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木曽御嶽信仰
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
木曽御嶽信仰
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{|class="wikitable" style="width:800px;margin:0 auto;" |- | style="text-align:center;background-color:#ededed"|'''木曽御嶽信仰''' |- | *[[目次#日本編|日本編]] >> [[目次#神道|神道]] >> [[目次#信仰系譜|信仰系譜]] >> [[木曽御嶽信仰]] *[[目次#日本編|日本編]] >> [[目次#修験道|修験道]] >> [[目次#霊場・信仰系譜|霊場・信仰系譜]] >> [[木曽御嶽信仰]] |- |style="text-align:center;"| [[ファイル:Ontake C003 王滝御嶽神社 里宮08.jpg|300px]] [[ファイル:ontake-hi_001.jpg|300px]]<br> 左:王滝里宮 右:御嶽大神碑 <!-- |- | <googlemap version="0.9" lat="34.488448" lon="132.824707" type="map" zoom="6" width="800" height="500" controls="large"> http://maps.google.co.jp/maps/ms?hl=ja&ie=UTF8&vps=1&jsv=327b&brcurrent=h3,0x34674e0fd77f192f:0xf54275d47c665244&msa=0&output=nl&msid=208806612508013451037.00049d0477a8ef1823383 </googlemap> --> |} [[category:系譜記事]] ==概要== ==歴史== <!-- ファイル:ontake-hi_002.jpg|御嶽大神碑 --> ===木曽御嶽信仰以前の蔵王権現信仰と木曽御嶽山=== ====蔵王権現信仰==== <!-- 吉野が起源 詳しくは蔵王権現信仰を参照 修験道の主神 --> ====木曽御嶽山==== <!-- 中世の祭文が残る 38座 道者と呼ばれる人が登山 白河の伝説 --> ===木曽御嶽信仰の登場=== ====覚明による開山==== <!-- 覚明の経歴は伝説的なことが多く、異説も多く、よく分からない。 --> ====普寛による開山==== <!-- 普寛の影響は大きい。ある面において覚明を超える 講社の設立。 地元の協力の取り付け 御座の発明 天台宗 黒沢と王滝の対抗意識 --> ===御嶽講の形成=== ====普寛の弟子の動き==== <!-- 御嶽講の活動 地方ごとの動き 霊神御座 --> ====幕府による弾圧と公認運動==== <!-- 一心の殉教 護摩堂 一山による神社創建。 地方霊山の開山 --> ===木曽御嶽信仰の再編=== <!-- 神仏分離 御嶽教の設立 教派神道の活動 霊神碑の建立 --> ===現代の木曽御嶽信仰=== <!-- 木曽御嶽本教 霊神信仰の変質 --> ==信仰== ===祭神=== 木曽御嶽信仰における信仰の対象となる神は、'''御嶽大神'''こと'''御嶽山座王権現'''である。これは、[[修験道]]の主祭神である'''蔵王権現'''に由来する神格である。蔵王権現は修験道の地方伝播とともに各地の霊山に祀られたが、それらの山は御嶽(みたけ)と呼ばれることが多く、木曽御嶽山(おんたけさん)もその一つであった。 ====蔵王権現==== 御嶽山座王大権現の性格を知るうえで、その前提として'''蔵王権現'''について概説する<ref>この項目は鈴木昭英 昭和63「蔵王権現と仏教」『仏教と神々』大法輪閣を参照した。</ref>。 蔵王権現は修験道の主祭神である。権現の名が示すとおり、仏尊ではなく神祇である。中世に成立した縁起によると、白鳳年間に[[役行者]]が吉野の山上で仏の出現を祈願したとき、最初に釈迦が現れ、次に観音が現れ、後に弥勒が出現したが、役行者はいずれも拒否したところ、最後に岩盤より青黒忿怒の金剛蔵王が出現した。役行者はこれを歓んで、吉野蔵王堂(現在の[[大峯山寺]])を創建したとされる。 しかしながら、史料的な初出は中国後周(951-958)に成立した『義楚六帖』である。同書には「''日本国都城の南五百余里に金峯山あり、頂上に金剛蔵王菩薩あり、第一の霊異なり''」(原漢文)とある。これでは蔵王権現ではなく、金剛蔵王菩薩と記されているが、金峰山に祀られている仏尊であり、のちの蔵王権現であるに違いない。役行者が蔵王権現を出現させたという説話の所見は平安末期12世紀前半成立の『今昔物語集』である。'''金剛蔵王菩薩'''は胎蔵界曼荼羅に登場する仏尊であるが、名称を案ずるに蔵王権現の起源の一つであるようだが、図像的特徴が全く異なっている。 現在の蔵王権現の図像が成立したのは鎌倉時代である。蔵王権現の図像的特徴は次の通りである。一面三目二臂、青黒の忿怒、頭には三鈷冠を戴く。左手は剣印を腰に据え、右手は三鈷杵を持って高く上げる。左足は岩を踏み、右足は膝を上げて空中を踏む。これらの図像は'''金剛童子'''に由来すると考えられている。この図像が成立する以前の平安末期の蔵王権現像(三仏寺投入堂)では直立する姿となっている。 蔵王権現の本地仏は、[[釈迦如来]]、[[弥勒菩薩]]、[[千手観音菩薩]]とされる。蔵王権現は釈迦如来の教令輪身であり、金峰山は霊鷲山が日本に飛来したものとされた。末法思想が流行すると、蔵王権現は弥勒菩薩の化身とされ、金峰山は浄土とされた。貴族が吉野詣を行い、極楽往生を願ったのはこのためであった。当初は釈迦如来、弥勒菩薩、観音菩薩の各説が並立していたようだが、鎌倉時代に釈迦如来が過去、弥勒菩薩が来世、千手観音菩薩が現在を担当するものとして統合されたようだ。 ====覚明普寛以前の木曽御嶽山の祭神==== 次に覚明、普寛が中興する前の木曽御嶽山に座王権現に関する記録を記す。木曽御嶽山では、蔵王権現ではなく、座王権現と記されている。 1507年(永正4年)の史料によると、「御嶽山上座王権現六社」として王権現:大己貴命、日権現:少彦名命、八王子:国狭槌命、栗迦羅:火須勢理命、士祖権現:日本武命、金剛童子:伊弉諾尊が挙げられている。王権現が現在の剣ヶ峰頂上(3067m)にある奥社で、日権現が現在の王滝頂上(2936m)にある奥社である。ただし、現在の各奥宮が中世の祭祀を直接的に継承しているかどうかは明らかでない。一般的に蔵王権現の神名は一定せず、'''金山彦命'''や'''[[安閑天皇旧跡|安閑天皇]]'''あるいは'''櫛真智命'''とされることがあるが、'''大己貴命'''及び'''少彦名命'''の二神とされることも多い。御嶽山では、大己貴命及び少彦名命の二神としたようで、それが王権現と日権現の祭神だと考えられたのだろう。「座王権現」が六社の総称なのか、王権現(および日権現)を呼ぶのかはよく分からない。 天正の縁起に「座王権現と申は現世にてはみろく菩薩也、今生にては権現也、後世にては釈迦如来とげんじて」とある。現世、過去世、未来世の適用の仕方は異なっているが、前述の通り、釈迦如来や弥勒菩薩は吉野の蔵王権現の本地仏である。 ====木曽御嶽信仰==== [[ファイル:Daigen-gu (4).jpg|thumb|太元尊神(国常立尊)を祀る大元宮]] 木曽御嶽山では蔵王権現ではなく座王権現と表記し、その独自性を主張してきた。