリスト」か。
宗教団体・大学・メディアは「平和憲法を守れ」と主張する以前に、自ら刑法を侵さず、労働基準法を守るべきだ。「愚者の自覚」「智者のふるまいをしない」を言い訳とせず、人権同和活動を閉鎖せず、総本山警備員の集団リンチ傷害事件の隠蔽をやめるべきだ。国民の税金も使われた上で、血が流れた事件を曖昧にして落慶法要を行うつもりか。「お前を人権侵害で訴える」というなら早く訴えたらいかがか。
宗教界、言論界から暴力や差別が無くなるにはまだ無量年かかるのか。まあ無理か。

駿河・瀧泉寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2020年5月19日 (火)

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瀧泉寺は駿河国富士郡熱原(静岡県富士市入山瀬)にあった天台宗寺院。日蓮宗の熱原法難(加島法難)の舞台となった。跡地ははっきりしないが、入山瀬の金刀比羅神社のあたりとする伝承がある。熱原瀧泉寺厚原瀧泉寺。(参考:同名寺院瀧泉寺_(同名)

歴史

熱原の法難

円仁の創建と伝える。日興の布教で瀧泉寺の僧の日弁(中老僧の一人。鷲山寺宥清寺開山。1239-1311)、日秀(本六人の一人)、日禅(本六人の一人)らが帰依。付近の住民にも教えを広めたところ、寺の院主代の平行智の反感を買った。 1279年(弘安2年)、平行智は、秋の収穫の時期に日蓮宗に帰依した住民20人を刈田狼藉を行ったとして鎌倉幕府に訴え捕縛し連行した。 日秀、日弁らは難を逃れ、日蓮は陳状を提出した。住民の取り調べに当たった得宗被官の平頼綱は念仏を強要したが、住民は題目を唱えて抵抗。神四郎、弥五郎、弥六郎の3人が処刑された。日蓮は危機感を覚え、団結を呼び掛けた。この事件について鎌倉幕府側の文献には記録はないが、以後の日蓮の書状にはたびたび言及されているという。住民の取り調べに当たった平頼綱とその子は1293年(永仁1年)に謀反の疑いで殺された(平禅門の乱)。日興はこれを法華経を謗った仏罰だと記している。

熱原法難で殉教した3人は熱原三烈士と呼ばれる。富士市厚原の駿河・本照寺は神四郎の館跡と伝え、神四郎の墓がある。大石寺には熱原三烈士顕彰碑がある。

その後の瀧泉寺

その後衰退。明応年間、久遠寺11世の日朝(1422-1500)が領主の岩越刑部大輔に招かれ復興し、感応寺と改称。のち駿府の静岡浅間神社近くに移転した。さらに慶長年間に現在地(静岡県静岡市葵区駒形通)に移転した(駿河・感応寺)。 1600年(慶長5年)、11世の日長が米子藩家臣の横田村詮に招かれ、米子に伯耆・感応寺を創建。さらに1620年(元和6年)、駿河感応寺の日陽を和歌山藩主徳川頼宣が招き、翌年、頼宣生母の養珠院(徳川家康側室、1577-1653)の帰依で和歌山にも紀伊・感応寺を創建。寺領10石を寄進した。

山梨県中央市の成島瀧泉寺も関係するか。

(日本歴史地名大系ほか)

http://shinden.boo.jp/wiki/%E9%A7%BF%E6%B2%B3%E3%83%BB%E7%80%A7%E6%B3%89%E5%AF%BA」より作成

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