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高台寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
高台寺
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'''高台寺'''(こうだいじ)は、京都府京都市東山区にある[[豊臣氏]]ゆかりの[[臨済宗]]寺院。[[豊臣秀吉]]の菩提寺。本尊は[[釈迦如来]]。[[臨済宗建仁寺派]]。'''高台聖寿禅寺'''。山号は鷲峰山、岩栖不動山。 [[file:Kokudo0138.jpg|thumb|300px|高台寺周辺と霊山観音(国土地理院空中写真より)]] [[file:Kokudo0136.jpg|thumb|300px|大雲院・高台寺・八坂の塔・庚申堂の周辺(国土地理院空中写真より)]] == 歴史 == ===創建=== 1605年(慶長10年)、秀吉正室の北政所(高台院、快陽杲心、ねね)の発願で、秀吉の菩提寺として創建。あるいは天正頃に北政所が[[曹洞宗]]の弓箴善疆を招き、生母の菩提寺として寺町に建てた'''康徳寺'''が前身ともいう。その場所は上京区の「高徳寺町」と推定される。現在地は[[京都・雲居寺]]や[[金山院]]の跡地で、当時あった[[岩栖院]]を移転させて建設した。 同年6月28日に北政所が移住。9月、[[徳川家康]]は康徳寺時代から受け継いだ寺領100石を安堵。翌年竣工。1612年(慶長17年)、400石寄進され計500石となる。 ===転派=== 弓箴善疆が1609年(慶長14年)に引退した後、住職が短期間で交代し、運営が安定しなかった。 跡を継いだ良芸は半年で死去。3世の扶夫は1619年(元和5年)死去。通伝が継ぐが塔頭の住職と不和で退任。鼓山は「名ありて実なし」の状態だった。 1622年(元和8年)、転派を申請し8月1日に幕府に認められた。一部の僧は反対したが決行された。[[建仁寺]]の三江紹益が入り、臨済宗となった。北政所の意志によるもので、甥の周南紹叔に継がせるため、その師の三江紹益を住職にしたという。1630年(寛永7年)に周南紹叔が継承したが、1633年(寛永10年)に死去した。 == 伽藍 == *仏殿:本尊の釈迦如来を祀る。 *開山堂:中興の三江紹益と、木下氏・堀氏一族も祀る。創建以来の建築という。 *霊屋:本尊は[[随求菩薩]]で、左右に豊臣秀吉像と北政所像を祀る。伏見城の遺構を転用という。湖月堂。 *高台寺天満宮 <Gallery> file:高台寺001.jpg| file:高台寺002.jpg| </Gallery> ==塔頭== *[[高台寺円徳院|円徳院]]: *[[高台寺月真院|月真院]]: *岡林院: *玉雲院:上京区高徳寺町にあった康徳寺(高台寺の前身)の後継寺院という。 *永興院: *春光院: *永昌院: *昌純院: *桂林院: ==組織== ===住職=== *1長巌周養(生没年不詳)<>:康徳寺開山。[[尾張・正眼寺]]の系統らしい。 *2弓箴善疆(生没年不詳)<?-1609>:高台寺開山。[[山城・神応寺|神応寺]]中興。尾張国出身。豊臣秀吉と旧知だったと伝わる。長巌周養の弟子という。秀吉に随従して肥前名護屋城に赴いたというのは1592年(文禄1年)か。慶長初年、秀吉の命で神応寺住職となる。参内して禅師号と紫衣を得たのも秀吉在世中(~1598年(慶長3年))のことだろう。東山に移転する前の時点で康徳寺の住職になっていたか。1605年(慶長10年)、康徳寺は高台寺となったと思われる。1609年(慶長14年)隠退して塔頭桂林院に住したという。特賜「仏性真空禅師」(仏姓真空禅師とも)。没年不詳。 *3良芸(?-1609?)