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真宗大谷派八尾別院
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
真宗大谷派八尾別院
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'''真宗大谷派八尾別院'''(しんしゅうおおたには・やお・べついん)は、大阪府八尾市にある[[真宗大谷派]]の[[真宗大谷派の別院寺院|別院]]。寺号は'''大信寺'''。別格別院だった(大谷派寺院録)。明治初年、河内県庁が置かれた。 == 歴史 == [[東本願寺]]12代[[教如]]が1607年(慶長12年)に創建した。元々、[[西本願寺]]に付いた久宝寺御坊[[顕証寺]]を中心とする寺内町があったが、1606年(慶長11年)、年貢を巡っての役人と町民が対立し、一部の町民が東側に新たに町を設けた。これを東本願寺に付いた[[河内・慈願寺]]が支援し、教如が御坊を設けた。その後、13代宣如の8子である宣縁が2世住職となった。近世を通じて連枝が住職に入り、輪番制となったのは1885年(明治18年)のことであった。1660年(万治3年)現在地に移転し伽藍が整えられた。1788年(天明8年)、東本願寺が京都大火で焼失すると、御坊の本堂が京都に移築され、御影堂として利用された。堂宇は1799年(寛政11年)に返還された。明治初年、河内県が設置されたとき、対面所に県庁が置かれた。1953年(昭和28年)、本堂は突然、地鳴りのような轟音を立てて倒壊した。シロアリの被害であった。1967年(昭和42年)復興した。数少ない教如の名号筆「十字名号」が残されている。(木場明志監修、2012『別院探訪』真宗大谷派宗務所出版部) ==組織== ===住職=== *1[[教如]](1558-1614)<1607->: *2宣縁(1637-1672)<>:従因。宣如の四男。1637年(寛永14年)生。1646年(正保3年)得度。1672年(寛文12年)7月14日死去。36歳。智光院と号す。 *3琢性(1649-1700)<?-1678>:[[東本願寺]]16世。一如。1678年(延宝6年)東本願寺法嗣となる。 *4常智(1667-1717)<1681->:晴含。[[本統寺]]4世。1667年(寛文7年)生。1681年(天和1年)12月11日、大信寺住職となる。1717年(享保2年)2月24日死去。51歳。深広院(深厚院)と号す。 *5性含(1712-1745)<>:真智。常智の長男。1712年(正徳2年)生。1745年(延享2年)死去。明了院と号す。 *6真覚(1715-1761)<>:超芸。常智の次男。1715年(正徳5年)生。[[和泉・真宗寺]]16世を経て大信寺を継ぐ。1761年(宝暦11年)死去。円妙院と号す。 *達央(1776-?)<>:[[長浜別院]]7世。最勝院、超発院と号す。 *7大谷達智(1827-1885)<>:朗晶。本統寺5世。1885年(明治18年)5月9日死去。深量院と号す。 *8大谷達善尼(?-1867)<>:達央の室。達如の娘?。1867年(慶応3年)10月8日死去。超誓院(超世院)と号す。 *9大谷瑩心(1898-1937)<1930-1937>:[[船場本徳寺]]19世。大谷勝尊の子。1898年(明治31年)生。1918年(大正7年)得度。1924年(大正13年)本徳寺住職。1930年(昭和5年)大信寺住職を兼務。1929年(昭和4年)権僧正。1937年(昭和12年)11月5日死去。40歳。死去直前に権大僧正。広開院と号す。[https://dl.ndl.go.jp/pid/1186291/1/142] [[Category:大阪府]]
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