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由義宮
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
由義宮
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'''由義宮'''(ゆげのみや)は、河内国若江郡(大阪府八尾市)にあった副都。[[称徳天皇]]時代、法王[[道鏡]]を出した[[弓削氏]]の故郷に置かれた。'''西京'''と定められたことから、[[平城京]]や[[平安京]]のような都市の建設が計画されていたという説がある。中心となる宮殿に隣接する形で、巨大な塔を備える[[弓削寺]](由義寺)があったようだが、いずれも遺構は発見されていない。平成28年(2016)には、遺物とみられる大量の瓦が出土した。 == 歴史 == 『続日本紀』によると、765年(天平神護1年)10月29日、前年に重祚した称徳天皇は、紀伊行幸の帰路、由義宮の前身と思われる'''弓削行宮'''に立ち寄った。翌日には[[弓削寺]]に参拝。閏10月1日には弓削寺と[[知識寺]]に食封を与えている。そして2日、弓削行宮で道鏡を'''太政大臣禅師'''に任命した(のち法王となる)。宇佐神託事件のあった769年(神護景雲3年)の10月7日から2回目の行幸。滞在は23日間におよび、同月30日には'''由義宮'''と名付けた上、'''西京'''に定め、河内国に河内職を設置し、都に準ずる特別行政区とした。また19日には[[河内・龍華寺]]で市を開かせている。'''造由義大宮司'''、'''造由義寺司'''が設置され、本格的な都市建設が計画される。弓削寺は由義寺と書かれるようになる。そして翌年4月5日に称徳天皇行幸のもと、由義寺の塔が竣工した。この時の行幸でも40日近く滞在しており、天皇の由義宮重視の姿勢が分かる。しかし、同年8月に称徳天皇は崩御。建設計画はストップし、やがて荒廃したらしい。河内職もまもなく廃止された。 == 一覧 == *[[弓削寺]]:由義寺とも。 *[[由義神社]]:「由義宮旧址」碑がある。 *[[弓削神社]]: *[[河内・龍華寺]] *[[渋川神社]] *[[智識寺]] [[Category:大阪府]]
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