普寛はこれを継承して、さらに普寛独自の解釈を加えることにより、蔵王権現とは全く別の神格として御嶽山座王権現が成立した。明治になり、神仏分離を契機に、御嶽山座王大権現は'''御嶽大神'''と呼称されるようになった。 普寛は、座王権現を'''国常立尊'''だと解釈した。これは画期的なことであった。これ以降、従来の大己貴命、少彦名命の二柱に国常立尊が加えられて、三柱が御嶽山座王権現だと考えられるようになった。 国常立尊は、『日本書紀』において最初に登場する神祇であるが、[[吉田神道]]においては、万物の根源神であるとされ、'''太元尊神'''と呼称された。普寛は吉田神道を学んでいたらしい。御嶽山座王権現が太元尊神とされたことで、御嶽山座王権現は太元尊神の万物を統御する最高神の性格を付与された。詳しくは「'''天地開闢太元尊神国常立尊阿字所現忿怒身御嶽山座王大権現'''」などと呼ばれるようになった<ref>2008(平成20)『御嶽山王滝口 信仰資料拝見記』55頁</ref>。順明が木曽で組織した太元講の名称は、この御嶽山座王権現すなわち太元尊神の名称に由来する。この太元講は剣ヶ峰山頂に太元尊神像を奉納している。 また普寛は、御嶽山座王権現の本地を'''胎蔵界大日如来'''だと考えた。これも従来の信仰とは異なるところであった。御嶽山座王権現の「根本真言」は胎蔵界大日如来のそれである「アビラウンケン・ボロン・キリク」とされた<ref>2008(平成20)『御嶽山王滝口 信仰資料拝見記』56頁</ref>。いうまでもなく、大日如来は密教における最高存在であり、万物の宇宙そのものを神格化した仏尊である。 このようにして、座王権現は'''宇宙神的性格'''を与えられたのであった。 [[ファイル:Ontake-kyo-yamato-hongu 32.jpg|thumb|御嶽山大和本宮の神像]] また、御嶽山座王権現が従来の蔵王権現とは異なることは図像によっても表現された。上述のように蔵王権現は忿怒相の明王系の姿をしていたが、御嶽山座王権現はそれと大きく異なり、衣冠束帯姿で描かれている<ref>「御嶽山神影」『御嶽山王滝口 信仰資料拝見記』72頁</ref>。あるいは、日輪を背負った無冠の長髪の貴人の姿で描かれることもある。 大又三社の御嶽三神像の中神像は、衣冠束帯の立像で光背には日輪を背負っている。両手で笏をもっている。戦後に建立された王滝御嶽神社による田の原遥拝所の像もこの系譜に連なるものだと思われる。田の原遥拝所の国常立尊は、束帯のような服装の立像で、手は前に組み、袖の中に隠している。髪を肩まで垂らしている。輪光背を背にしている。 一方、御嶽教の国常立尊は、特徴的なものである。大和時代をイメージしたと思われる服を着用した雲上に立つ立像である。忿怒相で目は三つ。額には七本の光を放つ八咫鏡。髪を肩まで垂らしている。首には勾玉の輪をかける。両手は腹の前にあり、火の玉の地球を持つ。これは国常立尊による天地開闢の場面を表したものだという。そして光背に教団の紋が付けられている。 ====重要な神々==== 御嶽山座王権現に次ぐ重要な神々として、'''武尊山大権現'''、'''意波羅山大権現'''、'''八海山大頭羅神王'''、'''三笠山刀利天'''が挙げられる。いずれも普寛が開山した霊山の神である。 =====武尊山大権現===== [[ファイル:Hotakayama_002.jpg|thumb|武尊山山頂の日本武尊像]] '''武尊山大権現'''は上野の[[武尊山]]の神である。'''[[日本武尊]]'''とされる。武尊山(2158m)は山系に属さない独立峰である。山頂には日本武尊の銅像が祀られているが、神社は存在しない。山麓に[[武尊神社|里宮]]が祀られているほか、周辺に分社が多く見られるが、木曽御嶽信仰との関わりはほとんどない。木曽御嶽信仰においては、武尊山大権現は普寛による御嶽三神の一神であったが、その後、八海山大神に取って変わられたこともあって、目立たない存在となった。 =====意波羅山大権現===== '''意波羅山大権現'''は[[秩父御嶽山]](1081m)の麓にある[[意波羅山]]の神である。意波羅大明神、意波羅三社大権現、伊和羅三社大権現、意波羅天宮などとも表記される。秩父御岳山は普寛の出身地の秩父落合村の裏にある山である。三社大権現と呼ばれるのは、当初、秩父御岳山に意波羅天宮、刀利天宮、提頭羅天宮を祀る神社を建てたことに基づくと思われる<ref>『普寛行者道中日誌』</ref>。 御嶽山内では意波羅山大権現は王滝口三笠山に祀られた<ref>『御嶽の歴史』112頁</ref>。また王滝口八合目金剛童子に神使であると思われる猪の上に御幣を立てて表された意波羅天宮の銅像がある。通常、猪は摩利支天の神使とされるが、意波羅山大権現と摩利支天の関係は不明である。普寛による御嶽三神の一神であったが、その後、三笠山大神に取って変わられたこともあって、山中の神祠としては目立たない存在となった。 =====八海山大頭羅神王===== [[ファイル:Hakkaisan 003.jpg|thumb|八海山]] '''八海山大頭羅神王'''は越後[[八海山]]の神である。八海山大神とも呼ばれる。八海山(1778m)は越後山脈に連なる険しい霊山である。山麓には三つの里宮があるが、頂上奥社はない。霊神碑があるなど、木曽御嶽信仰の伝統が強く残る霊山である。 '''大頭羅神王'''は'''提頭頼〓善神'''に由来する神である。提頭頼〓(だいずらだ)善神は、四天王の'''持国天'''のことで、十六善神の一神でもある。神道の神としては、'''国狭槌尊'''とされる。『日本書紀』本書によれば、宇宙で二番目に出現した神であり、国狭槌尊は国常立尊の次に出現した神である。いつ、八海山大神が国狭槌尊とされたかは未確認だが、その意図は国常立尊の次ぐ根源性を持つ神として位置づけることにあったのではないだろうか。 八海山大頭羅神王は医療の神とされ、特に眼病を司る神とされる。そのため、八海山を祭る霊場には目に関する奉納物が多い。また水の神ともされる。黒沢口、王滝口、あるいは開田口のいずれの八海山大神も清水が湧出する場所であり、神水として神聖視されている。やはり眼病に効果があるとされる。 図像は、持国天に通じるがより定式化されている。持国天と同様に鎧を着けた中国風の武将の姿で、護法神の系譜にあることを印象付ける。右手には剣を持ち、腰のあたりに構える。左手には薬壺を持ち、胸の前に掲げる。顔面は忿怒相。持国天でも見受けられるように、光背には輪光背を背負い、上部と左右に炎がある。岩盤あるいは雲のうえに立つ。ちなみに三笠山大神も特徴としてはほぼ同様で、右手の持物が剣ではなく、槍となっており、左手の持物が薬壺ではなく、羂索を持っているのが違いである。八海山大神の神像は、黒沢王滝の八海山のほか、[[大又三社]]、[[御嶽教木曽大教殿]]、[[御嶽教大和本宮]]に祀られている。ただし越後の八海山尊神社においては、右手に剣、左手に薬壺を持つのは共通しているももの、武将姿ではなく、上古風の服を着た老人として表現されている。この神像は八海山山頂[[大日岳]]、山上遥拝所、[[八海山尊神社|里宮]]霊風殿に祀られている。 =====三笠山刀利天===== '''三笠山刀利天'''は上野の[[三笠山]]の神である。三笠山大神とも呼ばれる。三笠山は、現在の諏訪山(1549m)で日本三百名山の一つとして知られている。山内に三笠山大神を祀った祠がある。八海山、秩父御岳山、武尊山が空に聳え立つ霊山であるのに対して当山は山地の奥深いところにある。大小の山々が連なる山地のなかで、この山に見出された神格というのはどのようなものであったのだろうか。 刀利天とは、本来仏教では「'''〓利天'''」といい、須弥山の頂上にある世界のことであり、帝釈天が住む天である。しかしながら、木曽御嶽信仰においては、一つの神格として信仰されるようになった。