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清朝の陵墓
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
清朝の陵墓
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{|class="wikitable" style="width:800px;margin:0 auto;" |- | style="text-align:center;background-color:#ededed"|'''清朝の陵墓''' |- | *[[目次#漢字文化圏の宗教|漢字文化圏の宗教]] >> [[目次#儒教|儒教]] >> [[目次#国家祭祀|国家祭祀]] >> [[中国の陵墓]] >> [[清朝の陵墓]] <!-- |- |style="text-align:center;"| [[ファイル:|300px]] [[ファイル:|300px]]<br> 左: 右: --> |- | <googlemap version="0.9" lat="40.797177" lon="120.454102" type="map" zoom="6" width="800" controls="large"> http://maps.google.co.jp/maps/ms?hl=ja&ie=UTF8&vps=1&jsv=327b&brcurrent=h3,0x34674e0fd77f192f:0xf54275d47c665244&msa=0&output=nl&msid=208806612508013451037.0004e27b13bb6d78af078 </googlemap> |} ==概要== 清朝の陵墓。 後金時代の首都であった[[瀋陽]]周辺の関外三陵と[[遼陽]]の[[東京陵]]、[[北京]]北東125キロに位置する東陵、北京西南120キロに位置する西陵と主に三つのエリアに分かれている。 いずれも歴代の王朝に勝るとも劣らない巨大な規模でできている。長大な神道(参道)、華表、石像、大碑楼、隆恩門、祭祀の中心となる隆恩殿、墳丘に接する明楼、墳丘、そして地下宮殿などが整備されている。地下宮殿には仏教的装飾が施されている。 関外三陵は、[[永陵]]、[[福陵]]、[[昭陵]]の三つである。後金時代の王やヌルハチ、ホンタイジの陵墓である。建築などに民族色が多少見られるのが特徴である。東京陵は一番規模が小さく、皇族が葬られている。 東陵には15基の墳墓があり、皇帝陵5基、皇后陵4基、皇妃園寝5基、皇女の墓1基があり、5人の皇帝、15人の皇后、136人の皇妃が埋葬されている。特に乾隆帝の裕陵と慈禧皇后の定東陵がもっとも壮麗とされる。1928年に軍閥の孫殿英の部隊による大規模な盗掘が行われて被害を被った。昌瑞山の麓にある。 順治帝が狩りに出た時にたまたま昌瑞山の麓にやってきた。馬を止めて眺めると風景に美しさに打たれた。山並みに「王気が青々と茂っている」と思い、弓懸の指輪を空に投げ、家臣に言った。「指輪の落ちたところは、必ずや墓地としてよい地相であるだろう。そこに朕の墓を準備してよいであろうぞ」と。その後、康煕2年(1663)に建造を始めたのが東陵の始まりであるという。 ホンタイジの皇后、孝荘文皇后の陵墓、昭西陵が大紅門の外にある。経緯や立地からして清の陵墓の中でも例外的なものである。皇后はホンタイジの死後、弟ドルゴンの妻となった。羅哲文によるとこれは満州貴族の中では珍しいことではなかったが、中国の歴史の中では希なことであった。