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法隆寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
法隆寺
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'''法隆寺'''(ほうりゅうじ)は、奈良県生駒郡斑鳩町にある、[[聖徳太子]]ゆかりの、[[南都仏教]]の[[奈良仏教の本山寺院|本山寺院]]。[[法相宗]]系[[聖徳宗]]総本山。本尊は[[釈迦如来]]。[[斑鳩宮]]の西隣に創建された。[[官寺]]七大寺の一つで、飛鳥時代を代表する[[古代寺院]]であり、現存世界最古の木造建築。太子信仰の中心で、宗派を超えた尊崇の対象となり、多くの高僧が参詣している。[[聖徳太子建立四十六寺]]の一つ。[[修験道]][[当山派]]の[[正大先達]]の一つ。本坊は[[法隆寺西園院|西園院]]。鎮守は、[[斑鳩・龍田神社]]。[[法隆寺関連旧跡]]も参照。'''斑鳩寺'''。'''鵤寺'''。'''鵤大寺'''(694年「造像記銅板」)。'''斑鳩本寺'''(『法隆寺資財帳』)。(参考:同名寺院[[法隆寺_(同名)]]) == 歴史 == ===古代1飛鳥時代〜奈良時代=== 推古15年(607)、推古天皇と聖徳太子が創建したというが異説もある。 『日本書紀』には前年に水田を「斑鳩寺」に寄進したとの記事があり、7世紀初頭に建てられたことは確実とみられる。 推古30年2月22日に聖徳太子は死去。皇極2年(643)、蘇我入鹿が斑鳩宮を襲撃し山背大兄王の一族を滅ぼした。 『日本書紀』には天智9年4月30日に伽藍全焼を伝えるが再建のことを記さないため、明治には再建非再建論争が起こったが若草伽藍跡の発見で再建説が確定した。現在の伽藍は、天武持統朝から和銅4年(711)頃の造営と推定されている(国史大辞典)。塔を西、金堂を東とする法隆寺式伽藍。 天平19年に編纂された『法隆寺伽藍縁起並流記資財帳』が現存し、当時の寺の様子がよく分かる。 天平11年、行信が斑鳩宮跡に上宮王院を創建。太子等身と伝える観音像を祀った。夢殿を中心とする独立した寺院だったがやがて東院として法隆寺に統合された。 天平宝字5年(761)には『東院縁起資財帳』が編纂された。 ===古代2平安時代=== ===中世=== 平安時代後期、太子信仰が高まると御影像の造立や忌日法要の聖霊会、三経義疏の講讃が行われるようになった。 また中世、[[興福寺]]の支配下に入り、住職に当たる別当職は興福寺僧が務めるようになった。 そのためもあって、法相宗の代表的な寺院の一つとして、唯識研究が盛んとなり、宗祖[[基]]の忌日法要である慈恩会も始まった。 室町時代の『太子伝玉林抄』によると、末寺として[[中宮寺]]、[[法起寺]]、定林寺、妙安寺、[[新堂寺]]があった。 ===近世=== 天正年間、[[豊臣秀吉]]の治世下で寺領を削減され、1000石となる。 慶長年間、豊臣秀頼が伽藍修復。 江戸時代、徳川綱吉と桂昌院の寄進で修復。 ===近代=== 上知令で寺領を没取され、財源を失ったが明治11年(1878)、皇室に寺宝を献納した下賜金で寺院運営を保てた。 明治5年10月5日、政府は小規模な宗派は大教団に所属するように命令したため、翌年8月〜9月頃に[[単称真言宗]]に属した。明治11年5月20日、同じく真言宗に属した[[西大寺]]、[[薬師寺]]、[[唐招提寺]]や、[[仁和寺]]、[[大覚寺]]と共に真言宗西部として独立するが翌年4月30日、再び単称真言宗に併合。明治14年に神仏分離で廃絶となった[[興福寺]]が復興すると、翌明治15年6月26日、真言宗から独立して興福寺と共に[[単称法相宗]]を設立した。 昭和9年から大工事が始まった。 ===現代=== 昭和24年、修復中の金堂が炎上。壁画が失われた。 翌年、単称法相宗を離脱して[[聖徳宗]]を設立した。同年9月22日、佐伯定胤長老が法相宗離脱の意向を突如発表。11月12日、管長・本山住職全員が欠席した異例の宗会で定胤長老が聖徳宗独立を宣言。翌日の慈恩会にも興福寺と薬師寺は出仕を拒んだ。15日、法隆寺聖霊院で独立奉告式。昭和26年3月4日、改めて開宗奉告式。 == 伽藍 == ===若草伽藍=== ===西院=== *金堂 *五重塔 *大講堂 *[[法隆寺聖霊院|聖霊院]]:聖徳太子の御影堂。元は僧房東室の南端部だが、平安時代末の保安2年(1121)に僧房3室を改造して聖霊院とした。弘安7年(1284)、梁間を広げて建て替えられ、独立した仏堂として現在の姿となった。聖徳太子の随身として山背王・殖栗王・卒末呂王の王子3人と師の恵慈も祀る。 *三経院 *上御堂 *西円堂 *薬師坊 *百済観音堂 *食堂 *綱封蔵 ===東院=== [[斑鳩宮]]の跡地で、元は上宮王院という別の寺だった。 *夢殿:東院の本堂に当たる八角円堂。現在の堂は天平11年の創建前後に建てられた建造物。夢殿の名は、元々は聖徳太子がたびたび瞑想に入ったとされる伝説的な殿舎の名。平安時代初期からこの堂の呼称とされるようになった。寛喜2年(1230)の修復で屋根の勾配が急になっている。行信、道詮の像も祀られている。 *礼堂: *舎利殿: *伝法堂:講堂に当たる。 == 組織== ===別当=== *高田良信(1941-2017、法隆寺128世)が編纂した「法隆寺別当并一臈法印次第」(『法隆寺の歴史と年表』)に基づく。 *高田良信は、平安時代~室町時代末までは「法隆寺別当」を、室町時代末~明治初年までは「一臈法印」を歴代住職とみなして、歴代の人名と世数を従来のものから改定した。改定した年時は確認中。 *明治初年から高田良信が改定するまで、住職千早定朝が編纂した「法隆寺院主并寺主譜略伝」に基づき歴代住職が数えられていたが、『法隆寺別当記』が記す延鳳から晃円に、千早定朝の自坊の中院の歴代を足して江戸時代末までを100世とし、自らを101世とした便宜上の一覧表であった。 *「法隆寺別当」という職は平安時代中期に延鳳が初めて任命されたとされ(異説もある)、中世末まで興福寺などの高僧が兼務した。『法隆寺別当記』が基礎史料とされるが、遺漏や誤記もあるという。中世の半ばから別当に任命されても法隆寺に常駐せず寺務に関与しなくなり、そして室町時代末には「法隆寺別当」は任命されなくなった。天正・慶長の頃までは存続していたと推測されるが、廃絶時期は明確でない。興福寺別当が名誉職化する一方、寺僧の首席である「一臈法印」に就いた僧が鎌倉時代以降、事実上の住職として寺務を担い明治初期まで続いた。 *「一臈法印」は『法隆寺舎利預次第』『年会所日次記』などを出典としたという。 *「一臈法印」の拝堂(就任儀礼)では観勒像の尊前に戸帳と杖を奉献する習慣があり、前近代のものとしては19人分が残っているという。 *戦後の一時期にみられる「管主」の用例については要検討。住職とは微妙に異なる意味合いで使われているようだが説明の記述はない。 *現在、法隆寺住職は聖徳宗管長を兼ね、宗教法人としての法隆寺と聖徳宗の代表役員を兼ねる。 {|class="wikitable" |+ !style="width:5%;"|世数 !style="width:10%;"|名前 !style="width:10%;"|生没年 !style="width:10%;"|在職年 !style="width:40%;"|備考 |- |1 |延鳳 |生没年不詳 |在職年不詳 |承和年間(834-848)に補任。 |- |2 |長賢 |生没年不詳 |878-? |878年(元慶2年)補任。 |- |3 |慈願 |生没年不詳 |在職年不詳 |寛平年間(889-898)補任。 |- |4 |禎杲 |生没年不詳 |898-? |898年(昌泰1年)補任。 |- |5 |長延 |生没年不詳 |904-? |904年(延喜4年)補任。 |- |6 |寛延 |生没年不詳 |在職年不詳 |延喜年間(901-923)補任。 |- |7 |観理 |894-974 | |東大寺別当54世。醍醐寺座主8世。法隆寺別当7世。東南院院主(?)。三論宗・真言宗の僧。延〓の弟子。延長年間、法隆寺別当補任。在職12年。大僧都。(略歴は[[醍醐寺#組織]]を参照) |- |8 |法縁 |909-981 |932-? |東大寺別当55世・56世。醍醐寺座主9世。法隆寺別当8世・10世。932年(承平2年)法隆寺別当に補任。在職4年。已講。(略歴は[[醍醐寺#組織]]を参照) |- |9 |湛照 |909-987 |在職年不詳 |東大寺別当57世?天慶年間、法隆寺別当に補任。在職12年。菅原氏。堪照? |- |10 |法縁 |909-981 |964-? |964年(康保1年)法隆寺別当に再任。在職4年。律師。 |- |11 |法蓮 |生没年不詳 |968?-? |968年(安和1年)頃、法隆寺別当に補任。在職2年あるいは5カ年。已講。 |- |12 |実算 |生没年不詳 |973-? |興福寺僧。973年(天延1年)法隆寺別当に補任。在職3年あるいは6年。大威儀師。 |- |13 |長隆 |生没年不詳 |979-? |東大寺僧。979年(天元2年)法隆寺別当に補任。在職4年あるいは6年。威儀師。 |- |14 |忠教 |生没年不詳 |985-? |東大寺僧。985年(寛和1年)法隆寺別当に補任。在職4年あるいは5年。威儀師。 |- |15 |仁階 |生没年不詳 |990-? |東大寺僧か法隆寺僧。990年(正暦1年)法隆寺別当に補任。在職5年。 |- |16 |長耀 |?-1004 |995-? |醍醐寺僧。東大寺分。995年(長徳1年)法隆寺別当に補任。在職9年。1004年(寛弘1年)死去。 |- |17 |観峰 |生没年不詳 |1005-? |1005年(寛弘2年)法隆寺別当に補任。在職16年。大威儀師。仁和寺僧。東大寺分。 |- |18 |延〓 |生没年不詳 |1020-? |1020年(寛仁4年)12月27日法隆寺別当に補任。在職4年。俗別当。東大寺分。 |- |19 |永照 |生没年不詳 |1025-1027 |興福寺僧。1025年(万寿2年)法隆寺別当に補任。在職3年。1027年(万寿4年)6月辞任。大僧都。 |- |20 |仁満 |生没年不詳 |1029-? |仁和寺僧。1029年(長元2年)法隆寺別当に補任。威儀師。 |- |21 |久円 |生没年不詳 |1035-1039? |1035年(長元8年)8月27日法隆寺別当に補任。在職5年。威儀師。 |- |22 |親誉 |生没年不詳 |1039-1048? |1039年(長暦3年)12月法隆寺別当に補任。在職9年。 |- |23 |琳元 |生没年不詳 |1048-1057? |興福寺僧。1048年(永承3年)12月22日法隆寺別当に補任。在職9年。已講。 |- |24 |長照 |生没年不詳 |1057-1067? |自坊は興福寺喜多院。