どのような関係にあるのかは不明である。 神道の神としては、'''豊斟淳尊'''とされる。『日本書紀』本書によれば、豊斟淳尊は宇宙で三番目に出現した神であり、国狭槌尊の次(国常立尊の次の次)に出現した神である。いつ、三笠山大神が豊斟淳尊とされたかは未確認だが、その意図は国常立尊に次ぐ根源性を持つ神として位置づけることにあったのではないだろうか。 三笠山大神の図像的特徴は、八海山大神とほぼ同じである。八海山大神は右手に剣を持っているが、三笠山大神は右手に槍を持っており、左手の持物が薬壺ではなく、羂索を持っているのが異なる特色である。三笠山大神の神像は、黒沢王滝の三笠山のほか、大又三社、御嶽教木曽大教殿、御嶽教大和本宮に祀られている。 =====三神===== [[ファイル:Ontake-hi 002.jpg|thumb|御嶽三神碑]] 現在の木曽御嶽信仰においては、'''御嶽大神'''、'''八海山大神'''、'''三笠山大神'''の三神が一組で祀られることが多い。御三方などとも言われる。この三神が御嶽を代表する神だとされている。しかしながら、普寛の当初にはこの組み合わせは存在しなかった。 現存する普寛筆の神号軸によると、中央に「御嶽山座王大権現」、向かって右に「武尊山大権現」、向かって左に「意波羅山大権現」とある<ref>『普寛堂宝物拝見記』</ref>。意波羅三社大権現<ref>『丸江元講宝物拝見記』</ref>との表記のものもある。別の者が記したものには「武尊山武尊大権現」、「伊和羅三社大権現」とあるものもある<ref>『普寛堂宝物拝見記』</ref>。このように普寛は御嶽、八海山、三笠山の組み合わせではなく、御嶽、武尊山、意波羅山を一組として考えていたことが分かる。 普寛の弟子、金剛院順明筆による神号軸によると、向かって右に「八海山大頭羅神王」、向かって左に「意波羅三社大権現」とあり<ref>『普寛堂宝物拝見記』</ref>、武尊山に代わって八海山が向かって右側に祀られるようになった。 さらに普寛の弟子、広山の落款がある画像には、中央に御嶽、向かって右に八海山、向かって左に三笠山の神像が描かれている<ref>『王滝拝見記』</ref>。この組み合わせは、普寛最後の弟子である一心の筆による神号軸に多く見られ、中央に「御嶽山座王大権現」、向かって右に「八海山大頭羅神王」、向かって左に「三笠山刀利天宮」となっている<ref>丸江元講宝物拝見記</ref>。 以上のことから、普寛のときには御嶽、武尊山、意波羅山の組み合わせだったものが、順明は武尊山を八海山に変え、広山は意波羅山を三笠山に変え、一心はこの形式を普及させたものとの推測が成り立つ。 ====御嶽山の神仏==== [[ファイル:Ontake-san (15).jpg|thumb|赤岩巣の覚明碑。「勢至」の文字が確認できる。]] [[ファイル:Ontake A001 黒沢御嶽神社 奥宮01.jpg|thumb|黒沢奥宮の向かって右に白川大神像がある。]] [[ファイル:Marisiten-sya_02.jpg|thumb|摩利支天社]] ・数多くの神仏のなかでも特に重視されるのは、'''[[不動明王]]'''である。不動明王は御嶽行者を守護する仏尊とされ、'''普寛'''、'''泰賢'''、'''順明'''は不動明王の化身だったとされる。普寛を通力不動、泰賢を神勅不動、順明を神力不動として信仰することも行われていた。また木曽御嶽信仰において広く行われる御座儀礼は、普寛が不動明王より直に伝授されたものとされる。木曽御嶽信仰に限ることではないが、滝場には必ず不動明王を祀られる。そのほか中央不動など不動明王を祭る。不動明王の眷属である[[三十六童子]]が[[成田山]]より勧請されて山頂[[一ノ池]]のお鉢に祀られている。 ・行者との関係でいえば、'''勢至菩薩'''も注目できる。御嶽山開山の覚明は、勢至菩薩の化身(あるいはその化身である月天子の化身)とされたのであった。