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高松殿

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2021年8月8日 (日)

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高松神明神社の前にある「高松殿阯」碑

高松殿は平安京の左京三条三坊三町(京都府京都市中京区津軽町付近)にあった御殿・里内裏。小一条院、白河上皇、鳥羽上皇、後白河天皇の御所。鎮守の高松神明神社が現存する。

鎮守社の高松神明神社の由緒によると醍醐天皇皇子の左大臣源高明(914-982)が臣籍降下した920年(延喜20年)に建てたという。 娘の明子(藤原道長室)が継承し、高松殿と称した(栄花物語)。 さらにその娘の寛子が小一条院(准太上天皇敦明親王)の妃となったことで、1017年(寛仁1年)11月22日、小一条院の御所となった(小右記、左経記)。1021年(治安1年)4月5日焼失(日本紀略)。すぐに再建。

のち白河上皇近臣の藤原顕季の邸宅となり、 1095年(嘉保2年)10月28日に白河上皇と皇女の郁芳門院が滞在し御所とした(中右記)。 1103年(康和5年)1月に生まれた宗仁親王(鳥羽天皇)の祝儀はここで行われた(中右記)。 のち鳥羽上皇と美福門院の御所となった(兵範記)。 1120年(保安1年)焼失(百錬抄)。 1146年(久安2年)源師行が再建し、3月19日、近衛天皇皇后の多子が行啓(百錬抄)。

近衛天皇崩御を受けて1155年(久寿2年)7月24日、鳥羽上皇の後ろ盾で後白河天皇が高松内裏で即位(台記)。 1157年(保元2年)まで内裏とした。

1156年(保元1年)の保元の乱では後白河天皇方の拠点となり、7月10日、源義朝平清盛らが高松内裏に集まった(兵範記、保元物語)。 1159年(平治1年)、鳥羽天皇皇女で二条天皇中宮の〓子内親王の御所となり、高松院の女院号を得た(山槐記)。 1159年(平治1年)5月29日、法華経五十講を営む。 同年8月16日に焼失(百錬抄)。 神社由緒によるとこの時の火災では内侍所が焼け残り、高松神明神社の社殿となったとされている。 (国史大辞典、日本歴史地名大系、高松神明神社由緒書ほか)

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