1057年(天喜5年)10月15日法隆寺別当に補任。在職11年。大僧都。 |- |25 |彦祚 |生没年不詳 |1067-? |長楽寺または興福寺の僧という。1067年(治暦3年)12月26日法隆寺別当に補任。 |- |26 |公範 |?-1086 |1070-1074 |自坊は興福寺新院。興福寺別当28世。1070年(延久2年)2月20日法隆寺別当に補任。在職3年。1074年(承保1年)2月辞任。大僧都。 |- |27 |慶深 |?-1074 |1074-1074 |興福寺僧。1074年(承保1年)1月14日法隆寺別当に補任。同年2月5日死去。已講。 |- |28 |能算 |?-1094 |1075-1094 |西大寺別当31世。興福寺僧。[[宿曜道]]にたける。1062年(康平5年)[[西大寺]]別当。1075年(承保2年)5月30日から没年まで法隆寺別当。1094年(嘉保1年)6月27日死去。大威儀師。 |- |29 |永超 |1014-1095 |1094-1095 |自坊は興福寺新院。橘俊孝の子。[[興福寺]]主恩に学ぶ。1059年(康平2年)維摩会講師。興福寺末寺の[[斉恩寺]]に住す。1094年(嘉保1年)12月に法隆寺別当となる。翌年12月29日死去(11月とも)。82歳。大僧都。 |- |30 |延真 |?-1100 |1096-1100 |興福寺僧。1096年(永長1年)3月12日法隆寺別当に補任。在職4年。1100年(康和2年)7月死去。律師。 |- |31 |定真 |?-1110 |1101-1110 |自坊は興福寺八室。1101年(康和3年)1月14日法隆寺別当に補任。在職10年。1110年(天永1年)11月12日死去。大僧都。 |- |32 |経尋 |?-1132 |1109-1129 |興福寺別当33世。1109年(天仁2年)11月法隆寺別当に補任。在職21年。1129年(大治4年)12月、興福寺別当に転任。法印大僧都。1132年(長承1年)死去。 |- |33 |覚誉 |?-1146 |1132-1139 |自坊は興福寺法雲院。興福寺別当36世。1132年(長承1年)5月27日法隆寺別当に補任。在職9年。1139年(保延5年)12月26日興福寺に転任。法印大僧都。 |- |34 |覚晴 |?-1148 |1141-1147 |興福寺別当37世。1141年(永治1年)11月24日法隆寺別当に補任。在職7年。1147年(久安3年)2月13日興福寺に転任。大僧都。1148年(久安4年)死去。 |- |35 |信慶 |生没年不詳 |1148-1155? |自坊は興福寺東院。1148年(久安4年)5月29日法隆寺別当に補任。在職7年。僧都。 |- |36 |覚長 |生没年不詳 |1155-1176? |自坊は興福寺東院。1155年(久寿2年)5月24日法隆寺別当に補任。在職22年。僧都。 |- |37 |賀宝 |生没年不詳 |1176-1180? |勧修寺の僧。1176年(安元2年)3月21日法隆寺別当に補任。在職4年。僧都。 |- |38 |慧範 |生没年不詳 |1180-1191? |自坊は興福寺西南院。恵範。1180年(治承4年)1月13日法隆寺別当に補任。在職12年。法眼。 |- |39 |範玄 |生没年不詳 |1191-1194 |興福寺別当46世。1191年(建久2年)8月30日法隆寺別当に補任。在職4年。1194年(建久5年)12月30日興福寺別当転任。僧正。 |- |40 |覚弁 |生没年不詳 |1195-1199? |自坊は興福寺興善院。1195年(建久6年)1月30日法隆寺別当に補任。在職4年。法印。法隆寺大衆に訴えられ、自坊まで太子御影と共に詰め寄られる。そしてまもなく死去。 |- |41 |成宝 |1159-1227 |1199-1207 |真言宗の僧。藤原惟方の子。勧修寺門跡。[[元興寺]]別当、[[東大寺]]別当102世・104世、[[大安寺]]別当。[[東寺]]長者。[[高野山]]に隠退。1199年(正治1年)12月4日法隆寺別当に補任。在職8年。僧都。法隆寺別当就任の翌日に興福寺堂衆が法隆寺大湯屋を襲撃。(略歴は[[勧修寺#組織]]を参照) |- |42 |兼光 |生没年不詳 |1207-1210? |1207年(承元1年)法隆寺別当に補任。在職4年。僧都。東大寺、勧修寺に住す。法隆寺別当に就任しても法隆寺に来ることがなかった。興福寺の訴えで解任。 |- |43 |範円 |?-1231 |1210-1223 |興福寺別当54世。自坊は興福寺菊園。1210年(承元4年)5月法隆寺別当に補任。在職13年。1223年(貞応2年)2月10日興福寺別当転任。法印。 |- |44 |範信 |生没年不詳 |1223-1225 |自坊は興福寺東院。1223年(貞応2年)3月4日法隆寺別当に補任。大僧都。 |- |45 |範円 |?-1231 |1227-1231 |自坊は興福寺理趣院。1227年(安貞1年)2月22日法隆寺別当に再任。在職4年。1231年(寛喜3年)9月24日死去。僧正。 |- |46 |覚遍 |生没年不詳 |1231-1255? |自坊は興福寺光明院。1231年(寛喜3年)11月7日法隆寺別当に補任。在職25年。法印権大僧都。 |- |47 |尊海 |生没年不詳 |1255-1259? |自坊は興福寺遍照院。1255年(建長7年)12月27日法隆寺別当に補任。在職5年、法印。 |- |48 |良盛 |1196-1262 |1259-1262 |興福寺別当68世。