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京都・円融寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
京都・円融寺
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'''円融寺'''(えんゆうじ)は、京都府京都市右京区龍安寺御陵ノ下町にあった[[真言宗]]寺院。廃絶。[[円融天皇]]の勅願寺。[[仁和寺]]子院。現在の[[龍安寺]]のあたりにあった。歴代天皇が創建した[[四円寺]]の一つ。永観元年(983)に創建した。開山は寛朝。譲位後の円融上皇の御所であり、崩御後には菩提寺となった。[[円融天皇陵]]も寺の北に設けられた。'''円融院'''。[[仁和寺関連旧跡]]。 (参考 同名寺院[[円融寺]]) ==歴史== [[file:Kokudo0042.jpg|thumb|300px|龍安寺(国土地理院空中写真より)]] 仁和寺の近く建てた寛朝の坊が起源という。法華三昧堂があったという。 979年10月、料田を施入。伽藍を造営し、983年3月22日、寛朝を導師に落慶法要を営んだ。 日本紀略によると御斎会に準じて行われ、[[良源]]が講師を、尋禅が呪願師を務めており[[天台宗]]色が強かった。 [[七仏薬師]]を祀った。 985年9月、[[円融上皇]]が移住し御所となる。986年、上皇が[[東大寺戒壇院]]で受戒するため南都に下った際は円融寺から出発している。 989年1月と2月に[[一条天皇]]が上皇の住む円融寺に行幸した。 990年3月20日、五重塔を建立。 991年2月12日、円融法皇は円融寺で崩御。2月19日、円融寺の北で火葬され([[朱山七陵]]に[[円融天皇火葬塚]]がある)、父の[[村上天皇陵]]の近くに埋葬し、閏2月27日の四十九日法要を円融寺で営んだ。 1011年に崩御した一条天皇は一旦、[[鹿ケ谷・円成寺]]に納骨されたが、1020年6月16日、遺言に従い円融天皇陵の近くに改葬された。旧地は不明だが、朱山七陵に定められた現在の[[一条天皇陵]]は円融寺北陵と呼ばれている。 1073年に崩御した[[後三条天皇]]の遺骨は[[禅林寺]]内の坊に奉安されたが、1107年までに円融寺内に移され、陵自体が[[円宗寺]]と呼ばれている。 1018年から1022年まで、[[京都・円教寺]]の法華八講(6/22)が同寺伽藍の焼失のため円融寺で行われた。 鎌倉時代には[[仁和寺真乗院]]が管理した。 1131年に法華堂が焼失。以後、衰退し廃絶した。 (『国史大辞典』、『日本歴史地名大系』ほか) [[category:京都府]]
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