ドルゴンは生前、いばりのさばったため、死後、衆人の非難するところとなり、一緒に葬られるのを望まなかった。しかし、弟に嫁した以上、前夫に合わせる顔もない。そこで息子の順治帝の陵墓の側に仮安置するように遺言したということではないかという。昭西陵の名前は、千里隔たったホンタイジの昭陵に対する命名である。 西陵には14基の墳墓がある。皇帝陵4基、皇后陵3基、王公、皇女、妃の墓が7基あり、76人が葬られている。永寧山の麓に広がる。 雍正帝は父の遺言を改竄して皇位を奪った。そのため、心中やましいところがあって、父の陵墓と同じところに葬られたくなかったのだと言われているという。雍正帝は、跡継ぎにも西陵を使うようにさせたかったが、息子の乾隆帝は「風水のよいところを選ぶ」という名目で東陵を選んだ。そのため、その後、東陵か西陵のどちらかに葬られることとなった。 ==皇帝一覧== {|class="wikitable" style="width:100%;" |+ !style="width:5%;"|世数 !style="width:6%;"|通称 !style="width:12%;"|名 !style="width:5%;"|生没年 !style="width:5%;"|在位年 !style="width:6%;"|廟号 !style="width:13%;"|諡号 !style="width:40%;"|備考 !style="width:8%;"|陵 |- | | |孟特穆 |1370-1433 | |肇祖 |原皇帝 |1636年4月12日、皇帝となったホンタイジが「沢王」を追尊。1648年11月5日、順治帝が廟号と追諡「原皇帝」を贈る。 |永陵(関外三陵) |- | | |福満(フマン) |生没年不詳 | |興祖 |直皇帝 |1636年4月12日、皇帝となったホンタイジが「慶王」を追尊。1648年11月5日、順治帝が廟号と追諡「直皇帝」を贈る。 |永陵(関外三陵) |- | | |覚昌安(ギオチャンガ) |?-1583 | |景祖 |翼皇帝 |1636年4月12日、皇帝となったホンタイジが「昌王」を追尊。1648年11月5日、順治帝が廟号と追諡「翼皇帝」を贈る。 |永陵(関外三陵) |- | | |塔克世(タクシ) |?-1583 | |顕祖 |宣皇帝 |1636年4月12日、皇帝となったホンタイジが「福王」を追尊。1648年11月5日、順治帝が廟号と追諡「宣皇帝」を贈る。 |永陵(関外三陵) |- |1 |天命帝 |愛新覚羅努爾哈赤(ヌルハチ) |1559-1626 |1616-1626 |太祖 |承天広運聖徳神功肇紀立極仁孝睿武端毅欽安弘文定業高皇帝 |1589年、満洲国を称した後、明の都督僉事となる。1616年、後金国を建てて、興京老城でスレ・ゲンギエン・ハン(英明汗)と称した。1621年、遼陽、1625年、瀋陽に遷都。満洲文字を制定し、八旗制を立てた。1626年8月11日崩御。67歳。のち皇帝となったホンタイジが1636年4月に廟号・陵号と初諡「承天広運聖徳神功肇紀立極仁孝武皇帝」を贈る。康熙帝が1662年に改諡「承天広運聖徳神功肇紀立極仁孝睿武弘文定業高皇帝」。雍正帝が1723年に「端毅」を加諡し「承天広運聖徳神功肇紀立極仁孝睿武端毅弘文定業高皇帝」。乾隆帝が1736年3月に「欽安」を加諡し「承天広運聖徳神功肇紀立極仁孝睿武端毅欽安弘文定業高皇帝」。 |福陵(関外三陵) |- |2 |崇徳帝/天聡帝 |愛新覚羅皇太極(ホンタイジ) |1592-1643 |1626-1643 |太宗 |応天興国弘徳彰武寬温仁聖睿孝敬敏昭定隆道顕功文皇帝 |ヌルハチの第八皇子。