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宮中三殿
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
宮中三殿
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{|class="wikitable" style="width:350px;" align=right |- |style="text-align:center;background-color:#ededed" colspan="2"|'''宮中三殿'''<br>きゅうちゅう さんでん |- | colspan="2"| [[ファイル:明治天皇大喪E0604.jpg|350px]] |- |style="background-color:#ededed"|概要 |近代天皇祭祀の中枢となる神殿。賢所、皇霊殿、神殿から構成されている。 |- |style="background-color:#ededed"|所在地 |東京都千代田区千代田 |- |style="background-color:#ededed"|社格など |神殿:式内社 |- |style="background-color:#ededed"|関連記事 | *[[近代天皇祭祀]] *[[神器関連旧跡]] *[[賢所関連旧跡]] *[[宮中三殿皇霊殿関連旧跡]] *[[皇霊祭祀]] *[[神祇官神殿関連旧跡]] |} '''宮中三殿'''(きゅうちゅう・さんでん)は、東京都千代田区の[[皇居]]にある、[[宮中祭祀]]の中心となっている神殿である。天皇のレガリアでもある'''[[八咫の鏡]]'''を神体として[[天照大神]]を祀る'''[[賢所]]'''(かしこ・どころ)、[[神祇官神殿]]を継承する'''神殿'''(しんでん)、歴代天皇皇族の霊を祀る'''皇霊殿'''(こうれいでん)から構成される。 吹上御苑の東南部にある。敷地は約2200坪。土塀で囲まれている。 中国では、『周礼』に「'''左祖右社'''」とあり、左(向かって右)に皇帝の祖先を祀る[[宗廟]]、右に土地神と穀物神を祀る[[社稷壇]]を設けてきたが、宮中三殿では、左に神殿、右に皇霊殿があり、左右が逆に配置されているとも言える。 社は3殿であるが、神体は、賢所に2座、皇霊殿に2座あるため、御羽車は5基が用意されている。 ==年譜== *明治2年:東京遷都に伴い、皇居の山里の地に賢所を遷座。 *明治2年6月:神祇官に神座を設ける。 *明治2年12月17日:[[神祇官神殿]]を建て、八神・天神地祇・歴代天皇を奉斎。 *明治3年1月3日:鎮祭の詔、大教宣布の詔。 *明治4年9月:神祇官神殿から歴代天皇を賢所に遷座。 *明治5年4月2日:神祇省廃止にともない、八神と天神地祇を賢所に遷座。 *明治5年11月:八神と天神地祇を合わせて祀ることになる。 *明治6年5月:皇居火災。赤坂仮皇居内に遷座。 *明治10年1月:歴代天皇だけでなく、歴代皇后や皇族も合祀することになる。 *明治22年1月9日:現在地に遷座。現在の社殿を造営。 *明治38年:檜皮葺から銅板葺に改める。 *大正大礼大嘗祭のため、京都御所春興殿に渡御。 *昭和大礼大嘗祭のため、京都御所春興殿に渡御。 *平成18年:耐震工事のため、仮殿に遷座。 *平成20年:正遷座。 ==殿舎== *宮中三殿の位置は、宮殿から宮中三殿と伊勢神宮が一直線となり、かつ天皇が宮中三殿と伊勢神宮に足を向けないように設定されたという。御用邸内の座所の配置も天皇が両方に足を向けないように配慮が行われるという。(中澤伸弘『宮中祭祀』) *[[賢所]]:近代には京都御所の春興殿に対して温明殿と呼ばれている(登極令)。 *[[宮中三殿・神殿|神殿]]:賢所と同じ構造だが、床が賢所より1尺(30.3cm)低く作られている。 *[[皇霊殿]]: *神楽舎:賢所の正面にある。 *賢所前庭: *左幄舎:神楽舎の東にある。 *右幄舎:神楽舎の西にある。 *奏楽舎:左幄舎の北にある。神楽歌を奏する。 *御羽車舎:奏楽舎の北に接続。 *綾綺殿:賢所・神殿の真裏にある。天皇皇后が着装や手水をするための御殿。また毎年新嘗祭の前日に鎮魂祭を行う。平成大嘗祭の時は「大嘗祭前一日鎮魂の儀」を行った。 *御饌殿:皇霊殿の真裏にある。 *便殿: *賢所詰所: *内掌典宿所: *左廻廊: *右廻廊: *東宮便殿: *[[宮中三殿・神嘉殿|神嘉殿]]:天皇が新嘗祭を行う御殿。 *神嘉殿前庭:元旦早朝に仮舎を建て天皇が四方拝を行う。大祓もここで行う。 *膳舎:神嘉殿に接続。新嘗祭の神饌を調する。 *御遥拝所:神嘉殿に接続。 *正門:賢所・神楽舎の正面にある。 *神嘉門:神嘉殿の正面にある。 *北門: *東門: *通用門: *仮殿:土塀の外にあったらしい。 *賢所参集所:正門の外にある。 == 組織 == === 歴代掌典長 === *1九条道孝(1839-1906)<1884-1898>:九条尚忠の長男。貞明皇后の父。国事御用掛。左大臣。奥羽鎮撫総督。氏長者。1884年(明治17年)公爵。貴族院議員。1884年(明治17年)10月3日~1898年(明治31年)9月10日 *2岩倉具綱(1841-1923)<1898-1915>:富小路政直の子。孝明天皇近習。1871年(明治4年)明治政府の参与。1915年(大正4年)宮中顧問官。1898年(明治31年)9月10日~1915年(大正4年)12月27日 *3九条道実(1869-1933)<1915-1933>:九条道孝の子。掌典・式部官を兼務。公爵。貴族院議員。1915年(大正4年)12月27日~1933年(昭和8年)1月19日 *4三条公輝(1882-1945)<1933-1945>:三条実美の三男。東京帝国大学卒。1892年(明治25年)分家して男爵となる。1924年(大正13年)本家三条実憲の養子となり家督相続。公爵。皇后宮主事。皇太后宮事務官。御歌所長。貴族院議員。1933年(昭和8年)1月28日~1945年(昭和20年)11月10日 *5坊城俊良()<1945-1945>:著書『宮中五十年』。1945年(昭和20年)11月10日~1945年(昭和20年)11月27日 *6恒憲王(1900-1978)<1945-1946>:賀陽宮邦憲王の第一王子。陸軍大学校卒。陸軍戸山学校校長。陸軍大学校校長。陸軍中将。貴族院議員。1947年(昭和22年)10月、臣籍降下して賀陽恒憲と名乗る。御歌所長。敬老園理事長。1945年(昭和20年)11月27日~1946年(昭和21年)2月25日 *7徳大寺実厚()<1946-1946>:1946年(昭和21年)2月25日~1946年(昭和21年)8月12日。[[平安神宮]]宮司。 *8甘露寺受長(1880-1977)<1946-1959>:東京帝国大学卒。伯爵。東宮侍従。侍従。1939年(昭和14年)侍従次長。1945年(昭和20年)宮内省御用掛。[[明治神宮]]宮司。著書『背広の天皇』。1946年(昭和21年)8月12日~1959年(昭和34年)5月21日。 *9室町公藤()<1959-1960>:1959年(昭和34年)5月21日~1960年(昭和35年)11月10日 *10徳大寺実厚()<1960-1968>:1960年(昭和35年)11月10日~1968年(昭和43年)9月10日。再任。 *11永積寅彦()<1968-1977>:1968年(昭和43年)9月10日~1977年(昭和52年)6月20日 *12東園基文()<1977-1991>:1977年(昭和52年)6月20日~1991年(平成3年)4月1日。[[神社本庁]]統理。 *13小出英忠()<1991-2000>:1991年(平成3年)4月1日~2000年(平成12年)4月1日 *14本多康忠()<2000-2002>:2000年(平成12年)4月1日~2002年(平成14年)9月10日 *15井関英男()<2002->:2002年(平成14年)9月10日~ *手塚英臣()<>: *楠本祐一()<>: (井関英男まで『皇室事典』角川学芸出版) ===組織沿革=== *1871年9月:刀自(内侍)中心の奉仕を改め、男性(のちの掌典)中心の奉仕となる。