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西大寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
西大寺
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'''西大寺'''(さいだいじ)は、奈良県奈良市にある[[古代寺院]]で、[[南都仏教]]・[[真言宗]]の[[南都仏教の本山寺院|本山寺院]]。本尊は[[清凉寺釈迦如来]]。[[称徳天皇]]が創建。天皇が帰依した[[道鏡]]の影響も指摘されている。古代の[[官寺]]七大寺の一つ。鎌倉時代に[[叡尊]]が中興し、[[真言律宗西大寺流]]の拠点となる。元は金堂(現・四王堂)が中心だったが、中興以降は光明真言堂を本堂とする。奥之院として叡尊墓所の[[体性院]]がある。鎮守は、[[西大寺八幡神社]]。[[真言律宗西大寺派]]総本山。'''秋篠山四天院'''と称す。[[西大寺関連旧跡]]も参照。(参考:同名寺院[[西大寺 (同名)]]・[[天王寺]]) == 歴史 == ===古代の創建=== 964年9月11日、孝謙上皇が発願し、造営が始められた。広大な伽藍が整備された。しかし、平安時代に入ると主要伽藍を火災で失い、さらに隆盛する興福寺の配下に組み込まれ、事実上の末寺となる。西大寺別当は興福寺僧が兼務するようになる。 ===叡尊による復興=== 1235年5月16日に叡尊は西大寺に入る。1238年、八角五重石塔を建立し、舎利を埋納。1245年、本堂となる光明真言堂を建立。1249年、清凉寺の釈迦如来像を模刻。四王堂に祀るが、のちにこれが本尊となる。 ===門流の本山として=== 中世の戦乱で大きな被害を受けたが江戸時代に入り復興。 ==組織== ===住職(古代)=== 西大寺別当が置かれた。 *1安栄()<>: *2平恩(?-889)<>:三論宗の学僧。唯識・倶舎にも通じた。865年維摩会講師。889年1月26日死去。(日本人名大辞典) *3安好()<>: *4豊継()<>: *5雲澄()<>: *6入玄()<>: *7入玄()<>:再任。 *8峰如()<>:益信の弟子か。 *9良〓?()<>: *10恩寛?()<>: *11延善?()<>: *12永有()<>: *13禅教()<>: *14禅樹()<>: *15禅樹()<>:再任。 *16仲算(935-976):興福寺の僧。喜多院空晴に師事。963年(応和3年)の宗論で、延暦寺良源を論破。973年(天延1年)、西大寺別当となる。「別当次第」では「中算」。(『日本人名大辞典』) *17禅樹()<>:再任。 *18安救?()<>: *19永安()<>: *20定澄()<>:(興福寺別当の定澄は年代が合わないので別人か) *21仁宗(945?-?):興福寺の僧。宿曜師。995年(長徳1年)に宣旨を受け、造暦を担当している。その功績で1000年(長保2年)、西大寺別当となる。(『国史大辞典』『日本人名大辞典』) *22輔静()<>:[[薬師寺]]別当(「法相宗・薬師寺」『日本仏教基礎講座 奈良仏教』)。寛弘元年(1004)3月7日、西大寺別当に就任(御堂関白記)。 *23輔静()<>:再任。 *24明空()<>: *25道讃()<>: *26蓮胤()<>:憐因? *27仁統(生没年不詳)<>:興福寺の僧。宿曜師。藤原道長ら貴族のための占星・祈祷をたびたび行っている。1015年(長和4年)に造暦を担当し、その功績で、1025年(万寿2年)、西大寺別当となる。(『国史大辞典』『日本人名大辞典』) *28円縁()<>: *29長〓?()<>: *30行昭()<>: *31能算(?-1094)<>:興福寺の僧。宿曜師。仁統の弟子。1062年(康平5年)、西大寺別当、1075年(承保2年)から没年まで[[法隆寺]]別当。(『国史大辞典』『日本人名大辞典』) *32懐真()<>: *33慈懐()<>: *34澄禅?()<>: *35実覚()<>: *36湛秀()<>: *37済円()<>: *38寛久:寛救とも。 *39維厳 *40覚珍 *41玄縁 *42教覚 *43忠恵 *44雅円 *45忠恵 *46雅円 *47尊雅? *48〓宗? *49性誉 *50乗範:興福寺の僧。1278年(弘安1年)時点で西大寺別当だった。1283年(弘安6年)に興福寺権別当となる。 (以上、西大寺別当次第[http://hyakugo.kyoto.jp/contents/detail.php?id=29446]) ===西大寺別当=== 律僧を統括する長老とは別に別当も存続していた。 *尊憲:1283年(弘安6年)(中世記録人名索引DB。勘仲記) *良尭:鎌倉後期。(日本古文書ユニオンカタログ) *範宗:興福寺の僧。1356年(正平11年/延文1年)時点で西大寺別当だった。1353年(正平8年/文和2年)興福寺権別当となる。 *円守:1371年(応安4年)1月28日、西大寺別当に就任。(一乗院文書) *兼暁:1450年(宝徳2年)、西大寺別当在職で死去。(大日本史料7編人名カードDB) *兼継:1494年(明応3年)10月15日、西大寺別当に就任。(大日本史料総合DB) *兼範:1529年(享禄2年)11月19日、西大寺別当に就任。(大日本史料総合DB) *覚誉:1554年(天文23年)2月29日、西大寺別当に就任。(大日本史料総合DB) ===住職(叡尊以降)=== 長老と称す。 {|class="wikitable" |+ !style="width:5%;"|歴代 !style="width:10%;"|僧名 !style="width:10%;"|号 !style="width:20%;"|生没年<在職年> !style="width:55%;"|備考 |- |1 |[[叡尊]] |思円房 |1201-1290 |真言律宗西大寺流の開祖。西大寺中興。興正菩薩。宗祖と呼ばれる([[空海]]は高祖とされる)。1290年(正応3年)8月25日死去。90歳。 |- |2 |[[信空]] |慈道房 |1231-1316 |叡尊の弟子。[[後宇多上皇]]の帰依を受ける。[[諸国国分寺]]の復興を行う。慈真和尚。1316年(正和5年)1月26日死去。86歳。 |- |3 |宣瑜 |浄覚房 |1240-1325 |叡尊の弟子。[[弘正寺]]に住す。[[花園天皇]]に授戒。1325年(正中2年)2月29日死去。86歳。 |- |4 |静然 |良證房 |1252-1331 |1331年(元弘1年)12月13日死去。80歳。 |- |5 |賢善 |覚律房 |1251-1340 |1340年(興国1年/暦応3年)10月2日死去。90歳。 |- |6 |澄心 |静心房 |1278-1347 |1347年(正平2年/貞和3年)9月5日死去。70歳。 |- |7 |信昭 |静観房 |1267-1352 |1352年(正平7年/文和1年)3月2日死去。86歳。 |- |8 |元耀 |求覚房 |1280-1355 |1355年(正平10年/文和4年)10月17日死去。76歳。 |- |9 |真湛 |悟妙房 |1286-1360 |1360年(正平15年/延文5年)10月25日死去。75歳。 |- |10 |清算 |彦證房 |1288-1362 |1362年(正平17年/貞治1年)11月14日死去。75歳。 |- |11 |覚乗 |慈淵房 |1273-1363 |1363年(正平18年/貞治2年)1月26日死去。91歳。 |- |12 |貞祐 |慈證房 |1291-1365 |1365年(正平20年/貞治4年)閏9月2日死去。75歳。 |- |13 |信尊 |道昭房 |1297-1366 |1366年(正平21年/貞治5年)9月20日死去。70歳。 |- |14 |堯基 |尊密房 |1296-1370 |1370年(建徳1年/応安3年)4月24日死去。75歳。 |- |15 |貞泉 |信乗房 |1294-1379 |1379年(天授5年/康暦1年)6月1日死去。86歳。 |- |16 |禅誉 |円宗房 |1299-1388 |1388年(元中5年/嘉慶2年)5月5日死去。90歳。 |- |17 |慈朝 |祐覚房 |1319-1391 |1391年(元中8年/明徳2年)1月9日死去。73歳。 |- |18 |深泉 |本〓房 |?-1395 |1395年(応永2年)9月25日死去。 |- |19 |良耀 |浄順房 |?-1404 |1404年(応永11年)2月25日死去。 |- |20 |高湛 |明印房 |1323-1408 |[[武蔵・称名寺]]で出家して湛睿に師事。[[鎌倉・極楽寺]]、[[東大寺戒壇院]]を経て、西大寺長老となる。1408年(応永15年)9月25日死去。86歳。 |- |21 |叡空 |円道房 |1333-1412 |1412年(応永19年)2月23日死去。80歳。 |- |22 |英如 |正円 |1345-1415 |1415年(応永22年)2月29日死去。71歳。 |- |23 |英源 |円善 |1347-1419 |1419年(応永26年)10月5日死去。73歳。 |- |24 |元空 |忍照 |1340-1423 |1423年(応永30年)7月25日死去。84歳。 |- |25 |栄秀 |浄曽 |1354-1430 |1430年(永享2年)8月2日死去。77歳。 |- |26 |高海 |本円 |1357-1436 |1436年(永享8年)4月26日死去。80歳。 |- |27 |良誓 |浄音 |1360-1450 |1450年(宝徳2年)1月2日死去。91歳。 |- |28 |元澄 |良賢 |1380-1457 |1457年(長禄1年)11月8日死去。78歳。 |- |29 |高算 |明円 |1392-1471 |1471年(文明3年)12月12日死去。80歳。 |- |30 |仙恵 |明珠 |1395-1478 |1478年(文明10年)8月6日死去。84歳。 |- |31 |秀如 |正真 |1404-1488 |1488年(長享2年)5月27日死去。85歳。 |- |32 |良慶 |円珠 |1416-1498 |1498年(明応7年)8月7日死去。83歳。 |- |33 |尊海 |浄宗 |?-1502 |1502年(文亀2年)3月7日死去。 |- |34 |高仲 |通円 |1428-1509 |1509年(永正6年)5月8日死去。82歳。 |- |35 |高森 |円宣 |1428-1511 |1511年(永正8年)2月2日死去。84歳。 |- |36 |玄海 |浄禅 |1448-1518 |1518年(永正15年)7月8日死去。71歳。 |- |37 |高実 |本鼎 |1459-1532 |1532年(天文1年)1月27日死去。74歳。 |- |38 |光淳 |明寿 |1463-1538 |1538年(天文7年)5月22日死去。76歳。 |- |39 |高珠 |円栄 |1480-1565 |1565年(永禄8年)2月9日死去。86歳。 |- |40 |尊珠 |等玉 |1489-1573 |1573年(天正1年)9月7日死去。85歳。 |- |41 |高興 |明舜 |1510-1578 |1578年(天正6年)3月29日死去。69歳。 |- |42 |尊慶 |尊慶 |1509-1593 |1593年(文禄2年)11月7日死去。85歳。 |- |43 |凝海 |光忍 |1519-1599 |1599年(慶長4年)8月2日死去。81歳。 |- |44 |高秀 |栄春 |1522-1603 |1603年(慶長8年)12月13日死去。82歳。 |- |45 |高久 |奎玉 |1527-1614 |1614年(慶長19年)1月8日死去。88歳。 |- |46 |高仙 |明識 |1541-1617 |1617年(元和3年)5月14日死去。77歳。 |- |47 |尊智 |玄寿 |1554-1636 |1636年(寛永13年)9月25日死去。83歳。 |- |48 |高喜 |明観 |1586-1663 |1663年(寛文3年)8月8日死去。78歳。 |- |49 |賢瑜 |栄順 |1585-1668 |1668年(寛文8年)12月22日死去。84歳。 |- |50 |高円 |良仙 |1611-1680 |1680年(延宝8年)6月25日死去。70歳。 |- |51 |尊信 |春識 |1615-1691 |1691年(元禄4年)6月27日死去。77歳。 |- |52 |高算 |尊慶 |1644-1716 |1716年(享保1年)11月13日死去。73歳。 |- |53 |尊覚 |春賢 |1652-1719 |1719年(享保4年)9月29日死去。68歳。 |- |54 |尊栄 |信順 |1659-1735 |1735年(享保20年)2月3日死去。77歳。 |- |55 |寛慶 |円明 |1662-1745 |1745年(延享2年)8月11日死去。84歳。 |- |56 |高瑜 |明元 |1695-1766 |1766年(明和3年)2月14日死去。72歳。 |- |57 |尊静 |真覚 |1698-1772 |1772年(安永1年)5月24日死去。75歳。 |- |58 |尊堂 |真旭 |1719-1795 |1795年(寛政7年)4月6日死去。