ようこそ『神殿大観』へ。ただいま
試験運用中
です。
喜光寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
喜光寺
のソース
移動:
案内
,
検索
以下に示された理由により、このページの編集を行うことができません:
この操作は、
利用者
のグループに属する利用者のみが実行できます。
ページ
名前空間にあるページを編集する権限がありません。
このページのソースを閲覧し、コピーすることができます:
'''喜光寺'''(きこうじ)は、奈良県奈良市(旧[[平城京]]内)にある[[行基]]ゆかりの[[南都仏教]]寺院。本尊は[[阿弥陀如来]]。[[菅原氏]]の氏寺。[[行基建立四十九院]]の一つで、行基の没地という。行基が[[東大寺大仏殿]]を造営する前に試しに本堂を建てたとされる。中世には[[興福寺一乗院]]末となり、[[一乗院宮喜光寺墓地]]が隣接する。また[[叡尊]]が復興して[[西大寺]]末にもなる。鎮守は、[[菅原天満宮]]。 現在は[[法相宗]][[南都仏教の本山寺院|別格本山]]。[[東大寺関連旧跡]]、[[興福寺関連旧跡]]、[[薬師寺関連旧跡]]。'''菅原寺'''、'''菅原喜光寺'''、'''歓喜光寺'''、'''歓喜光律寺'''。山号は清涼山。 == 歴史 == ===古代=== 『菅原寺記文遺戒状』では715年、元明天皇の勅願で創建。 『行基年譜』では721年に寺史乙丸が自宅を寄進し、翌年2月10日に起工したとある。 平城京右京三条三坊に当たる。 元々は[[土師氏]]、[[菅原氏]]の氏寺で、周辺は一族の拠点となった地。[[菅原天満宮]]が近くにある。 菅原の地には喜光寺に先立ち、母を世話した[[佐紀堂]]があったという説もある。 748年、[[聖武天皇]]が行幸した際、本尊の阿弥陀如来の眉間から光が放たれたため、天皇から歓喜光寺の名を与えられたという(『行基菩薩伝』)。 749年2月2日、行基は喜光寺東南院で死去した。 ===中世=== 1275年10月、[[一乗院門跡]]の信昭は[[西大寺]][[叡尊]]に喜光寺復興を託した。律寺となり叡尊門下の性海が入った。 1283年2月8日、叡尊が大般若経転読を行った(『興正菩薩御教誡聴聞集』)。 一乗院の隠居寺となり、信昭、覚実、良昭、良兼が喜光寺に隠棲した。 隣接地には[[一乗院宮喜光寺墓地]]がある。 1499年12月18日、攻めてきた赤沢朝経の軍勢が法華寺や西大寺と共に焼失させた。 1544年頃に現在の金堂を再建。 ===江戸時代=== 1602年、[[徳川家康]]から朱印地30石を寄進された。 1730年、住職寂照が行基像を造立した。この像は西大寺に移されて現存。 ===近現代=== 明治元年、神仏分離令にあたり、住職が復飾神勤し、[[菅原天満宮]]の神職を名乗ったため地元を巻き込み混乱。 のち西大寺末を離れたらしい。(『近代の西大寺と真言律宗』) 1897年、[[薬師寺]]末になる(日本大百科全書)。 1969年、発掘調査で基壇跡や門跡が確認されたが、伽藍の全体像は分かっていない。 日本歴史地名大系、国史大辞典 ==伽藍== *金堂:本堂。阿弥陀如来を祀る。建物は室町時代の1544年の再建。「試みの大仏殿」と呼ばれる。 *行基堂:2014年建立。行基像は旧竹林寺像(唐招提寺蔵)の複製。 *南大門:2010年再建。 *弁天堂:宇賀神を祀る。 *[[菅原天満宮]]: *[[一乗院宮喜光寺墓地]]: *東南院:行基の没地。 *[[長岡院]]:近くにあったらしい。 ==組織== ===中世〜近世=== 喜光寺長老を称する *[[叡尊]]():中興。 *性海(1235-?):覚証房。叡尊の側近で著作が多い。同じ叡尊門下の如性房性海とは別人 *寂照(生没年不詳):江戸時代の住職。行基像を造立。、 *尊成(生没年不詳):復飾して菅田英直と名乗る。神職となり、神職を解任された後も喜光寺に住み続けたため混乱した。 ===近現代=== *山田法胤 ==資料== ===典籍=== *『菅原寺記文遺戒状』 *『清涼山歓喜光律寺略縁起』:『清涼山歓喜光律寺略縁記』 *『喜光寺之記』 ===文献=== *1969『喜光寺旧境内緊急発掘調査報告書』 [[category:奈良県]]
喜光寺
に戻る。
表示
ページ
議論
ソースを表示
履歴
個人用ツール
案内
神殿大観 メイン
神殿大観 総目次
おまかせ表示
検索
ツールボックス
リンク元
関連ページの更新状況
ファイルをアップロード
特別ページ