1626年、ハン位に即位。スレハン。1635年、民族名を女真から満洲に変更した。中国的な王朝の建国を目指し、1636年、満蒙漢の3族から推戴され皇帝に即位し、国号を後金から大清とした。群臣から「寛温仁聖皇帝」の号を奉られた。モンゴルのチャハル部から元朝の伝国玉璽とパスパ造立の大黒天像(実勝寺に祀る)を得て元朝の継承者となった。順治帝が1643年8月9日崩御。52歳。9月埋葬。10月に廟号「太宗」と初謚「応天興国弘徳彰武寛温仁聖睿孝文皇帝」を贈る。康熙帝が1661年に「隆道顕功」を加謚し「応天興国弘徳彰武寛温仁聖睿孝隆道顕功文皇帝」。雍正帝、1722年に「敬敏」を加謚し「応天興国弘徳彰武寛温仁聖睿孝敬敏隆道顕功文皇帝」。乾隆帝、1735年に「昭定」を加謚し「応天興国弘徳彰武寛温仁聖睿孝敬敏昭定隆道顕功文皇帝」。 |昭陵(関外三陵) |- | | |愛新覚羅多爾袞(ドルゴン) |1612-1650 | |(成宗) |(懋徳修道広業定功安民立政誠敬義皇帝)<br>睿忠親王 |ヌルハチの第十四皇子。戦功でメルゲンダイチン号、和碩睿親王となる。太宗の崩御後、後継者争いが生じるが、世祖を擁立。輔政王として摂政を務める。1644年、北京を攻略し、瀋陽から遷都。同年、「皇叔父摂政王」、1648年「皇父摂政王」となる。実質的に清朝の基礎を築いた。1650年12月9日に死去すると、まもなく順治帝は成宗義帝と追号した。しかし翌1651年2月に順治帝は反逆罪に問い、廟号・諡号を剥奪し祭祀の対象から外し、宗室から抹消した。墓を暴き斬首した。1778年、乾隆帝が名誉回復し家譜に復帰させた。「睿親王」に封じ、諡号「忠」を贈り、「睿忠親王」とした。[[睿忠親王祠]]に祀られた。 |(ドルゴン墓) |- |3 |順治帝 |愛新覚羅福臨(フリン) |1638-1661 |1643-1661 |世祖 |体天隆運定統建極英睿欽文顕武大徳弘功至仁純孝章皇帝 |ホンタイジの第九皇子。ドルゴンに擁立され、5歳で即位。1651年からは親政。明の抵抗勢力を駆逐するとともに明の官僚制度・社会制度の多くを継承した。弁髪を義務化した。1661年1月7日崩御。24歳。同年3月、康熙帝が初諡「体天隆運英睿欽文大徳弘功至仁純孝章皇帝」を贈る。同月埋葬。雍正帝が1722年「定統建極」を加諡し「体天隆運定統建極英睿欽文大徳弘功至仁純孝章皇帝」。乾隆帝が1735年「顕武」を加諡し「体天隆運定統建極英睿欽文顕武大徳弘功至仁純孝章皇帝」。 |孝陵(清東陵) |- |4 |康熙帝 |愛新覚羅玄燁 |1654-1711 |1661-1722 |聖祖 |合天弘運文武睿哲恭倹寛裕孝敬誠信中和功徳大成仁皇帝 |順治帝の第3子。8歳で即位。在位61年は中国歴代皇帝で最長。満漢融和に努めた。ロシアと条約を結び国境を定め、外モンゴル、青海、チベットを服属させた。1722年11月13日崩御。1723年2月、雍正帝が初謚「合天弘運文武睿哲恭倹寛裕孝敬誠信功徳大成仁皇帝」を贈る。9月に埋葬。乾隆帝が1735年3月、「中和」を加謚し「合天弘運文武睿哲恭倹寛裕孝敬誠信中和功徳大成仁皇帝」となる。 |景陵(清東陵) |- |5 |雍正帝 |愛新覚羅胤禛 |1678-1735 |1722-1735 |世宗 |敬天昌運建中表正文武英明寬仁信毅睿聖大孝至誠憲皇帝 |康熙帝の第四皇子。皇帝の意思を間違いなく伝達させる奏摺制度を定め、皇位継承者を皇帝が定める儲位密建法を確立した。1735年8月22日崩御。58歳。同年11月、乾隆帝が初諡「敬天昌運建中表正文武英明寛仁信毅大孝至誠憲皇帝」を贈る。