77歳。 |- |59 |尊員 |真乗 |1756-1819 |1819年(文政2年)9月11日死去。64歳。 |- |60 |慶般 |円昌 |1760-1835 |1835年(天保6年)11月20日死去。76歳。 |- |61 |英堂 |円誓 |?-1843 |1843年(天保14年)10月11日死去。「尊堂」とある。 |- |62 |尊慧 |真演 |?-1845 |1845年(弘化2年)5月28日死去。 |- |63 |高判 |智豊 |1787-1862 |1862年(文久2年)12月20日死去。76歳。 |- |64 |佐伯泓澄 |津梁房 |1824-1906<1874-1906> |文政7年2月5日生。下総国印旛郡岩戸村出身。旧姓は間野。天保6年に[[長谷寺]]末の実蔵院で出家。天保8年、長谷寺に修学。元治元年までいた。明治2年、東大寺戒壇院で受戒。明治3年、[[東大寺真言院]]住職。明治6年6月28日、教導職九級試補。明治7年11月28日、[[奈良県中教院]]に勤務。同年12月18日、奈良県の命令で西大寺住職に就任。明治8年8月7日、権中講義。明治19年12月16日、「長老」の号が復活。たび重なる請願で明治28年6月6日、真言律宗独立を実現。7月4日、初代管長就任。また明治8年5月14日から明治15年4月1日まで「元興福寺守護職」(「元興福寺堂塔守護」とも。のち「奈良公園取締」)を務めた。明治39年4月7日死去。83歳。 |- |65 |福垣真応 |祐誡房 |1871-1928<1906-1928> |自坊は伊賀[[宝厳寺]]。1906年(明治39年)4月19日、管長事務取扱に就任。同年6月2日、長老・管長就任。昭和3年5月27日死去。85歳。(『近代の西大寺と真言律宗』) |- |66 |佐伯悟龍 | |1875-1942<1928-> |自坊は[[護国院]]。京都出身。明治8年8月24日生。旧姓は植村。明治20年出家。真言律宗大学林卒。佐伯弘澄に師事し、明治39年、弘澄の養子となる。[[教興寺]]・[[大和・般若寺]]・[[福智院]]を兼務。昭和3年5月28日、管長事務取扱に就任。9月6日、長老管長に就任。昭和17年9月6日死去。68歳。(『近代の西大寺と真言律宗』) |- |67 |駒岡乗円 |明瑞 | -1952<1942-> |[[宝山寺]]住職。宗務長を経て昭和17年9月6日、管長代務者に就任(『近代の西大寺と真言律宗』)。同年11月9日、長老就任?。9月30日付で管長就任(『近代の西大寺と真言律宗』)。昭和27年1月26日死去。69歳。 |- |68 |瀬木俊明 | |1890-1974<1952-1960> |自坊は[[無量寿福寺]]。明治23年5月15日生。大正3年、真言宗連合京都大学卒業。昭和17年、宗務長。昭和27年1月26日管長代務者就任。2月8日長老・管長就任。昭和35年3月31日、引退。昭和49年4月4日死去。84歳。(『近代の西大寺と真言律宗』『現代人物誌第十八編』) |- |69 |松本実道 |叡海 |1904-1999<1960-1996> |宝山寺住職。明治37年5月11日生、関西大学卒業、昭和8年僧籍、昭和27年2月宝山寺住職(『現代人物誌第十八編』)。昭和35年4月1日、長老就任。昭和49年1月、後七日御修法で大阿闍梨を務める。1999年(平成11年)9月4日死去。96歳。(『郷土歴史人物事典奈良』には、関西大学卒。昭和27年宝山寺住職。昭和37年西大寺住職とある)(リストには5月22日生。農家の生まれ。大正3年宝山寺入寺。昭和37年宝山寺貫主。昭和35年から平成8年まで管長) |- |70 |谷口光明 | |1922-2012<1996-2008> |大正11年(1922)11月30日生(リスト)。愛媛県出身。京都専卒。昭和24年、西大寺に入寺。翌年、西大寺保育園と西大寺幼稚園を設立。園長となる。昭和61年宗務長執事長に就任。平成8年から20年まで長老。2012年(平成24年)2月6日死去。89歳。(リスト) |- |71 |大矢実円 | |1935-<2008-> |宝山寺住職。 |} *『仏家人名辞書』、望月『仏教大辞典 付録』、『近代の西大寺と真言律宗』、『日本仏教基礎講座』、『図録 奈良西大寺展』 [[category:奈良県]]
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