女性は内掌典と改称。 *1907年:宮内省官制で掌典12人と定められる。 *1947年:掌典長1人、掌典次長1人、掌典5人、内掌典5人、出仕3人、雑仕2人となる。 ==祭典== *御代拝:毎朝侍従が賢所(宮中三殿)を拝礼する。 天皇は侍従の復命があるまで慎んで待つ。 *旬祭:毎月1日、11日、21日 *賢所御神楽、神武天皇祭、昭和天皇祭には宮内庁楽部の楽人(定員26人)が御神楽を奉納するが、楽人は公務員であるため、休暇を取って奉仕しているという(中澤伸弘『宮中祭祀』)。 *大祭には天皇、皇后、皇太子、皇太子妃が出席する。ただし新嘗祭には皇后、皇太子妃は出席しない。 *小祭には天皇、皇太子が出席する。 *12月始めに煤払えが行われる。 {|class="wikitable" |+ !style="width:10%;"|現行の名称 !style="width:10%;"|戦前の名称 !style="width:5%;"|種別 !style="width:10%;"|日付 !style="width:10%;"|場所 !style="width:55%;"|概要 |- |四方拝 |四方拝 | |1月1日 |神嘉殿南庭 |かつては寅刻(午前4時頃)に行う。現在は午前5時半。神嘉殿南庭に仮設の御拝所を設ける。御拝所は屋根を掛け、屏風2双で囲む。地面には下から薦、白布、真薦、藺薦を敷き、その上に厚畳を置く。燭台2台を立てる。綾綺殿で着装した天皇が御剣を伴って庭に降り、両段再拝する。天皇本人だけが行うことが可能で、代拝はできないという。平安時代の儀式書『西宮記』『北山抄』に記述があり、宇多天皇の頃には行っていたという。陰陽道の色彩が強い儀式。応仁の乱で中絶し、後土御門天皇の1475年(文明7年)には再興した。京都御所の時代には清涼殿東庭で行っていた。東京遷都以降、賢所前庭で行った時もある。(『宮中祭祀』) |- |歳旦祭 |歳旦祭 |小祭 |1月1日 |三殿 |四方拝に続いて行われる。明治初年には3日間に続いて行った時期もあり、正月一日御祭典、正月三箇日祭、年頭祭、「一月一日の賢所皇霊殿神殿御祭典」とも呼ばれた。1908年(明治41年)の皇室祭祀令で歳旦祭と名付けられた。(『宮中祭祀』『国史大辞典』) |- |二日祭 | | |1月2日 |三殿 | |- |三日祭 | | |1月3日 |三殿 | |- |元始祭 |元始祭 |大祭 |1月3日 |三殿 |1872年(明治5年)に始まる。「元始」は『古事記』序文に由来するという。(『宮中祭祀』) |- |奏事始 |奏事始 | |1月4日 |宮殿・鳳凰の間 |「鳳凰の間」は宮殿の表御座所にある。モーニング姿の天皇が掌典長から神宮と宮中祭祀の報告を受ける。かつては神宮奏事始として1月11日に行われていた。江戸時代には前日に天皇は潔斎し、当日は石灰壇で神宮を遥拝してから行った。明治初年には賀茂奏事始、氷川奏事始なども行われていた時期がある。1869年(明治2年)、政始が再興され、政治の状況について政府が報告する中で宮内大臣が神宮のことを述べた。1926年(昭和1年)、皇室儀制令で最初に内閣総理大臣が神宮のことについて奏上するように改められ、戦後の政教分離で現在の形となった。(『宮中祭祀』) |- |先帝祭(昭和天皇祭) |先帝祭 |大祭 |1月7日 |皇霊殿・山陵 |先帝の崩御日に行われる。山陵(昭和天皇陵)に勅使が派遣され、御祭文を奏上する。1870年(明治3年)に京都紫宸殿で孝明天皇祭を行ったのが始まり。皇霊殿御神楽が合わせて行われる。(『宮中祭祀』) |- |皇霊殿御神楽 | | |1月7日 |皇霊殿 |先帝祭に合わせて、同日夜に行われる。皇族は御神楽が終わるまで慎む。皇霊殿御神楽が崩御日にあるのは先帝祭のみ。(『宮中祭祀』) |- |先帝前三代例祭(孝明天皇例祭) |先帝以前三代の例祭 |小祭 |1月30日 |皇霊殿・山陵 | |- |臨時御拝 |紀元節祭 | |2月11日 |三殿 |紀元節祭は元は皇霊殿のみの祭祀。