赤岩巣の覚明碑には「'''御嶽山勢至覚明大菩薩'''」とある。 ・'''阿留摩耶天'''は重要な神格である。木曽御嶽信仰独自の神格である。天狗とされるが、その詳細はよく分からない。継子岳II峰に[[阿留摩耶天]]を祭る祠がある。 ・'''白川大神'''も重要な神祇である。白河大神、白川権現ともいう。白川大神は、[[四国八十八所霊場]]の第38番札所[[金剛福寺]]にて[[覚明]]に御嶽山開山を命じたとされる神である。もとは[[御嶽山三十八座]]の一座で、白川地区に鎮座する[[白川神社]]がそれである。'''白川重頼'''のことともいう。山内では黒沢口六合目に霊場がある。社殿はないが、石碑や神像が建てられている。また特筆すべきことには、白川大神は四国の御嶽講の守護神とされている。これは覚明が白川大神から御嶽山開山の託宣を受けたのが四国巡礼の最中だったことにちなむものである。1861年(文久1年)には四国の御嶽講の開祖の一人とされる西覚らが登拝中、白川大神は託宣を下して、四国の行者の守護神となった。1864年(元治1年)8月15日、阿波に[[白川神社]]が創建された。なお図像は衣冠束帯姿で現される。黒沢口六合目の神像は衣冠姿で馬に乗っている。剣ヶ峰頂上には衣冠姿の立像が奥宮横に祀られている。[[御嶽教木曽大教殿]]境内にも衣冠姿の神像がある。 ・'''摩利支天'''は、御座行法の守護神とされる<ref>『木曽のおんたけさん』227</ref>。御嶽山山上のピークの一つが[[摩利支天山]]と名付けられ、山頂近くの「摩利支天乗越」というところに摩利支天社が祀られている。また王滝八合目の金剛童子の側に銅像が祀られている。一心講では「表不動 裏摩利支天」と呼ばれるほど重視しており、丸江講の講祖盛心は一心講弾圧のあと、弾圧を避けるために一社の神職となったが、そのときに創建した神社が[[摩利支天社]]であった。図像としては、王滝八合目の銅像では、三面六臂の忿怒相として表現されている。 ・'''龍神'''は、山上にある五つの池に住む神として信仰されている。'''白龍、黒龍、赤龍、青龍、黄龍'''の五龍神である。水神である。 ・このほか、山内に祀られている神仏としては、大江大権現、十二大権現、金剛童子がある。 ====霊神==== ==霊山と社寺== *[[木曽御嶽山]] **[[木曽御嶽山#山上|山上]] **[[木曽御嶽山#黒沢口|黒沢口]] **[[木曽御嶽山#王滝口|王滝口]] **[[木曽御嶽山#木曽福島周辺|木曽福島周辺]] **[[木曽御嶽山#飛騨地域|飛騨地域]] *[[木曽御嶽信仰の霊山]] **覚明・普寛開山の霊山 ***[[恵那山]] ***[[両神山]] ***[[三笠山]] ***[[意波羅山]] ***[[八海山]] ***[[武尊山]] **行者開山の霊山 ***[[木曽駒ケ岳]] ***[[甲斐駒ケ岳]] ***[[北辰岳]] ***[[鶏頂山]] ***[[巻機山]] ***[[大真名子山]] ***[[相馬山]] *[[木曽御嶽信仰の行者旧跡]] **[[覚明旧跡]] **[[普寛旧跡]] **[[木曽御嶽信仰の行者旧跡|泰賢・一心・一山旧跡]] *[[木曽御嶽信仰の社寺]] *[[木曽御嶽信仰の霊神信仰]] ==組織== *[[木曽御嶽信仰の教団]] **[[御嶽教]] **[[木曽御嶽本教]] *[[御嶽講|木曽御嶽信仰の講社]] **[[御嶽講#中部系|中部系の御嶽講]] **[[御嶽講#関東系|関東系の御嶽講]] **[[御嶽講#木曽谷|木曽谷の御嶽講]] ==画像== ==参考文献== *1990(平成2)「御岳山信仰と丸境巴講」境町の文化財を守る会『会誌』18 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木曽御嶽信仰
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