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京都・大通寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
京都・大通寺
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[[file:D351E394-6569-449D-8FAF-085AA09567ED.jpeg|thumb|600px|現在の大通寺]] '''大通寺'''(だいつうじ)は、京都府京都市南区西九条比永城町にある[[源氏]]ゆかりの[[真言宗]]寺院。本尊は[[宝冠釈迦如来]]。[[源実朝]]の菩提寺。源氏の代表的な菩提寺の一つ。[[六孫王神社]]別当。真言律宗の尼寺だった。[[関東祈祷所]]。元は[[真言宗東寺派]]で、一時期その仮宗務所が置かれた。遍照心院。山号は万祥山。(参考:同名寺院[[大通寺]]) ==歴史== [[file:247B1AB8-EFD6-4DDE-975E-60E27C65CBA5.jpeg|thumb|400px|大通寺旧地。児水不動尊が残る。奥はJR東海道本線]] 将軍源実朝は1219年(承久1年)1月27日、甥の公暁に暗殺された。 源実朝正室の坊門信子(1193-1274、坊門信清の娘)はその後、鎌倉から京都に帰り、出家し、本覚尼(西八条禅尼、八条禅尼)と名乗った。 年代は不詳だが、本覚尼は実朝の菩提を弔うため、六孫王神社の北隣に大通寺を創建。開山として真空を招いた。尼僧のための律院となったらしい。 源氏ゆかりの寺として歴代の幕府に庇護された。室町時代には遍照心院奉行が設置されたほどだった。 1395年(応永2年)10月、塩小路朱雀の田地を巡って醍醐寺理性院と総論。 1398年(応永5年)7月24日炎上。 領地を巡って東寺教令院と対立し、1501年(文亀1年)12月になって大通寺側から取り下げた。 江戸時代の寺領は283石。三論宗、律宗、真言宗兼学とされた。1912年(大正1年)、東海道線建設のために現在地への移転を余儀なくされた。 十六夜日記の作者の阿仏尼(?-1283)の墓の阿仏塚がある。 末寺として[[星田寺]]があった。 ==組織== ===住職=== *1真空(1204-1268)<>:[[高野山]][[金剛三昧院]]長老5世。[[木幡観音院]]に住す。鎌倉[[無量寿院]]長老。木幡義の始祖。廻心房。木幡上人。 *2禅慧(生没年不詳)<-1283->:[[大安寺]]中興1世。[[叡尊]]・[[覚盛]]らと共に自誓受戒した[[不空院]]円晴の弟子という。本浄房。 *憲静(?-1293)<>:泉涌寺長老6世。遍照心院で死去。 *俊才(1259-1353)<>:[[東大寺戒壇院]]長老5世。[[東大寺]]大勧進25世。[[武蔵・称名寺]]長老。 *照玄(1301-1358)<>:東大寺大勧進職。[[鎌倉極楽寺]]長老。 *恵雲()<-1413>: *舜海()<-1434->: *高澄()<-1501->: *義洞()<>: *照什(1663-1736)<1681->:石見国出身。佐々木忠綱の子。1663年(寛文3年)生。義洞に師事。諸国巡歴の後、大通寺住職となる。六孫王神社再建を果たし、東山天皇から紫衣を賜る。1736年(元文1年)10月13日死去。74歳。南谷と号す。 ==子院== *東林院 *実法院:十方院 *清涼院 *成就院 *大雲院 *真住院 *慈眼院:空谷(1766-1834)が住した。 *多聞院 *恩徳院 *本覚寺:京都市下京区本塩竈町。浄土宗。 <gallery> file:30F9C2C2-062B-41AF-B7B4-69281FF69E22.jpeg| file:7B6E2BA5-3E62-4C21-BB4D-0D5ED6DF7B37.jpeg| file:FD4BE6D5-3CA9-4333-ABE0-EF6C880C9A0E.jpeg| ファイル:3B26D6FE-8C18-4134-89C2-D0C8A5B76ACB.jpeg|旧地に残る児水不動尊 ファイル:3D45A63E-3CAB-4B08-AEDC-B4CE608B07D1.jpeg|児水不動尊 ファイル:16D2B5CB-6CAC-488B-918E-9FF4C3CFEE71.jpeg|児水不動尊の脇に立つ戒律結界碑 </gallery> [[Category:京都府]]
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