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一向旧跡
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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'''一向俊聖'''(いっこうしゅんじょう)(1239-1287)は[[浄土教]][[一向門流]]の開祖。[[浄土宗]][[良忠]]の弟子。[[大隅八幡宮]]で不断念仏を行ったときに託宣を受け、[[宇佐八幡宮]]で踊り念仏を修した。[[蓮華寺]]を復興。墓所は蓮華寺にある。のち[[時宗]]の僧とみなされる。'''儀空菩薩'''。 ==年譜== {|class="wikitable" |+一向俊聖年譜 !style="width:15%;"|年 !style="width:10%;"|月日 !style="width:5%;"|年齢(数え) !style="width:70%;"|事項 |- |1239年(延応1年) |1月1日 |1 |筑後国竹野郡竹野庄西好田(福岡県久留米市)で誕生。草野永泰の次男。 |- |1240年(仁治1年) | |2 | |- |1241年(仁治2年) | |3 | |- |1242年(仁治3年) | |4 | |- |1243年(寛元1年) | |5 | |- |1244年(寛元2年) | |6 | |- |1245年(寛元3年) | |7 |播磨国[[書写山円教寺]]に入り、[[天台]]教学を学ぶ。 |- |1246年(寛元4年) | |8 | |- |1247年(宝治1年) | |9 | |- |1248年(宝治2年) | |10 | |- |1249年(建長1年) | |11 | |- |1250年(建長2年) | |12 | |- |1251年(建長3年) | |13 | |- |1252年(建長4年) | |14 | |- |1253年(建長5年) | |15 | |- |1254年(建長6年) | |16 |[[鎌倉]]に下る。 |- |1255年(建長7年) | |17 | |- |1256年(康元1年) | |18 | |- |1257年(正嘉1年) | |19 | |- |1258年(正嘉2年) | |20 | |- |1259年(正元1年) | |21 |[[浄土宗鎮西派]]の[[良忠]]に師事。15年間学ぶ。 |- |1260年(文応1年) | |22 | |- |1261年(弘長1年) | |23 | |- |1262年(弘長2年) | |24 | |- |1263年(弘長3年) | |25 | |- |1264年(文永1年) | |26 | |- |1265年(文永2年) | |27 | |- |1266年(文永3年) | |28 | |- |1267年(文永4年) | |29 | |- |1268年(文永5年) | |30 | |- |1269年(文永6年) | |31 | |- |1270年(文永7年) | |32 | |- |1271年(文永8年) | |33 | |- |1272年(文永9年) | |34 | |- |1273年(文永10年) |2月 |35 |「一向」を名乗り、師のもとを離れ、西国各地を遊行。 |- |1274年(文永11年) |夏 |36 |[[大隅八幡宮]]で四十八夜不断念仏。夢告と共に「未敷蓮華」を授かったので歓喜して踊躍。神前を辞して行く路傍に「牧子」が落ちていたのでこれを拾って縫い合わせて袈裟とし、未敷蓮華を結びつけた。 |- | |秋冬頃 | |[[宇佐八幡宮]]で四十八夜の踊り念仏を行い、鰐口を授かる。寺伝によるとこの時、[[宇佐善光寺]]に滞在したという。 |- |1275年(建治1年) | |37 |讃岐に清海寺(不詳)を創建。 |- |1276年(建治2年) | |38 |寺伝によると[[宇都宮一向寺]]を創建。 |- |1277年(建治3年) | |39 |[[備中・吉備津神社]]で礼智阿を弟子とする。 |- |1278年(弘安1年) | |40 |安芸宮島から出雲を遊行する。水尾宮([[美保神社]])で阿弥衣を神授されたが、海岸に出た時、異形の老翁に乞われて阿弥衣の両袖を与えた。このため一向門流の阿弥衣は袖がない。出雲の後、長門、石見を遊行。 |- | | | |寺伝によると、天童城主源頼直に迎えられて成生に[[仏向寺]]を創建(のち天童に移転)。 |- |1279年(弘安2年) | |41 |寺伝によると出羽高野の清雲寺(山形県山形市高沢。時宗)を創建。 |- |1280年(弘安3年) | |42 |美作国勝田郡を遊行し、因幡に入る。この時に若桜郷高野(鳥取県八頭郡若桜町高野)に建てたとみられる光福寺(廃絶)の1280年(弘安3年)銘の太鼓が松江[[玉作湯神社]]に伝わる。 |- |1281年(弘安4年) | |43 |因幡国智頭郡を遊行。 |- |1282年(弘安5年) | |44 |丹後国与謝郡を遊行。 |- |1283年(弘安6年) | |45 |[[京都]]に入る。霊場を巡拝。 |- | | | |寺伝によると天童石仏寺(山形県天童市高擶北)を創建。 |- |1284年(弘安7年) | |46 |加賀、越前を遊行し、近江に入る。坂田郡番場米山の麓に草堂で念仏。草堂の主の畜能・畜生と豪族土肥元頼が帰依して滞在を決める。土肥元頼の寄進で[[蓮華寺]]を創建。1284年(弘安7年)10月17日の銘文がある梵鐘が伝わる。 |- |1285年(弘安8年) | |47 | |- |1286年(弘安9年) | |48 | |- |1287年(弘安10年) |11月18日 |49 |蓮華寺で死去。11月に入って病に臥せっていたが18日の申刻、病悩がやんで立ち上がり、念仏数百辺を唱えて立ったまま往生したという。臨終の様子は感銘を与えるもので臨終絵や臨終記が作られた。 |} == 一覧 == *[[円教寺]] *[[鹿児島神宮]]:大隅八幡宮 *[[宇佐神宮]]: *[[一向寺]] *[[仏向寺]] *[[蓮華寺]]:墓所 [[Category:人物旧跡]]
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