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法隆寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
法隆寺
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'''法隆寺'''(ほうりゅうじ)は、奈良県生駒郡斑鳩町にある、[[聖徳太子]]ゆかりの、[[南都仏教]]の[[奈良仏教の本山寺院|本山寺院]]。[[法相宗]]系[[聖徳宗]]総本山。本尊は[[釈迦如来]]。[[斑鳩宮]]の西隣に創建された。[[官寺]]七大寺の一つで、飛鳥時代を代表する[[古代寺院]]であり、現存世界最古の木造建築。太子信仰の中心で、宗派を超えた尊崇の対象となり、多くの高僧が参詣している。[[聖徳太子建立四十六寺]]の一つ。[[修験道]][[当山派]]の[[正大先達]]の一つ。本坊は[[法隆寺西園院|西園院]]。鎮守は、[[斑鳩・龍田神社]]。[[法隆寺関連旧跡]]も参照。'''斑鳩寺'''。(参考:同名寺院[[法隆寺_(同名)]]) == 歴史 == ===古代1飛鳥時代〜奈良時代=== 推古15年(607)、推古天皇と聖徳太子が創建したというが異説もある。 『日本書紀』には前年に水田を「斑鳩寺」に寄進したとの記事があり、7世紀初頭に建てられたことは確実とみられる。 推古30年2月22日に聖徳太子は死去。皇極2年(643)、蘇我入鹿が斑鳩宮を襲撃し山背大兄王の一族を滅ぼした。 『日本書紀』には天智9年4月30日に伽藍全焼を伝えるが再建のことを記さないため、明治には再建非再建論争が起こったが若草伽藍跡の発見で再建説が確定した。現在の伽藍は、天武持統朝から和銅4年(711)頃の造営と推定されている(国史大辞典)。塔を西、金堂を東とする法隆寺式伽藍。 天平19年に編纂された『法隆寺伽藍縁起並流記資財帳』が現存し、当時の寺の様子がよく分かる。 天平11年、行信が斑鳩宮跡に上宮王院を創建。太子等身と伝える観音像を祀った。夢殿を中心とする独立した寺院だったがやがて東院として法隆寺に統合された。 天平宝字5年(761)には『東院縁起資財帳』が編纂された。 ===古代2平安時代=== ===中世=== 平安時代後期、太子信仰が高まると御影像の造立や忌日法要の聖霊会、三経義疏の講讃が行われるようになった。 また中世、[[興福寺]]の支配下に入り、住職に当たる別当職は興福寺僧が務めるようになった。 そのためもあって、法相宗の代表的な寺院の一つとして、唯識研究が盛んとなり、宗祖[[基]]の忌日法要である慈恩会も始まった。 室町時代の『太子伝玉林抄』によると、末寺として[[中宮寺]]、[[法起寺]]、定林寺、妙安寺、[[新堂寺]]があった。 ===近世=== 天正年間、[[豊臣秀吉]]の治世下で寺領を削減され、1000石となる。 慶長年間、豊臣秀頼が伽藍修復。 江戸時代、徳川綱吉と桂昌院の寄進で修復。 ===近代=== 上知令で寺領を没取され、財源を失ったが明治11年(1878)、皇室に寺宝を献納した下賜金で寺院運営を保てた。 明治5年10月5日、政府は小規模な宗派は大教団に所属するように命令したため、翌年8月〜9月頃に[[単称真言宗]]に属した。明治11年5月20日、同じく真言宗に属した[[西大寺]]、[[薬師寺]]、[[唐招提寺]]や、[[仁和寺]]、[[大覚寺]]と共に真言宗西部として独立するが翌年4月30日、再び単称真言宗に併合。