1927年(昭和2年)の皇室祭祀令の改正で三殿で行うようになった。ただし、親拝は賢所と皇霊殿のみで、また玉串を供えるのは皇霊殿のみだった。皇霊殿御神楽が行われていた。戦後は廃止されたが、「臨時御拝」として定例の旬祭の後に改めて祭典が行われている。ただ紀元節祭に伴う皇霊殿御神楽は神武天皇祭の日に移された。(『宮中祭祀』) |- |祈年祭 |祈年祭 |小祭 |2月17日 |三殿 |1869年(明治2年)2月、伊勢神宮への勅使派遣を再興し、明治天皇が紫宸殿から遥拝。宮中でも行うこととなり、1872年(明治5年)2月4日に創始。皇霊殿では2月4日、賢所・神殿では2月17日に行われていたが、1914年(大正3年)に2月17日に統一された。(『宮中祭祀』) |- |春季皇霊祭 |春季皇霊祭 |大祭 |春分 |皇霊殿 |1870年(明治3年)に歴代天皇の崩御日に正辰祭を行うように定めたが数が多いため、1878年(明治11年)に近四代天皇のみ崩御日に祭典を行うこととし、他の歴代天皇については春秋の皇霊祭にまとめることとなった。同年秋の皇霊祭から始まる。東遊が奉納される。(『宮中祭祀』) |- |春季神殿祭 |春季神殿祭 |大祭 |春分 |神殿 |春秋の皇霊祭に合わせて行われる。1878年(明治11年)に創始。(『宮中祭祀』) |- |神武天皇祭 |神武天皇祭 |大祭 |4月3日 |皇霊殿・山陵 |太陰暦3月11日を太陽暦に換算。東遊が奉納される。山陵に勅使派遣。1863年(文久3年)に神武天皇陵が現在地に治定され、その翌年の1864年(元治1年)3月11日、徳大寺実則を勅使に派遣すると共に、天皇は清涼殿東庭で遥拝した。1869年(明治2年)3月11日、勅使参向。1870年(明治3年)から神祇官で親祭。(『宮中祭祀』) |- |皇霊殿御神楽 |皇霊殿御神楽 | |4月3日 |皇霊殿 |元は2月11日の紀元節祭の夜に行われていたのを1949年(昭和24年)から神武天皇祭の日に移した。(『宮中祭祀』) |- |香淳皇后例祭 |先后ならびに皇妣たる皇后の例祭 |小祭 |6月16日 |皇霊殿・山陵 |先后祭は1897年(明治30年)に崩御した英照皇太后の祭祀から始まる。(『宮中祭祀』) |- |節折 |節折 | |6月30日 |宮殿・竹の間 |午後2時、宮殿竹の間に出御。荒世の祓具を供する。侍従が「御服」と呼ばれる御袍・御袴の長さの絹を柳筥に入れて供する。天皇は息を吹きかけて返す。次に御麻で修祓。次に篠竹9本で身長と手の長さを5回測る。侍従が墨で竹に印を付け、掌典補が竹の印を付けた部分を音を立てて折る。荒世の御壺を供して3度息を吐く。和世の祓具を供して同様の儀礼を行う。(『宮中祭祀』) |- |大祓 |大祓 | |6月30日 |神嘉殿前庭 |午後3時、宮内庁職員、皇宮警察が揃ったところに皇族が列席。掌典が大祓詞を奏上し、稲穂を挟んだ御麻で参列者を修祓する。斎場は当初は賢所前庭だったが、1889年(明治22年)から神楽舎となり、1938年(昭和13年)6月から神嘉殿前庭の幄舎となった。節折と大祓の御贖物は掌典補が処分する。1871年(明治4年)から1975年(昭和50年)頃までは浜離宮から海に流していたが、現在は皇居内の濠に沈めている。(『宮中祭祀』) |- |先帝前三代例祭(明治天皇例祭) |先帝以前三代の例祭 |小祭 |7月30日 |皇霊殿・山陵 | |- |秋季皇霊祭 |秋季皇霊祭 |大祭 |秋分 |皇霊殿 | |- |秋季神殿祭 |秋季神殿祭 |大祭 |秋分 |神殿 | |- |神嘗祭賢所の儀 |神嘗祭賢所の儀 |大祭 |10月17日 |賢所 |神嘗祭は伊勢神宮の祭典で元は9月17日。勅使参向。天皇が自ら育成した稲を根付きのまま懸税として伊勢神宮に供える。2株を内玉垣御門寄りの東の玉垣に紙垂を付けて引っ掛けて供える。1647年(正保4年)に日光例幣使の創始と共に再興した。当日に先立ち、勅使発遣の儀が宮殿松の間で行われる。諸社に派遣される勅使があるが、伊勢神宮への勅使にのみ「よく申して奉れ」との天皇の声掛けがある。神嘉殿南庇に四方拝と同様の仮設の御拝所を設置し、天皇が遥拝。