<1609-1609?>:1609年(慶長14年)に住職を嗣ぐが、半年で死去。 *4扶夫(?-1619)<?-1619>:1619年(元和5年)死去。 *5直伝龍察(1557-1629)<>:京都坊目誌には「通伝」とあり、塔頭の住職と不和で丹波に退いたというが、丹波[[永沢寺]]213世の直伝龍察と思われる。1557年(弘治3年)生。1601年(慶長6年)時点で遠江金剛寺(静岡県浜松市北区三ケ日町)住職に在職しており、『太白峰記』(大白峰記)を書写している(『正法眼蔵陛座』注記)。1615年(元和1年)頃、金剛寺末の新福寺(静岡県湖西市新居町)に住す(『永平寺史料全書禅籍編』)。近くの鷲栖院も再興したという(浜名郡誌)。1618年(元和4年)に高台寺5世(『永平寺史料全書禅籍編』)。同年8月1日、永沢寺住職となる。1619年(元和5年)1月に永沢寺で書写した『永平寺秘密頂王三昧記』の再写本が残る。同年秋に高台寺に戻り、のち神応寺24世となり、1629年(寛永6年)9月2日、同寺で死去(『永平寺史料全書禅籍編』)。永平寺24世の孤峰龍札(孤峰龍察)(1646年(正保3年)8月1日死去。69歳。1578年(天正6年)生か)とは別人とみられる。伊勢金蔵寺(三重県度会郡大紀町)2世の直伝英撮(直伝英察)と同一人物の可能性もあるが、寺伝では1646年(正保3年)8月24日死去となっており、はっきりしない(この没年は同寺開山風国大順の没年(1675年)より30年も早く不自然という)。(石川力山「『永平寺秘密頂王三昧記』再考」[http://echo-lab.ddo.jp/Libraries/%e9%a7%92%e6%be%a4%e5%a4%a7%e5%ad%a6%e4%bb%8f%e6%95%99%e5%ad%a6%e9%83%a8%e8%ab%96%e9%9b%86/%e9%a7%92%e6%be%a4%e5%a4%a7%e5%ad%a6%e4%bd%9b%e6%95%99%e5%ad%a6%e9%83%a8%e8%ab%96%e9%9b%86%20%2012/]、『永平寺史料全書禅籍編』は詳しくは未見) *6鼓山()<>: *1三江紹益(1572-1650)<1622-1630>:高台寺中興。[[建仁寺]]295世。自坊は[[建仁寺常住院]]。奥村紹之の子。[[妙心寺]]58世南化玄興の法嗣。建仁寺293世明室宗〓(〓は「口午」)に師事し、その没後、南化玄興に学び印可を得た。[[京都・景徳寺]]、[[真如寺]]を経て1606年(慶長11年)3月、建仁寺に住す。1622年(元和8年)8月に高台寺住職となる。1630年(寛永7年)冬に譲る。[[建仁寺久昌院]]に住す。南禅寺後住(歴代外)。1650年(慶安3年)8月22日死去。79歳。友竹紹益。友林紹益。 *2周南紹叔(1612-1633)<1630-1633?>:高台院の甥。足守藩主木下家定の八男(七男とも)。1630年(寛永7年)冬に高台寺住職。1633年(寛永10年)2月11日死去。22歳。周南紹淑。 *道林()<>:自坊は建仁寺清住院。 *悟庵()<>:自坊は建仁寺清住院。書家。勤王僧。紹材。鄧林。慨狂子。1892年(明治25年)8月10日死去。78歳。 *友雲道契(1846-1909)<>:越渓守謙の法嗣。無依室。 *実秀宗真(1878-)<>:藤木実秀。1878年(明治11年)生。黙雷宗淵の法嗣。建仁寺執事長。万休室。 *小堀泰巌(1943-)<1999->:建仁寺派管長9代。建仁寺487世。(略歴は[[建仁寺#組織]]を参照) ===執事長=== *野田文外()<>: *川本博明()<>: *後藤典生()<>: *奥村紹仲()<>: [[Category:京都府]]
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