明治14年に神仏分離で廃絶となった[[興福寺]]が復興すると、翌明治15年6月26日、真言宗から独立して興福寺と共に[[単称法相宗]]を設立した。 昭和9年から大工事が始まった。 ===現代=== 昭和24年、修復中の金堂が炎上。壁画が失われた。 翌年、単称法相宗を離脱して[[聖徳宗]]を設立した。同年9月22日、佐伯定胤長老が法相宗離脱の意向を突如発表。11月12日、管長・本山住職全員が欠席した異例の宗会で定胤長老が聖徳宗独立を宣言。翌日の慈恩会にも興福寺と薬師寺は出仕を拒んだ。15日、法隆寺聖霊院で独立奉告式。昭和26年3月4日、改めて開宗奉告式。 == 伽藍 == ===若草伽藍=== ===西院=== *金堂 *五重塔 *大講堂 *[[法隆寺聖霊院|聖霊院]]:聖徳太子の御影堂。元は僧房東室の南端部だが、平安時代末の保安2年(1121)に僧房3室を改造して聖霊院とした。弘安7年(1284)、梁間を広げて建て替えられ、独立した仏堂として現在の姿となった。聖徳太子の随身として山背王・殖栗王・卒末呂王の王子3人と師の恵慈も祀る。 *三経院 *上御堂 *西円堂 *薬師坊 *百済観音堂 *食堂 *綱封蔵 ===東院=== [[斑鳩宮]]の跡地で、元は上宮王院という別の寺だった。 *夢殿:東院の本堂に当たる八角円堂。現在の堂は天平11年の創建前後に建てられた建造物。夢殿の名は、元々は聖徳太子がたびたび瞑想に入ったとされる伝説的な殿舎の名。平安時代初期からこの堂の呼称とされるようになった。寛喜2年(1230)の修復で屋根の勾配が急になっている。行信、道詮の像も祀られている。 *礼堂: *舎利殿: *伝法堂:講堂に当たる。 == 組織== ===子院=== *[[法隆寺西園院|西園院]]:本坊。寺務所が置かれている。 *地蔵院 *宝光院 *弥勒院 *実相院:裏に若草伽藍跡がある。 *普門院 *宝珠院 *[[法隆寺中院|中院]]:聖徳宗由緒寺院。 *円成院:上御堂の裏にある。 *律学院 *宗源寺 *福生院 *福園院:聖徳会館がある。 *[[法隆寺北室院|北室院]]:東院の北側にある。聖徳宗由緒寺院。 *阿弥陀院:廃絶。慶長19年11月16日、徳川家康が大阪冬の陣の時に立ち寄っている(『駿府政事録』)。東照宮が祀られていたが神仏分離で[[斑鳩神社]]に合祀。 *薬師坊 *閼伽井坊 *宝生院 *円明院 *徳蔵院 *中院 *西方院 *〓福院 *福厳院 *薬師院 *吉祥院 *西南院 *金光寺 *椿蔵院 *宝蔵院 *福智院 *北之院 *知足院 *弥勒院 *宝光院 *政蔵院 *松立院 *安養院 *明王院 *威徳坊 *金剛院 *西之院 *橘坊 *阿弥陀堂 *華苑院 *普門院 *和喜坊 *多聞院 *中道院 *仏餉院 *瓦坊 *政南院 *東蔵院 *地福院 *金蔵院 *尺迦院 *林賢坊 *福生院 *発志院 *律学院 *金光院 *西東住院 *中東住院 *持宝院 *文殊院 *蓮光院 *賢聖院 *成福院 *福園院 *宝寿院 *橋坊 *法花院 *蓮池院 *十宝院 *清浄院 *善住院 *北室院 *修南院 *常楽寺 ===住職=== 法隆寺別当。 *1:延鳳 *2:永超 *3:慈願 *4:禎杲 *5:長延 *6:寛延 *7:観理(894-974):三論宗・真言宗の僧。延〓の弟子。東大寺別当54世。醍醐寺座主8世。法隆寺別当7世。東南院院主(?)。(略歴は[[醍醐寺#組織]]を参照) *8:法縁(909-981):東大寺別当55世・56世。醍醐寺座主9世。法隆寺別当8世・10世。(略歴は[[醍醐寺#組織]]を参照) *9:湛照(909-987):東大寺別当57世?堪照? *10:法縁(909-981):再任。 *11:法蓮 *12:実算 *13:長隆 *14:忠教 *15:仁階 *16:長耀 *17:観峰 *18:延〓 *19:永照 *20:仁満 *21:久円 *22:親誉 *23:琳元 *24:長照 *25:彦祚 *26:公範:興福寺別当28世。 *27:慶深 *28:能算(?-1094):[[宿曜道]]にたける。1062年(康平5年)[[西大寺]]別当31世。1075年(承保2年)から没年まで法隆寺別当。1094年(嘉保1年)6月27日死去。 *29:永超(1014-1095):法相宗の僧。橘俊孝の子。[[興福寺]]主恩に学ぶ。1059年(康平2年)維摩会講師。興福寺末寺の[[斉恩寺]]に住す。1094年(嘉保1年)12月に法隆寺別当となる。翌年12月29日死去。82歳。 *30:延真 *31:定真 *32:経尋:興福寺別当33世。 *33:覚誉:興福寺別当36世。 *34:覚晴:興福寺別当37世。 *35:信慶 *36:覚長 *37:賀宝 *38:慧範 *39:範玄:興福寺別当46世。 *40:覚弁 *41:成宝(1159-1227):藤原惟方の子。勧修寺門跡。[[元興寺]]別当、[[東大寺]]別当102世・104世、[[大安寺]]別当。[[東寺]]長者。[[高野山]]に隠退。(略歴は[[勧修寺#組織]]を参照) *42:兼光 *43:範円:興福寺別当54世。 *44:範信 *45:範円:再任。 *46:覚通 *47:尊海 *48:良盛(1196-1262):興福寺基円に師事。[[興福寺仏地院]]住職。1251年(建長3年)元興寺別当。1256年(康元1年)興福寺別当68世。1259年(正元1年)法隆寺別当。仏地院僧正。(日本人名大辞典) *49:頼円:興福寺別当71世。 *50:玄雅:興福寺別当78世。 *51:乗範 *52:実懐(1235-1291):[[興福寺松林院]]を経て1284年(弘安7年)法隆寺別当就任。1289年(正応2年)興福寺別当82世。1291年(正応4年)4月24日死去。57歳。(『日本人名大辞典』) *53:印寛 *54:性誉:興福寺別当74世。 *55:公寿:興福寺別当98世? *56:宗親:興福寺別当95世。 *57:公寿:再任。 *58:実聡:興福寺別当104世。 *59:隆遍(生没年不詳):四条隆親の子。興福寺の澄誠に師事。1315年(正和4年)法隆寺別当。1318年(文保2年)興福寺別当107世。(『日本人名大辞典』) *60:良寛 *61:能寛 *62:顕観 *63:実聡:再任 *64:憲信 *65:能寛 *66:良暁(1285-?):1347年(正平2年/貞和3年)興福寺別当126世。(日本人名大辞典) *67:範守 *68:覚懐 *69:懐雅:興福寺別当128世。 *70:頼乗(生没年不詳):1368年(正平23年/応安1年)興福寺権別当。興福寺別当130世。1370年(応安3年)法隆寺別当。安養院僧正。(日本人名大辞典) *71:顕通 *72:実遍:興福寺別当134世・137世・139世。 *73:孝憲:興福寺別当141世。 *74:円守:興福寺別当138世・140世。 *75:長懐(1342-1396):興福寺別当147世。 *76:兼覚(1361-1422):1409年(応永16年)法隆寺別当。1412年(応永19年)興福寺別当158世。1414年(応永21年)[[興福寺慈恩院]]住職。1422年(応永29年)5月12日死去。62歳。(『日本人名大辞典』) *77:孝俊:興福寺別当160世。 *78:仁円 *79:晃円:興福寺別当200世。 *80:長乗 *81:定誉 *82:英乗 *83:堯懐 *84:訓英 ===近世の別当=== *85:尊祐 *86:光祐 *87:尊英 *88:舜英 *89:覚遍 *90:覚勝 *91:覚峰 *92:良訓 *93:実算 *94:洪覚 *95:慶雲 *96:朝定 *97:洪海 *98:千晃 *99:千純 *100:千懐 ===近世の一﨟=== ===近代の住職=== {|class="wikitable" |+ !style="width:5%;"|歴代 !style="width:10%;"|名前 !style="width:10%;"|生没年 !style="width:10%;"|在職年 !style="width:40%;"|備考 |- |121 |千早定朝 |1823-1899 |1876-1899 |大和国山辺郡出身。明治5年一﨟となる。明治9年6月9日、法隆寺住職就任(9月19日とも??)。学問興隆を志し、[[東本願寺]]の学問場を誘致。明治15年、法相宗独立を実現。明治23年3月23日から翌年2月16日まで、[[興福寺]]240世と[[清水寺]]を兼務。明治28年4月14日から死去まで再び興福寺242世と清水寺の住職を兼ねる(『法隆寺年表』)。明治32年3月17日死去(『法隆寺年表』、『日本仏教基礎講座』「法相宗興福寺」)(18日とも28日とも)。自坊は[[法隆寺中院]]。 |- |122 |秦行純 |1834-1913 |1899-1903 |[[薬師寺]]を兼務。明治32年6月25日、住職就任。同年9月25日法相宗管長就任。36年5月22日、退任。大正2年7月6日死去(法隆寺年表では2日死去)。80歳。 |- |123 |佐伯定胤 |1867-1952 |1903-1950 |近代を代表する南都の学僧。千早定朝の弟子。法隆寺村出身。慶応3年6月25日生(『奈良県人物人材情報リスト2017』)。明治9年、佐伯懐厳の養子となる(リスト)。明治10年得度。奈良教師教校卒。明治17年から7年間、[[泉涌寺]]の佐伯旭雅に唯識を学ぶ。明治23年には『法相宗綱要』を著す。明治26年2月28日、興福寺勧学院が開設され講師となる。8月1日、法隆寺勧学院が開院、法隆寺学頭。明治30年1月、法隆寺副住職。明治31年管長事務取扱(リスト)。明治34年10月15日、薬師寺住職に就任。明治36年5月22日、法隆寺住職に就任。36歳の若さという異例の抜擢。管長を3期務めた。昭和4年、帝国学士院会員。昭和25年4月1日、法隆寺住職を退任するが、9月22日の信徒総代会で法相宗離脱の意向を発表。11月12日の宗会で[[聖徳宗]]設立を実行した。佐伯良謙、橋本凝胤、大西良慶ら多くの弟子を育てた。昭和27年11月23日死去。(『法隆寺の秘話』) |- |124 |佐伯良謙 |1880-1963 |1950-1963 |聖徳宗初代管長。明治13年10月28日生。父は佐伯卯之吉(以上『現代人物誌第十八編』)。雲井良海の弟子。明治25年から法隆寺勧学院で佐伯定胤に師事。明治43年、勧学院助講師。明治44年、竪義遂業。大正3年興福寺執行(リスト)。大正15年、興福寺の大西良慶が辞意を表明し、良謙に譲る意向を示したが、佐伯定胤に慰留される。昭和7年1月11日、興福寺から法隆寺に移り、副住職となる。昭和16年8月2日、管長顧問。昭和25年3月19日、住職就任(夢幻鈔。別書では4月1日とも)。同年5月1日管長(夢幻鈔)。佐伯定胤長老主導による法相宗離脱に従い、同年11月12日、聖徳宗独立を宣言し、管長となる。太子信仰の興隆に努め、法隆寺夏季大学を開設。聖徳会館を建設。昭和29年天台宗[[叡福寺]]住職(リスト)。