1737年3月埋葬。1799年、嘉慶帝が「睿聖」を加諡して「敬天昌運建中表正文武英明寛仁信毅睿聖大孝至誠憲皇帝」。 |泰陵(清西陵) |- |6 |乾隆帝 |愛新覚羅弘暦 |1711-1799 |1735-1795 |高宗 |法天隆運至誠先覚体元立極敷文奮武欽明孝慈神聖純皇帝 |雍正帝の第四皇子。四庫全書を編纂。遠征は10回に及び、中国歴代王朝で最大の領土を手にした。在位60年で譲位し太上皇となる。時代は下って1928年、中国国民党が陵墓を暴き略奪する事件が起きた。1799年1月3日崩御。87歳。同年4月、嘉慶帝が初諡「法天隆運至誠先覚体元立極敷文奮武孝慈神聖純皇帝」を贈る。9月埋葬。1820年8月、道光帝が「欽明」を加諡して「法天隆運至誠先覚体元立極敷文奮武欽明孝慈神聖純皇帝」となる。 |裕陵(清東陵) |- |7 |嘉慶帝 |愛新覚羅〓〓 |1760-1820 |1796-1820 |仁宗 |受天興運敷化綏猷崇文経武光裕孝恭勤倹端敏英哲睿皇帝 |乾隆帝の第十五皇子。白蓮教反乱、天理教徒の乱に悩まされた。末年にはイギリスが送り込むアヘンの蔓延が深刻となった。1820年7月25日崩御。59歳。10月、道光帝が初諡「受天興運敷化綏猷崇文経武孝恭勤倹端敏英哲睿皇帝」を贈る。1821年3月23日埋葬。1850年、咸豊帝が「光裕」を加諡して「受天興運敷化綏猷崇文経武光裕孝恭勤倹端敏英哲睿皇帝」となる。 |昌陵(清西陵) |- |8 |道光帝 |愛新覚羅旻寧 |1782-1850 |1820-1850 |宣宗 |效天符運立中体正至文聖武智勇仁慈倹勤孝敏寬定成皇帝 |嘉慶帝の第二皇子。アヘンを禁制にするが、イギリスとの対立を招き、アヘン戦争が勃発し、敗れた。1850年1月14日崩御。67歳。4月、初諡「効天符運立中体正至文聖武智勇仁慈倹勤孝敏成皇帝」を贈る。1851年2月埋葬。1861年「寛定」を加諡して「効天符運立中体正至文聖武智勇仁慈倹勤孝敏寛定成皇帝」となる。 |慕陵(清西陵) |- |9 |咸豊帝 |愛新覚羅奕〓 |1831-1861 |1850-1861 |文宗 |協天翊運執中垂謨懋徳振武聖孝淵恭端仁寛敏荘倹顕皇帝 |道光帝の第四皇子。1850年の即位直後、太平天国の乱が勃発。1856年にはアロ-戦争。1860年英仏連合軍が北京に迫ると熱河に避難。1861年7月17日崩御。12月、同治帝が初諡「協天翊運執中垂謨懋徳振武聖孝淵恭端仁寛敏顕皇帝」を贈る。1865年埋葬。1875年、光緒帝が「荘倹」を加諡して「協天翊運執中垂謨懋徳振武聖孝淵恭端仁寛敏荘倹顕皇帝」となる。 |定陵(清東陵) |- |10 |同治帝 |愛新覚羅載淳 |1856-1875 |1861-1875 |穆宗 |継天開運受中居正保大定功聖智誠孝信敏恭寬明粛毅皇帝 |咸豊帝の第一皇子。5歳で即位。北京政変の後、慈安太后(東太后)と慈禧太后(西太后)が政治を主導し、やがて慈禧太后が政権を握る1864年、太平天国の乱を鎮圧。洋務運動が始まる。1874年12月5日崩御。18歳。1875年3月、光緒帝が初諡「継天開運受中居正保大定功聖智誠孝信敏恭寛毅皇帝」を贈る。1879年3月埋葬。1908年「明粛」を加諡して「継天開運受中居正保大定功聖智誠孝信敏恭寛明粛毅皇帝」となる。 |恵陵(清東陵) |- |11 |光緒帝 |愛新覚羅載〓 |1871-1908 |1875-1908 |徳宗 |同天崇運大中至正経文緯武仁孝睿智端倹寬勤景皇帝 |道光帝の皇孫。父は醇親王奕〓。母は慈禧太后の妹。同治帝に子がなかったため、慈禧太后に擁立され、4歳で即位。17歳から親政を開始するが、慈禧太后の権限が強かった。