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勝興寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
勝興寺
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{|class="wikitable" style="width:350px;" align=right |- |style="text-align:center;background-color:#ededed" colspan="2"|'''勝興寺'''<br>しょうこうじ <!-- |- |style="text-align:center;" colspan="2"|[[|350px]] --> |- |style="background-color:#ededed;width:100px;"|概要 | |- |style="background-color:#ededed"|奉斎 |阿弥陀如来 |- |style="background-color:#ededed"|所在地 |富山県高岡市伏木古国府17-1 |- |style="background-color:#ededed"|所在地(旧国郡) |越中国射水郡 |- |style="background-color:#ededed"|所属(現在) |浄土真宗本願寺派 |- |style="background-color:#ededed"|格式など | |- |style="background-color:#ededed"|関連記事 | *[[一向一揆中核寺院]] |- |style="text-align:center;" colspan="2"| <googlemap version="0.9" lat="36.792722" lon="137.052984" type="map" zoom="15" width="350" height="300" controls="large"> 36.792326, 137.052716, 勝興寺 </googlemap> |} [[category:個別記事]] [[category:富山県]] ==概要== '''勝興寺'''は、越中の[[浄土真宗]]の拠点となった[[蓮如]]ゆかりの寺院。土山御坊。現在の境内は越中国府跡とされる。 全国屈指の巨大本堂が特徴で、多くの文化財を有する。越中触頭として隆盛を誇った。 ==奉斎== [[阿弥陀如来]] == 由緒 == 由緒によると、蓮如が1471年(文明3年)に[[近松御坊]]を出て、北陸に向かい、[[本泉寺|加賀二俣御坊]]に滞在した後、越中国砺波郡蟹谷庄土山にて一坊を建立した。これが土山御坊、のちの勝興寺の起源である。 しかし、実際には以下のように考えられている。本願寺6代の巧如の次男の如乗は、室町時代に瑞泉寺に下り、北陸布教の拠点とした(のち加賀本泉寺に移り住んだ)。如乗は、土山に寺院を建立したのが始まりという。如乗の死後、土山御坊は内室の勝如尼の自坊となったが、 のち如乗の娘婿で加賀本泉寺を継承した蓮如三男の蓮乗は、土山御坊に実弟の蓮誓を迎え、さらに瑞泉寺以外の坊主衆を土山御坊の与力とさせたという。 <ref>以上、東四柳史明による。</ref> == 歴史 == {| |- | <googlemap version="0.9" lat="36.706963" lon="136.914368" type="map" zoom="10" width="400" controls="large"> http://maps.google.co.jp/maps/ms?hl=ja&ie=UTF8&vps=1&jsv=327b&brcurrent=h3,0x34674e0fd77f192f:0xf54275d47c665244&msa=0&output=nl&msid=208806612508013451037.0004c93de4fb68015f6e9 </googlemap> | <googlemap version="0.9" lat="37.990751" lon="138.385162" type="map" zoom="10" width="400" controls="large"> http://maps.google.co.jp/maps/ms?hl=ja&ie=UTF8&vps=1&jsv=327b&brcurrent=h3,0x34674e0fd77f192f:0xf54275d47c665244&msa=0&output=nl&msid=208806612508013451037.0004c93de4fb68015f6e9 </googlemap> |- |土山御坊旧跡 |上:順徳天皇陵 下:佐渡勝興寺開基・彦成親王墓伝承地(このあたりに佐渡勝興寺があったと思われる) |} === 中世 === 1494年(明応3年)に高木場(南砺市高窪)に移転。蓮誓は次男実玄に土山御坊を譲った。1517年(永正14年)に順徳天皇の勅願で、その皇子彦成王(善空房信念)が親鸞に帰依して創建した「殊勝誓願興行寺」([[佐渡勝興寺]])の寺号を継承し、「勝興寺」と称す。しかし、守護大名富樫政親に焼き討ちされて、1519年(永正16年)に小矢部安養寺に移る。ここで城郭のような伽藍をつくる。この年、勝興寺実玄は、本来、傍系の「一家衆」になるはずが特例で格上の「一門衆」に列せられた。これによって瑞泉寺とともに越中の中心寺院であることが明示された。 しかしながら、越中の浄土真宗は、加賀本泉寺の支配下にあった。ところが、1531年(享禄4年)、本泉寺など本願寺勢力と地元門徒の内乱で、本願寺勢力が敗退すると、越中の真宗教団は、加賀の支配を抜けて、独立した。 1546年(天文15年)、小矢部南蟹谷にある松尾神社の知行を買い取り、領主的地位を築き始める。 1560年(永禄3年)本願寺が准門跡になったのに合わせて、勝興寺も院家となった。 織田信長は石山合戦で和睦したのにもかかわらず、石黒成綱に命じて焼き討ち。織田信長死後の不安定な情勢の中、治安安定を目論む佐々成政の要請により、1584年(天正12年)、古国府城の寄進を受け、現在地に移転(まもなく佐々成政は豊臣秀吉に降伏)。 === 近世 === 1585年(天正13年)、前田利家が領主となると、勝興寺に庇護を与えた。1588年(天正16年)には50石の寺領を与えた。 前田家との関係を強め、1618年(元和4年)、75石に加増。さらに越中の浄土真宗西本願寺の末寺の触頭となった。 1768年(明和5年)に11代藩主となった前田治脩は、勝興寺の僧であった。 通坊(つうぼう)や掛所などと呼ばれる出張所も設置された。1598年(慶長3年)、石動の門徒の要請により石動通坊が設置された(平成23年廃絶)。 また蓮如建立とされる動清水精舎も通坊とされ、陀羅尼寺村(現・富山市上栄)から富山城下に移転し、市街地の中心の一画を担った。この通坊は、明治の大教宣布運動のなかで、廃絶となり、富山県中教院となった。現在、勝興寺支坊・正興寺が残っている。 ==境内== 本堂 現在の勝興寺本堂は、1795年(寛政7年)に前田治脩の寄進により建てられたもので、1760年(宝暦10年)造営の京都西本願寺本堂を模範としている。全国屈指の大規模本堂である。真宗寺院は江戸時代中期から建て替えに伴い、規模を拡大し、内部を荘厳化する傾向にあるが、その特徴を顕著に表している。 御内仏 寺族専用の仏堂。 御霊屋 前田治脩、前田斉広の霊を祀る。 京都興正寺から移築された唐門や、式台門、書院、大広間などがある。 ==画像== <gallery perrow="3"> </gallery> ==参考文献== *東四柳史明「戦国期越中本願寺教団と勝興寺」[http://www2.kanazawa-gu.ac.jp/openlecture/H23/08.pdf] *見瀬和雄「勝興寺と前田家?近世統一政権の成立と勝興寺」 *高木秋生「戦国大名が注目した一向宗の拠点勝興寺」 ==脚注== <references/>
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