自坊は[[興福寺仏地院]]。興福寺基円に師事。1251年(建長3年)元興寺別当。1256年(康元1年)興福寺別当。1259年(正元1年)5月27日法隆寺別当。在職4年。1262年(弘長2年)8月27日死去。66歳。仏地院僧正。(日本人名大辞典) |- |49 |頼円 |生没年不詳 |1262-1266 |興福寺別当71世。自坊は興福寺東北院。1262年(弘長2年)6月法隆寺別当に補任。在職5年。法印。 |- |50 |玄雅 |?-1284 |1266-1283? |興福寺別当78世。自坊は興福寺中南院。1266年(文永3年)7月28日法隆寺別当に補任。在職18年。1284年(弘安7年)12月8日死去。法印。 |- |51 |乗範 |生没年不詳 |1283-1284? |自坊は興福寺竹林院。1283年(弘安6年)12月18日法隆寺別当に補任。在職2年。法印。 |- |52 |実懐 |1235-1291 |1284-1289 |興福寺別当82世。自坊は[[興福寺松林院]]。1284年(弘安7年)10月、法隆寺別当就任。在職6年。1289年(正応2年)興福寺別当。1291年(正応4年)4月24日死去。57歳。法印。(『日本人名大辞典』) |- |53 |印寛 |生没年不詳 |1289-1295? |自坊は興福寺教恩院。1289年(正応2年)9月法隆寺別当に補任。在職7年。僧正。 |- |54 |性誉 |生没年不詳 |1295-1298? |興福寺別当74世。1295年(永仁3年)法隆寺別当に補任。在職4年。僧正。 |- |55 |公寿 |生没年不詳 |1298-1304? |興福寺別当98世?自坊は興福寺尊光院。1298年(永仁6年)法隆寺別当に補任。在職6年。僧都。 |- |56 |宗親 |生没年不詳 |1304-1304 |興福寺別当95世。自坊は興福寺東林院。1304年(嘉元2年)3月1日法隆寺別当に補任。在職1年。法印。 |- |57 |公寿 |生没年不詳 |1304-1308 |1304年(嘉元2年)12月10日、法隆寺別当に再任。在職2年。1308年(延慶1年)7月3日興福寺別当に転任。興福寺尊光院。僧正。 |- |58 |実聡 |生没年不詳 |1308-1315? |興福寺別当104世。1308年(延慶1年)7月3日法隆寺別当に補任。在職8年。権僧正。興福寺西南院。 |- |59 |隆遍 |生没年不詳 |1315-1318 |興福寺別当107世。自坊は興福寺修南院。四条隆親の子。興福寺の澄誠に師事。1315年(正和4年)法隆寺別当。在職2年。1318年(文保2年)興福寺別当。法印。(『日本人名大辞典』) |- |60 |良寛 |生没年不詳 |1318-1321? |自坊は興福寺東室。1318年(文保2年)法隆寺別当に補任。在職5年。法印。 |- |61 |顕親 |生没年不詳 |1321-1321 |自坊は興福寺松洞院。1321年(元亨1年)6月13日法隆寺別当に補任。僧正。『法隆寺別当記』では歴代から脱漏しているが「法隆寺文書」に記録があるという。 |- |62 |良寛 |生没年不詳 |1321-1323? |1321年(元亨1年)10月1日法隆寺別当に補任。『法隆寺別当記』では歴代から脱漏しているが「法隆寺文書」に記録があるという。 |- |63 |能寛 |生没年不詳 |1323-1326? |興福寺僧。1323年(元亨3年)法隆寺別当に補任。在職4年。僧都。 |- |64 |顕観 |生没年不詳 |1326-1327? |自坊は興福寺松東院。1326年(嘉暦1年)法隆寺別当に補任。在職1年。僧正。 |- |65 |実聡 |生没年不詳 |1327-1328? |1327年(嘉暦2年)9月2日、法隆寺別当に再任。在職1年。僧正。 |- |66 |憲信 |生没年不詳 |1328-1335? |自坊は興福寺福智院。1328年(嘉暦3年)法隆寺別当に補任。在職6年。僧正。 |- |67 |能寛 |生没年不詳 |1335-1344? |自坊は興福寺発志院。1335年(建武2年)5月13日法隆寺別当に再任。在職9年。1344年(康永3年)2月27日死去。僧正。 |- |68 |良暁 |1285-? |1344-1345? |自坊は興福寺修南院。1344年(康永3年)2月19日法隆寺別当に補任。在職2年。1347年(正平2年/貞和3年)興福寺別当126世。僧正。(日本人名大辞典) |- |69 |範守 |?-1347 |1345-1347 |興福寺僧。1345年(貞和1年)11月法隆寺別当に補任。在職1年。1347年(貞和3年)4月21日死去。法印。興福寺塔内。 |- |70 |覚懐 |生没年不詳 |1347-1352? |自坊は法隆寺西南院。1347年(貞和3年)6月11日法隆寺別当に補任。在職5年。法印。 |- |71 |懐雅 |生没年不詳 |1352-? |興福寺別当128世。自坊は興福寺松林院。1352年(文和1年)10月9日法隆寺別当に補任。法印。 |- |72 |頼乗 |生没年不詳 |1370-1372? |興福寺別当130世。自坊は興福寺安養院。1368年(正平23年/応安1年)興福寺権別当。興福寺別当。1370年(応安3年)2月21日法隆寺別当。在職2年。僧正。安養院僧正。(日本人名大辞典) |- |73 |顕遍 |生没年不詳 |1372-1376? |自坊は興福寺東林院。1372年(応安5年)2月5日法隆寺別当に補任。在職5年。僧正。 |- |74 |実遍 |生没年不詳 |1376-1379? |興福寺別当134世・137世・139世。自坊は興福寺法雲院。1376年(永和2年)3月30日法隆寺別当に補任。在職4年。僧正。 |- |75 |孝憲 |生没年不詳 |1379-1384? |興福寺別当141世。自坊は興福寺来迎院。1379年(康暦1年)6月23日法隆寺別当に補任。在職6年。僧都。 |- |76 |円守 |生没年不詳 |1384-1394? |興福寺別当138世・140世。自坊は興福寺東院。1384年(至徳1年)12月15日法隆寺別当に補任。在職10年。僧正。 |- |77 |長懐 |1342-1396 |1394-1396? |興福寺別当147世。自坊は興福寺松林院。1394年(応永1年)10月8日法隆寺別当に補任。在職3年。1396年(応永3年)7月12日死去。僧正。 |- |78 |実雅 |?-1409 |1396-1409 |自坊は興福寺松林院。1396年(応永3年)9月8日法隆寺別当に補任。1409年(応永16年)死去。僧正。『法隆寺別当記』の正本では歴代から脱漏しているが異本(実乗本)に記載される。 |- |79 |兼覚 |1361-1422 |1409-1412 |自坊は[[興福寺慈恩院]]。1409年(応永16年)4月3日法隆寺別当。1412年(応永19年)12月23日興福寺別当158世。1414年(応永21年)興福寺慈恩院住職。1422年(応永29年)5月12日死去。62歳。法印。(『日本人名大辞典』) |- |80 |孝俊 |?-1443 |1413-1443 |興福寺別当160世。自坊は興福寺仏地院。1413年(応永20年)9月24日法隆寺別当。1443年(嘉吉3年)11月6日死去。僧正。 |- |81 |俊祐 |生没年不詳 |1443-? |自坊は興福寺仏地院。1443年(嘉吉3年)12月法隆寺別当。律師。『法隆寺別当記』の正本では歴代から脱漏しているが異本(実乗本)に記載される。 |- |82 |俊円 |?-1484 |?-1484 |自坊は興福寺東北院。1450年(宝徳2年)11月4日拝堂。1484年(文明16年)5月13日死去。僧正。『法隆寺別当記』の正本では歴代から脱漏しているが異本(実乗本)に記載される。 |- |83 |仁円 |生没年不詳 |1484-? |自坊は興福寺東北院。1484年(文明16年)12月14日法隆寺別当に補任。僧正。 |- |84 |晃円 |?-1548 |?-1548 |興福寺別当200世。自坊は興福寺東北院。1518年(永正15年)7月28日拝堂。1548年(天文17年)6月10日死去。上人。 |- |85 |兼継 |?-1553 |1548-1553? |自坊は興福寺東北院。1548年(天文17年)12月法隆寺別当に補任。1553年(天文22年)9月6日死去。大僧正。『法隆寺別当記』では歴代から脱漏しているが「法隆寺文書」に記録があるという。 |- |86 |兼深 |生没年不詳 |1553-? |自坊は興福寺東北院。1553年(天文22年)12月法隆寺別当に補任。大僧正。判明している最後の法隆寺別当という。『法隆寺別当記』では歴代から脱漏しているが「法隆寺文書」に記録があるという。 |} ===中世の一臈=== ===近世の一﨟=== *時期は不明確だが「法隆寺別当」は廃絶し、「一臈法印」が寺務を統括した。 *世数は高田良信が定めたものに従う。広い意味での法隆寺住職としての歴代。 {|class="wikitable" |+ !style="width:5%;"|世数 !style="width:10%;"|名前 !style="width:10%;"|生没年 !style="width:10%;"|在職年 !style="width:40%;"|備考 |- |87 |栄甚 |?-1605 |~1597~ |自坊は西南院。1597年(慶長2年)2月11日、一臈法印として拝堂。1605年(慶長10年)11月24日死去。律師。 |- |88 |懐訓 |?-1605 |~1600~ |1600年(慶長5年)11月10日、一臈法印として拝堂。1605年(慶長10年)11月24日死去。律師。 |- |89 |長波 |?-1606 |在職年不詳 |自坊は西院。1606年(慶長11年)2月20日死去。権大僧都。 |- |90 |舜清 |生没年不詳 |~1606~ |1606年(慶長11年)3月11日、一臈法印として拝堂。律師。 |- |91 |弘算 |生没年不詳 |~1610~ |1610年(慶長15年)2月18日、一臈法印として拝堂。律師。 |- |92 |長乗 |?-1621 |?-1621? |自坊は宝蔵院。1618年(元和4年)3月28日、一臈法印として拝堂。1621年(元和7年)11月10日死去。権少僧都。 |- |93 |光祐 |1556-1629 |1621?-1629? |自坊は中院。1556年(弘治2年)生。1622年(元和8年)3月6日、一臈法印として拝堂。1629年(寛永6年)3月22日死去。74歳。僧都。 |- |94 |覚祐 |生没年不詳 |1629?-? |自坊は政蔵院。1629年(寛永6年)6月8日、一臈法印として拝堂。律師。 |- |95 |仙尊 |生没年不詳 |~1632~ |自坊は地蔵院。1632年(寛永9年)12月1日、一臈法印として拝堂。僧都。 |- |96 |高栄 |?-1662 |?-1662? |自坊は観音院。1655年(明暦1年)4月17日、一臈法印として拝堂。