日清戦争敗戦を機に、1898年、戊戌変法と呼ばれる改革に乗り出すが、慈禧太后派の抵抗で頓挫。軟禁され、廃位が画策される。義和団事件で西安に避難。北京に帰還して1908年11月14日に崩御。37歳。毒殺説もある。翌年1月、廟号・諡号を贈り、埋葬した。 |崇陵(清西陵) |- | |(保慶帝) |愛新覚羅溥儁 |1885-1942 |1899-1899 | | |道光帝の皇曽孫。1899年、慈禧太后に擁立され即位するが3日で取り消された。正式な即位と認められていない。 | |- |12 |宣統帝 |愛新覚羅溥儀 |1906-1967 |1908-1912 | | |光緒帝の皇甥。醇親王載〓の第一王子。2歳で即位するが、1911年に辛亥革命で翌年、6歳で退位。1917年、一時復位するが12日間で頓挫。1924年の政変で故宮を追われ、天津に隠遁。日本の関東軍に擁立され、満洲国皇帝となる。 | |} ==一覧== ===山海関外=== 永陵・福陵・昭陵を'''関外三陵'''、'''関東三陵'''、'''盛京三陵'''、'''瀋陽三陵'''などと呼ぶ。 *永陵:被葬者はガイトム、フマン、チェツァンアン、タクシ。遼寧省撫順市新賓満族自治県永陵鎮。興京陵。啓運山の南にある。蘇子河を望む。1598年の造営。1万2000平方m。前院、方城、宝城の三つの区画からなる。方城の中に享殿や啓運殿があり啓運殿には位牌が祀られている。啓運殿の後ろの宝城は遺体を収める殿舎だが、地下宮殿はなく、各地から遺骨を改葬したものであり、遺骨のなり衣冠塚もあると思われる。もともとここに楡の「神樹」が立っていた。 *福陵:被葬者はヌルハチと孝慈高皇后。遼寧省瀋陽市渾南区天柱山。東陵ともいう。1629年の造営。康煕帝、乾隆帝が増築した。満洲族伝統の山城と、中国伝統の帝王陵墓建築が融合した独特の建築。面積は19万4800平方m。隆恩殿に位牌を祀る。後ろの宝城には宝頂と地下宮殿がある。陵墓全体を山が抱きかかえるようでまわりを河がまとわりつくように流れている。 *昭陵:被葬者はホンタイジと孝端文皇后。遼寧省瀋陽市皇姑区隆業山。通称は北陵。山海関外の陵墓ではもっとも規模が大きく保存状態が良い。450万平米。1643年起工で1651年竣工。康煕帝、嘉慶帝が増築。方城の中心が隆恩殿で、後ろの宝城に宝頂と地下宮殿がある。 *東京陵:遼寧省遼陽市。被葬者はギオチャンガ、シュルハチ、ムルハチ、フルハチ、チュイン、ダルツァなど皇族、皇子。1624年、諸陵墓をここに改葬して造営。1654年、チエツァンアンとタクシも葬られていたが、興京(永陵?)に戻された。関外の陵墓では一番規模が小さい。陽魯山の上にあり、シュルハチの墓を中心とする。 ===清東陵=== 皇帝陵5基、皇后陵4基、園寝6基の計15基がある。順治帝が狩りに来たときに昌瑞山の麓の地を気に入り、陵墓の地とすることを言ったという。1663年に順治帝の陵墓の造営が始まり清東陵が開設された。中国歴代の陵墓で最も規模が大きく壮麗な陵墓群だが、1928年、「東陵事件」と呼ばれる盗掘事件が起き、清朝の旧皇室と遺臣に衝撃を与え、溥儀が対日接近に転じるきっかけを作ったともいわれる。 *孝陵:被葬者は順治帝。清東陵の中心に位置する。参道(神道と呼ばれる)は5kmに及び、様々な建造物や像が並ぶ。順治帝は1661年に崩御し、1663年夏に順治帝の棺が陵墓に入った。 *景陵:被葬者は康熙帝。孝陵の東南にある。1681年に建てられた。 *裕陵:被葬者は乾隆帝と皇后2人と妃3人。最も壮麗な陵墓の一つ。1928年、孫殿英軍による盗掘事件。地下宮殿が公開されている。