続いて賢所に拝礼。賢所の祭儀は1871年(明治4年)に創始。1873年(明治6年)の改暦で1カ月後ろ倒しとなった。(『宮中祭祀』) |- |(臨時御拝) |明治節祭 | |11月3日 |三殿 |1927年(昭和2年)3月に明治節が制定され、同年10月、皇室祭祀令が改正されて明治節祭が定められた。戦後、廃止されたが、1987年(昭和62年)まで「臨時御拝」が行われた。(『宮中祭祀』) |- |鎮魂祭 |鎮魂祭 | |11月22日 |綾綺殿 |新嘗祭の前夜に行われる。『先代旧事本紀』によると神武天皇に服属した宇摩志麻遅命が十種の神宝を献上し、天皇の鎮魂を行ったのが始まりという。中世に途絶。光格天皇の1797年(寛政9年)に復興し、白川家で行う。1869年(明治2年)には神祇官で行い、1872年(明治5年)からは宮内省で行われた。八神と大直日神の祭壇を綾綺殿に設ける。掌典が神饌を供し、楽部が鎮魂歌を奏し、祝詞奏上。警蹕と共に御衣箱と御玉緒の箱が渡御。御衣箱には白衣1疋が入っている。白衣には皇后の御養蚕所で作られた絹が使われる。掌典長が八平手。神楽歌の中、掌典が御玉緒を取り出し、糸結びを10回行う。次に御衣箱を開いて10回、振動させる。また内掌典が鉾で逆さに置いた宇気槽を10回突く作法を行う。終わると御衣箱と御玉緒の箱は入御。続いて、同様に皇后、皇太子、皇太子妃の儀礼が行われる。そして大直日歌、倭舞があり終了する。鎮魂祭で使われた御衣箱の白衣から天皇の祭儀用の御小袖が仕立てられる。(『宮中祭祀』) |- |新嘗祭 |新嘗祭 |大祭 |11月23日 |神嘉殿 |11月の下卯または中卯に行う。1873年(明治6年)の改暦で11月23日となる。神嘉殿での儀式の他、三殿でも侍従が代拝する。1463年(寛正4年)以降に廃絶。東山天皇の1688年(元禄1年)に「新嘗御祈」として略式で復興。紫宸殿を斎場とした。桜町天皇の1740年(元文5年)に本格的に再興。1791年(寛政3年)、光格天皇の強い願いで神嘉殿が再興。夕の儀が午後6時から、暁の儀が午後11時から行われる。皇太子は神嘉殿の隔殿に控える。伊勢神宮の方角を向いた天照大神の御神座、八重薦の寝座、天皇の御座が設けられる。御神座を設けた時点で神が降りたとみなす。天皇が出御すると同時に、警蹕・神楽歌と共に采女と内掌典が神饌を膳舎から運ぶ「神饌行立」がある。天皇は多数の供え物を一つ一つ自ら箸で供える。このとき、天皇は神饌の説明をしながら供えていくという。御告文を奏上した後、御直会があり、供えた神饌を天皇が食すという。大嘗祭を行う年には新嘗祭を行わない。(『宮中祭祀』『国史大辞典』) |- |賢所御神楽 |賢所御神楽 |小祭 |12月中旬 |賢所 |江戸時代までは臨時の御神楽と呼ばれた。古くから行われ、一条天皇の1002年(長保4年)からは内侍所前庭で行われた。このときは隔年の12月に行われたが、白河天皇の承保年間から毎年12月となった。応仁の乱でも廃絶せず、現在まで行われている。天皇は午後5時に賢所に拝礼。午後6時から楽師が神楽舎に出て翌日午前1時ごろまで神楽を行う。現在は省略されており、かつては夜明けまで続いたという。12月15日が多い。(『宮中祭祀』『象徴天皇「高齢譲位」の真相』) |- |天長祭 |天長節祭 |小祭 |12月23日 |三殿 |西欧の君主の誕生日を祝う習慣に模倣して1868年(明治1年)8月に天長節を設定。祭典は1870年(明治3年)から始まった。他の祭典より時刻が早く午前8時過ぎに行われる。関連行事があるため。(『宮中祭祀』) |- |先帝前三代例祭(大正天皇例祭) |先帝以前三代の例祭 |小祭 |12月25日 |皇霊殿・山陵 | |- |節折 |節折 | |12月31日 |宮殿・竹の間 | |- |大祓 |大祓 | |12月31日 |神嘉殿前庭 | |- |除夜祭 |除夜祭 | |12月31日 |三殿 |掌典職だけで行う。(『宮中祭祀』) |} [[category:東京都]]
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