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北野天満宮松梅院
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
北野天満宮松梅院
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'''松梅院'''(しょうばいいん)は、[[北野天満宮]]の社僧を務めた[[天台宗]]寺院。[[北野天満宮徳勝院|徳勝院]]・[[北野天満宮妙蔵院|妙蔵院]]とともに北野天満宮の三院家の一つ。廃絶。僧侶にも関わらず、[[菅原道真]]の後裔とされる吉見氏が世襲した。[[足利家]]の御師職となる。 1471年7月、後南朝の皇子一宮が応仁の乱の西軍に迎えられて松梅院に滞在した。 1527年12月23日炎上(実隆公記)。 中近世には毎年正月3日に「裏白連歌」(北野裏白)が行われた。特殊な懐紙を使った連歌で、1557年から1643年までの懐紙が残る。 『北野神社引付』や『北野天満宮文書』を残した。 == 歴代 == *[[菅原道真]] *高視 *雅規 *資忠 *孝標 *定義 *在良 *為恒 *真義 *高猷 *忠慶 *慶厳 *仁厳 *勝盛 *勝禅 *慶禅 *親禅 *慶祐 *禅陽()<-1336->:事実上の初代とみられる。[[足利尊氏]]に随従し、1336年、足利家の御師職となる。石見法眼。法印。 *慶誉()<>:「松梅院系図」になし。 *禅厳()<-1365->:禅陽の子。応安年間に御師。法印。 *禅尋()<>:応永3年御師?贈法印。 *禅能()<-1431->:応永34年に御師?将軍足利義教の勘気を受けた。法印。僧正。 *慶芸()<>:なし *禅尚()<>:なし *禅芸()<>:永享12年に御師?法眼 *禅親()<-1458->:永享13年に御師?法印。 *(禅盛):禅能の弟子?寛正3年御師。法印。 *(秀慶):光園院。正長元年から永享まで御師 *(禅栄):密乗院。永享3年から永享12年まで御師。禅芸に元の如く返す。法印。 *禅予()<-1491->:禅親の猶子。禅春(禅芸の弟。享徳3年死去)の子。禅盛の子とも。宝徳2年生。寛正6年7月御師。長享元年10月15日御師再任。明応3年1月14日殺害された。45歳。法眼。法印。北野社家日記を多く残す。 *禅椿()<-1487>:禅親の子。日野富子から借銭したが返済ができなかったという。文正元年11月7日御師?1487年解任。 *禅祝()<>: *禅兆 *禅勝 *禅果()<>:禅尊?春松丸?禅予の長男? *禅光()<1502->:禅予の次男?幼名は梅寿丸。1502年12月13日就任。 *禅興(?-1601)<>:将軍足利義晴の養育係だった清光院と懇意だった。娘のおさこが豊臣秀次側室となる。弟に妙蔵院禅祐。1601/1/30死去。 *禅永()<-1584->:禅興の子。 *禅昌()<-1612>:禅永の子。豊臣秀次事件に連座。のち復権。1612年隠居して徳勝院を建立。北野社家日記を多く残す *禅意(1596-1636)<1612->:禅昌の子。 *禅珍()<-1641->:社法を制定。 *尚禅 *禅覚()<-1701->: *禅深()<-1736->: *禅章 *禅秦 *禅恒 *禅隆 *禅陳(資陳) *光子 *「北野社祠官筆頭松梅院の定着と豊臣政権 : 『北野社家日記』禅昌記の考察」[http://hdl.handle.net/2241/00146491] *「近世初期の北野社と南光坊天海-松梅院と宮仕の座配争論を中心に」[http://id.nii.ac.jp/1139/00000132/] [[category:京都府]]
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