地下宮殿の四壁や、アーチに仏尊の彫刻があり、真言が刻まれている。 *定陵:被葬者は咸豊帝と孝徳顕皇后。裕陵の西にある。 *恵陵:被葬者は同治帝。景陵の東南3kmにある。 *定東陵:被葬者は慈禧太后。最も壮麗な陵墓の一つ。工芸の面からは地上の建造物は最上の部類に入るという。1928年、孫殿英軍による盗掘事件。地下宮殿が公開されている。 *定東陵:被葬者は慈安太后。 *孝東陵:被葬者は順治帝皇后の孝恵章皇后、端順妃ら7人の他、皇族11人。孝陵の東500mにある。 *昭西陵:被葬者は孝荘文皇后。大紅門の外にある。当初、康熙帝は孝陵の南に暫安奉殿を建てて棺を納め陵を築かなかったが、養正帝か1724年になって陵墓を作って昭西陵と名付けた。 *定妃園寝: *裕妃園寝:被葬者は乾隆帝の皇后や妃ら35人。裕陵の西500mにある。 *景妃園寝:被葬者は康熙帝妃の太妃。 *景妃園寝:被葬者は康熙帝妃の景妃。双妃? *恵妃園寝:恵陵の西200mにある。 *公主陵: *二郎廟: ===清西陵=== 河北省保定市易県西陵鎮。皇帝陵4基、皇后3陵、園寝7基の計14基に76人を埋葬。泰寧鎮総兵兼西陵総管大臣が置かれ、西陵全般を管理した。 輔国公と鎮国公を派遣し東府と西府を設置。その下に内務府、礼部、工部、八旗兵、緑営兵が置かれた。 *泰陵:被葬者は雍正帝、孝敬憲皇后、敦粛皇貴妃。永寧山の下にあり、清西陵の中心にある。参道(神道)は長さ約2.5kmで、南から北に向かって様々な40棟の建造物が配置される。文官武官の像が並ぶ。正殿の隆恩殿には3室あり、仏像、皇帝位牌、皇后位牌を祀る。祭祀はここで行われる。後方に宝城があり、上部を宝頂といい、下部には地下宮殿がある。手前の北門に東西の脇殿があり、東脇殿は祝板を収める場で、西脇殿はチベット仏教の僧侶が読経する場だった。 *泰東陵:被葬者は雍正帝皇后で乾隆帝生母の孝聖憲皇后。泰陵の東北1.5kmにある。 *泰妃園寝:被葬者は雍正帝の妃21人(裕妃、斉妃ら)。 *昌陵:被葬者は嘉慶帝と孝淑睿皇后。泰陵の西1kmにある。 *昌西陵:被葬者は嘉慶帝皇后の孝和睿皇后。 *昌妃園寝:被葬者は嘉慶帝の妃ら? *慕陵:被葬者は道光帝と孝穆成皇后・孝全成皇后。昌陵の西南にある。慕陵は清の皇帝陵の中で最も規模が小さい。道光帝ははじめ東陵に埋葬されることを望んだが、地下宮殿が水没する事がわかったので西陵に場所を替えた。水を吐き出す龍を地下に行かせないために、隆恩殿の天井や梁・桁を龍の彫刻で埋め尽くした。他にない格別な風格のある殿舎となっている。 *慕東陵:被葬者は道光帝皇后の孝慎成皇后・孝静成皇后の2人。 *崇陵:被葬者は光緒帝と隆裕皇后。泰陵の東にある。1909年起工。1915年(民国4年)の竣工で、最も新しい陵墓。盗掘被害を受けた地下宮殿は1980年に整理された。 *崇妃園寝:被葬者は光緒帝の妃の珍妃姉妹。1900年の北京の事件の混乱に乗じて、姉妹は慈禧皇后に暗殺された。突き落とされた井戸に放置され、翌年、北京の西の田村に葬られたがのちにここに改葬された。 *端王園寝:崇陵の西南にある。 *公主園寝:崇陵の西南にある。 *阿哥園寝:崇陵の西南にある。 *懐王園寝:昌西陵の西にある。 *[[易県・永福寺|永福寺]]:崇陵の東南にある。陵墓の祭祀のために建てられた。[[チベット仏教]][[ゲルク派]]。 ==参考文献== *羅哲文『中国歴代の皇帝陵』徳間書店 ==脚注== <references/> [[category:系譜記事]]
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