昭和38年3月8日死去。84歳。大正10年12月奈良県仏教連合会理事長(夢幻鈔。リストでは大正12年)。昭和57年、御影像開眼。著書に慈恩大師伝、法相宗講要、因明古疏の研究、類邪縁起論など。遺稿集に『夢幻鈔』。 |- |125 |間中定泉 |1909-1989 |1963-1982 |聖徳宗2代管長。滋賀県草津市出身。曽祖父が薬師寺僧侶。大正9年得度。法隆寺勧学院卒。佐伯定胤に師事。終戦後シベリアに一年半抑留。昭和26年、執事長・宗務所所長。29年副住職。昭和38年6月住職就任。昭和57年3月31日退任。1989年8月16日死去。自坊は中院。(『法隆寺の秘話』『郷土歴史人物事典奈良』) |- |126 |大野可円 |1917-2005 |1982-1992 |聖徳宗3代管長。新潟県新潟市出身。大正14年法隆寺に入る。昭和3年得度。龍谷大学卒。佐伯定胤に師事。陸軍報道班員を務めた。再び徴兵され、中国大陸で敗戦を迎えた。昭和57年4月1日住職就任。2005年3月29日死去。87歳。著書は『維摩の説法』。自坊は普門院。 |- |127 |枡田秀山 |1924- |1992-1995 |聖徳宗4代管長。奈良県斑鳩町の融通念仏宗寺院の出身。龍谷大学卒。1952年法隆寺に入る。昭和57年、副住職と法起寺住職。1992年4月15日住職就任(毎日新聞)。1995年5月22日辞職。 |- |128 |高田良信 |1941-2017 |1995-1998 |聖徳宗5代管長。昭和16年2月22日生。奈良県出身。昭和28年、法隆寺に入寺。佐伯良謙に師事。龍谷大学大学院修了。1882年執事長。1992年副住職。1994年4月管主。1995年5月22日、住職就任。1998年11月末辞職。平成29年4月26日死去。法隆寺昭和資財帳を編纂。寺史を調査し、歴代数を改めた。著書多数。自坊は実相院。 |- |129 |大野玄妙 |1947- |1999- |聖徳宗6代管長。昭和22年10月22日生。大野可円の子。大阪府出身。3歳で入寺。上宮学園高校卒。龍谷大学大学院修了。昭和52年福生院住職。平成5年執事長、宗務所長。法隆寺昭和資財帳編纂所所長。平成7年[[法起寺]]住職。平成10年12月1日、住職代務者・管長代務者に就任(朝日新聞)。平成11年4月22日住職就任(毎日新聞)。(『奈良県人物人材情報リスト2017』) |} (望月信亨編『仏教大辞典 付録』、) ==古典籍== 聖徳太子については[[聖徳太子]]の項目を参照。 *釈迦三尊像光背銘文:飛鳥時代。623年。 *薬師如来坐像光背銘文:飛鳥時代。607年? *法隆寺伽藍縁起并流記資財帳:奈良時代。747年。 *法隆寺献物帳:奈良時代。756年。光明皇后が聖武天皇の遺品を奉納した時の目録。 *東院資財帳:奈良時代。 *法隆寺東院縁起: *金堂日記:平安時代。 *僧林幸法隆寺一切経勧進状:平安時代。1122年。林幸著。 *聖徳太子伝私記:鎌倉時代。顕真著。 *阿弥陀三尊像光背銘文:1232年。 *法隆寺雑記:南北朝時代。 *寺要日記:南北朝時代。 *和州法隆寺堂社霊験并仏菩薩像数量等:江戸時代。百済観音(虚空蔵菩薩)の初出。 *古今一陽集:江戸時代。良訓著。 *斑鳩古事便覧:江戸時代。1836年。 *別当記 *法隆寺縁起白拍子:室町時代。1364年。重懐著。 *法隆寺別当次第 ==資料== *『法隆寺の至宝 昭和資財帳』: *『法隆寺史 上 古代・中世』:2018年。続巻を編纂中。 [[category:奈良県]]
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