1662年(寛文2年)2月27日死去。 |- |97 |光喜 |?-1687 |1662?-? |自坊は花園院。1662年(寛文2年)5月27日、一臈法印として拝堂。1687年(貞享4年)1月2日死去。 |- |98 |実円 |?-1691 |1687?-? |自坊は椿蔵院。1687年(貞享4年)2月29日、一臈法印として拝堂。1691年(元禄4年)12月28日死去。 |- |99 |尊殊 |?-1703 |1692?-1698 |自坊は宝蔵院。1692年(元禄5年)3月6日、一臈法印として拝堂。1698年(元禄11年)10月14日辞任。1703年(元禄16年)3月2日死去。 |- |100 |良尊 |?-1706 |1698?-1706? |自坊は西園院。1698年(元禄11年)11月14日、一臈法印として拝堂。1706年(宝永3年)2月3日死去。権大僧都。 |- |101 |良賛 |1654-1714 |1706?-1714? |自坊は花園院。1654年(承応3年)生。1706年(宝永3年)3月28日、一臈法印として拝堂。1714年(正徳4年)3月26日死去。61歳。権大僧都。 |- |102 |覚勝 |1653-1731 |1714?-1731? |自坊は中院。1653年(承応2年)生。1714年(正徳4年)4月22日、一臈法印として拝堂。1731年(享保16年)9月2日死去。79歳。権大僧都。 |- |103 |堯懐 |?-1751 |1731?-1741 |自坊は西園院。1731年(享保16年)11月17日、一臈法印として拝堂。1741年(寛保1年)8月18日辞任。1751年(宝暦1年)6月15日死去。権僧正。 |- |104 |良訓 |1694-1742 |1741-1742 |自坊は中院。1694年(元禄7年)生。1741年(寛保1年)一臈に補任。1742年(寛保2年)6月5日死去。49歳。大僧都。 |- |105 |千懐 |1697-1755 |1742-1755 |自坊は阿弥陀院。1697年(元禄10年)生。1742年(寛保2年)6月、一臈に補任。1755年(宝暦5年)8月10日死去。59歳。権僧正。 |- |106 |信秀 |?-1756 |1755-1756 |自坊は政倉院。1755年(宝暦5年)、一臈に補任。1756年(宝暦6年)10月24日死去。権大僧都。 |- |107 |慶雲 |?-1793 |1756-1793 |自坊は中院。1756年(宝暦6年)、一臈に補任。1793年(寛政5年)1月3日死去。権僧正。 |- |108 |胤懐 |?-1800 |1793-1800 |自坊は西園院。1793年(寛政5年)、一臈に補任。1800年(寛政12年)10月22日死去。権大僧都。 |- |109 |昶雅 |?-1818 |1800-1801 |自坊は安養院。1800年(寛政12年)、一臈に補任。1801年(享和1年)10月22日辞任。1818年(文政1年)9月17日死去。権大僧都。 |- |110 |円範 |?-1801 |1801-1801 |自坊は椿蔵院。1801年(享和1年)、一臈に補任。1801年(享和1年)12月18日死去。権大僧都。 |- |111 |懐儀 |?-1824 |1801-1809 |自坊は普門院。1801年(享和1年)、一臈に補任。1809年(文化6年)11月25日辞任。1824年(文政7年)10月22日死去。権僧正。 |- |112 |湛肇 |?-1810 |1809-1810 |自坊は和喜院。1809年(文化6年)、一臈に補任。1810年(文化7年)3月3日死去。大僧都。 |- |113 |胤周 |?-1813 |1810-1813 |自坊は西園院。1810年(文化7年)、一臈に補任。1813年(文化10年)5月11日死去。権僧正。 |- |114 |覚賢 |1764-1839 |1813-1821 |自坊は善住院。1764年(明和1年)生。1813年(文化10年)、一臈に補任。1821年(文政4年)7月17日辞任。1839年(天保10年)7月25日死去。76歳。大僧都。 |- |115 |永信 |1761-1822 |1821-1821 |自坊は中道院。1761年(宝暦11年)生。1821年(文政4年)7月18日、一臈に補任。1822年(文政5年)5月9日死去。62歳。権大僧都。 |- |116 |堯長 |1785-1857 |1822-1840 |自坊は西園院。1785年(天明5年)生。1822年(文政5年)、一臈に補任。1840年(天保11年)11月17日辞任。1857年(安政4年)5月29日死去。73歳。権大僧都。 |- |117 |秀賛 |?-1846 |1840-1846 |自坊は興善院。1840年(天保11年)、一臈に補任。1846年(弘化3年)1月3日死去。権僧正。 |- |118 |実然 |?-1873 |1846-1861 |自坊は政南院。1846年(弘化3年)、一臈に補任。1861年(文久1年)3月12日退任。1873年(明治6年)1月16日死去。権大僧都。 |- |119 |千晃 |?-1864 |1861-1864 |自坊は中院。1861年(文久1年)、一臈に補任。1864年(元治1年)1月6日死去。権大僧都。 |- |120 |頼賢 |1816-1872 |1864-1872 |自坊は善住院。1816年(文化13年)生。1864年(元治1年)、一臈に補任。1872年(明治5年)10月1日死去。57歳。権大僧都。 |} ===近代の住職=== {|class="wikitable" |+ !style="width:5%;"|世数 !style="width:10%;"|名前 !style="width:10%;"|生没年 !style="width:10%;"|在職年 !style="width:40%;"|備考 |- |121 |千早定朝 |1823-1899 |1876-1899 |大和国山辺郡出身。1872年(明治5年)一﨟となる。1876年(明治9年)6月9日、法隆寺住職就任(9月19日とも??)。学問興隆を志し、[[東本願寺]]の学問場を誘致。1882年(明治15年)、[[単称法相宗]]独立を実現。1890年(明治23年)3月23日から翌年2月16日まで、[[興福寺]]240世と[[清水寺]]を兼務。1895年(明治28年)4月14日から死去まで再び興福寺242世と清水寺の住職を兼ねる(『法隆寺年表』)。1899年(明治32年)3月17日死去(『法隆寺年表』、『日本仏教基礎講座』「法相宗興福寺」)(18日とも28日とも)。自坊は[[法隆寺中院]]。 |- |122 |秦行純 |1834-1913 |1899-1903 |[[薬師寺]]を兼務。1899年(明治32年)6月25日、住職就任。同年9月25日法相宗管長就任。1903年(明治36年)5月22日、退任。1913年(大正2年)7月6日死去(法隆寺年表では2日死去)。80歳。 |- |123 |佐伯定胤 |1867-1952 |1903-1950 |近代を代表する南都の学僧。千早定朝の弟子。法隆寺村出身。1867年(慶応3年)6月25日生(『奈良県人物人材情報リスト2017』)。1876年(明治9年)、佐伯懐厳の養子となる(リスト)。1877年(明治10年)得度。奈良教師教校卒。1884年(明治17年)から7年間、[[泉涌寺]]の佐伯旭雅に唯識を学ぶ。1890年(明治23年)には『法相宗綱要』を著す。1893年(明治26年)2月28日、興福寺勧学院が開設され講師となる。8月1日、法隆寺勧学院が開院、法隆寺学頭。1897年(明治30年)1月、法隆寺副住職。1898年(明治31年)管長事務取扱(リスト)。1901年(明治34年)10月15日、薬師寺住職に就任。1903年(明治36年)5月22日、法隆寺住職に就任。36歳の若さという異例の抜擢。管長を3期務めた。1929年(昭和4年)、帝国学士院会員。1950年(昭和25年)4月1日、法隆寺住職を退任するが、9月22日の信徒総代会で法相宗離脱の意向を発表。11月12日の宗会で[[聖徳宗]]設立を実行した。佐伯良謙、橋本凝胤、大西良慶ら多くの弟子を育てた。1952年(昭和27年)11月23日死去。(『法隆寺の秘話』) |- |124 |佐伯良謙 |1880-1963 |1950-1963 |聖徳宗初代管長。1880年(明治13年)10月28日生。父は佐伯卯之吉(以上『現代人物誌第十八編』)。雲井良海の弟子。1892年(明治25年)から法隆寺勧学院で佐伯定胤に師事。1910年(明治43年)、勧学院助講師。1911年(明治44年)、竪義遂業。1914年(大正3年)興福寺執行(リスト)。1926年(昭和1年)、興福寺の大西良慶が辞意を表明し、良謙に譲る意向を示したが、佐伯定胤に慰留される。1932年(昭和7年)1月11日、興福寺から法隆寺に移り、副住職となる。1941年(昭和16年)8月2日、管長顧問。1950年(昭和25年)3月19日、住職就任(夢幻鈔。別書では4月1日とも)。同年5月1日管長(夢幻鈔)。佐伯定胤長老主導による法相宗離脱に従い、同年11月12日、聖徳宗独立を宣言し、管長となる。太子信仰の興隆に努め、法隆寺夏季大学を開設。聖徳会館を建設。1954年(昭和29年)天台宗[[叡福寺]]住職(リスト)。1963年(昭和38年)3月8日死去。84歳。1921年(大正10年)12月奈良県仏教連合会理事長(夢幻鈔。リストでは1923年(大正12年))。1982年(昭和57年)、御影像開眼。著書に慈恩大師伝、法相宗講要、因明古疏の研究、類邪縁起論など。遺稿集に『夢幻鈔』。 |- |125 |間中定泉 |1909-1989 |1963-1982 |聖徳宗2代管長。自坊は中院。滋賀県草津市出身。曽祖父が薬師寺僧侶。1920年(大正9年)得度。法隆寺勧学院卒。佐伯定胤に師事。終戦後シベリアに一年半抑留。1951年(昭和26年)、執事長・宗務所所長。1954年(昭和29年)副住職。1963年(昭和38年)6月住職就任。1982年(昭和57年)3月31日退任。1989年(平成1年)8月16日死去。(『法隆寺の秘話』『郷土歴史人物事典奈良』) |- |126 |大野可円 |1917-2005 |1982-1992 |聖徳宗3代管長。新潟県新潟市出身。1925年(大正14年)法隆寺に入る。1928年(昭和3年)得度。龍谷大学卒。佐伯定胤に師事。陸軍報道班員を務めた。再び徴兵され、中国大陸で敗戦を迎えた。1982年(昭和57年)4月1日住職就任。1992年(平成4年)退任。2005年(平成17年)3月29日死去。87歳。著書は『維摩の説法』。自坊は普門院。 |- |127 |枡田秀山 |1924- |1992-1995 |聖徳宗4代管長。奈良県斑鳩町の融通念仏宗寺院の出身。龍谷大学卒。1952年(昭和27年)法隆寺に入る。1982年(昭和57年)、副住職と法起寺住職。1992年(平成4年)4月15日住職就任(毎日新聞)。1995年(平成7年)5月22日辞職。 |- |128 |高田良信 |1941-2017 |1995-1998 |聖徳宗5代管長。自坊は実相院。奈良県出身。1941年(昭和16年)2月22日生。1953年(昭和28年)、法隆寺に入寺。佐伯良謙に師事。龍谷大学大学院修了。1882年執事長。1992年(平成4年)副住職。1994年(平成6年)4月管主。1995年(平成7年)5月22日、住職就任。1998年(平成10年)11月末辞職。2017年(平成29年)4月26日死去。法隆寺昭和資財帳を編纂。寺史を調査し、歴代数を改めた。著書多数。 |- |129 |大野玄妙 |1947-2019 |1999-2019 |聖徳宗6代管長。自坊は宗源寺。1947年(昭和22年)10月22日生。大野可円の子。大阪府出身。3歳で入寺。上宮学園高校卒。龍谷大学大学院修了。1977年(昭和52年)福生院住職。1993年(平成5年)執事長、宗務所長。法隆寺昭和資財帳編纂所所長。1995年(平成7年)[[法起寺]]住職。1998年(平成10年)12月1日、住職代務者・管長代務者に就任(朝日新聞)。1999年(平成11年)4月22日住職就任(毎日新聞)。2019年(令和1年)10月25日死去。71歳。(『奈良県人物人材情報リスト2017』) |- |130 |古谷正覚 |1948- |2020- |聖徳宗7代管長。1948年(昭和23年)大阪市生まれ。1957年(昭和32年)法隆寺で得度。1971年(昭和46年)龍谷大学卒。高野山大大学院修士課程中退1999年(平成11年)法隆寺執事長。2020年(令和2年)2月、法隆寺代表役員代務者。2020年(令和2年)10月22日、法隆寺住職に就任。 |} ==資料== ===古典籍=== 聖徳太子については[[聖徳太子]]の項目を参照。 *釈迦三尊像光背銘文:飛鳥時代。623年。 *薬師如来坐像光背銘文:飛鳥時代。607年? *法隆寺伽藍縁起并流記資財帳:奈良時代。747年。 *法隆寺献物帳:奈良時代。756年。光明皇后が聖武天皇の遺品を奉納した時の目録。 *東院資財帳:奈良時代。 *法隆寺東院縁起: *金堂日記:平安時代。 *僧林幸法隆寺一切経勧進状:平安時代。1122年。林幸著。 *聖徳太子伝私記:鎌倉時代。顕真著。上[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1186784]・下[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1186792]。解説[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1186796]。 *阿弥陀三尊像光背銘文:1232年。 *法隆寺領播磨国鵤荘絵図:鎌倉時代。1329年。嘉暦四年図とも。写本として「至徳三年写図」がある。 *嘉元記:南北朝時代。1364年頃。1305年〜1364年の記録。 *法隆寺記録:南北朝時代。 *法隆寺雑記:南北朝時代。南都寺社史料集2岩田書院史料選書5として刊行[http://www.iwata-shoin.co.jp/bookdata/ISBN978-4-86602-979-5.htm] *寺要日記:南北朝時代。 *太子伝玉林抄:1448年。訓海著。 *和州法隆寺堂社霊験并仏菩薩像数量等:江戸時代。百済観音(虚空蔵菩薩)の初出。 *古今一陽集:江戸時代。良訓著。 *斑鳩古事便覧:江戸時代。1836年。 *法隆寺縁起白拍子:室町時代。1364年。重懐著。 *法隆寺別当次第:別当記? *斑鳩寺雑記: *法隆寺文書:[https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/syoho/07/saiho_houryuzi%20monjo.html] *法隆寺文書別集良訓本 ===文献=== *聖徳太子一千三百年御忌奉賛会発行 **聖徳太子一千三百年御忌奉賛会編1923『聖徳太子一千三百年御忌法用記念写真帖』[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/967766] **聖徳太子一千三百年御忌奉賛会編1923『聖徳太子御伝』[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/978635] **聖徳太子一千三百年御忌奉賛会編1923『聖霊遺香』[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1182192] **黒板勝美1918『聖徳太子小観』[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1875540] **高島米峰1921『十七条憲法略解』[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/917761] **聖徳太子一千三百年御忌奉賛会1924『聖徳太子一千三百年御忌奉賛会小史』:2010『聖徳太子奉讃会史』に再録。 *聖徳太子奉讃会発行 *『奈良六大寺大観 法隆寺』: *『法隆寺の至宝 昭和資財帳』: *『法隆寺史料集成』 *『法隆寺史 上 古代・中世』:2018年。続巻を編纂中。 [[category:奈良県]]
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