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法華寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
法華寺
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'''法華寺'''(ほっけじ)は、奈良県奈良市にある、[[光明皇后]]ゆかりの[[南都仏教]]の[[尼門跡]]・[[南都仏教の本山寺院|本山級寺院]]。本尊は[[十一面観音]]。[[官寺]]二十五大寺の一つ。[[総国分尼寺]]。[[御由緒寺院]]。[[叡尊]]の復興で[[戒壇]]が設けられ、近現代では[[真言律宗西大寺派]]門跡寺院だったが、離脱して'''光明宗'''を名乗る。[[海龍王寺]]が隣接。大和国添下郡。'''法華滅罪之寺'''。'''法華寺門跡'''。'''氷室御所'''。(参考:同名寺院[[法華寺 (同名)]]) ==歴史== 天平17年(745)5月11日の創建とされる(続日本紀)。この場所は[[藤原不比等]]の邸宅だったが、のちその娘の[[光明皇后]]の宮殿となった。 初期の伽藍の様子は不詳。本尊像は光明皇后の姿を写したものと伝える。 延暦元年(782)頃に伽藍が完成したらしく造法華寺司が廃止。近くには[[阿弥陀浄土院]]も建てられた。 光明皇后が空風呂を立て、貧者や病者を世話したと言われる。一千人目の病者を皇后が体を洗うと、病者は光を放ち阿閦如来となったので[[阿閦寺]]に祀ったという。 平安時代には衰退。昌泰元年(898)に御幸した[[宇多上皇]]が荒廃ぶりを観て嘆いている(扶桑略記)。 治承4年(1180)、平重衡の南都焼討で焼失。 東大寺大勧進の[[重源]]が堂塔を修復し復興の端緒を開いた。 本格的には寛元3年(1245)、[[西大寺]][[叡尊]]が復興。 伽藍を再建し、西大寺末となった。[[戒壇]]も建てられたという。室町時代には[[興福寺]]末となる。 応永15年、西塔焼失。 明応8年、兵乱で被災。永正3年の兵乱で大被害を受けた。 永禄10年(1567)、松永久秀の兵乱で東大寺などと共に焼失。 [[豊臣秀吉]]の検地で寺領220石となり、江戸時代も維持された。 慶長元年、地震で被災。慶長6年(1601)、豊臣秀頼が再建。 宝永4年(1707)、天平時代の遺構の東塔が焼失。 門跡寺院制度は、明治維新で一旦廃止となったが、のち復活し、当寺は、明治21年に「[[御由緒寺院]]」として門跡寺院同様の待遇となった(『皇室と寺院』)。 西大寺末を離れ、単立寺院となり、光明宗を称する。 (国史大辞典、日本歴史地名大系) ==伽藍== *本堂 *護摩堂 *横笛堂 *浴室: *宇奈陀理神社:鎮守。今は独立の神社。 *法華寺宮墓地 == 組織 == ===住職=== 叡尊復興以後。長老と称す。 *1慈善(1187-?):中興1世。[[叡尊]]の弟子。 *2如円(生没年不詳):中興2世。[[東大寺]]の聖守、円照の母。 *3釈念(?-1269) *4慈念(1213-1298) *5智恩(1225-1300) *6妙源(1224-1302) *7真恵(1229-1304) *8妙遍(1238-1321) (『東洋文庫 感身学正記』より) ===江戸時代=== *永亨女王(1657-1686):[[後水尾天皇]]皇女。本務は[[大聖寺門跡]]。歓喜寺宮。本元院。 *幾子女王(1737-1764):[[閑院宮]]直仁親王王女。高覚真如。 ===近代=== *近衛高鳳(1852-1895):嘉永5年10月19日生。安政5年入寺。明治28年8月死去。著書に『伊予下りの記』。(『近代の西大寺と真言律宗』) *近衛高尊():近衛篤麿の養女。 *久我高照(1921-2011)<1939-2011>:久我常通の八女。俗名は素子。昭和11年法華寺に入り得度。西大寺と法隆寺で学ぶ。昭和15年門跡となる。(『郷土歴史人物事典奈良』) *樋口教香(1952-)<2013->: [[category:奈良県]]
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