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清水寺成就院
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
清水寺成就院
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'''清水寺成就院'''は、[[清水寺]]の本願を務めた旧本坊。 == 組織 == ===住職=== *『清水寺史』 {|class="wikitable" |+清水寺成就院歴代住職 !style="width:5%;"|世数 !style="width:10%;"|名 !style="width:10%;"|生没年 !style="width:10%;"|在職年 !style="width:65%;"|略歴 |- | |願阿弥 |?-1486 | |[[時宗]]の僧。越中出身。[[京都七条・金光寺|七条道場金光寺]]の勧進聖。1460年(寛正1年)の寛正の飢饉で翌年幕府に出資させて炊き出し小屋を作った。京都五条橋を修復。1478年(文明10年)4月、本願に任命か。1479年(文明11年)から清水寺再建の勧進を始めて、1484年(文明16年)の本堂再建を実現した。前年の1483年(文明15年)上人号勅許。1486年(文明18年)5月13日死去。 |- |1 |宣阿 |?-1405 | |1486年(文明18年)本願に任命か。1405年(応永12年)1月2日死去。 |- |2 |清忠 |生没年不詳 | |1531年(享禄4年)6月23日在職。 |- |3 |弁清 |生没年不詳 | | |- |4 |頼秀 |生没年不詳 | | |- |5 |観誉 |生没年不詳 | | |- |6 |清金 |?-1556 | |1542年(天文11年)5月27日、本願に補任。1545年(天文14年)11月17日、上人号勅許。1556年(弘治2年)2月4日死去。 |- |7 |賢周 |?-1557 | |1556年(弘治2年)2月21日本願職。1557年(弘治3年)冬死去。 |- |8 |観行 |生没年不詳 | |1558年(永禄1年)4月18日本願職。 |- |9 |玉円 |1550-1607 | |1550年(天文19年)生。1574年(天正2年)閏11月10日本願職。1594年(文禄3年)4月21日上人号勅許。1597年(慶長2年)11月12日、宝珠院造作許可。1607年(慶長12年)8月25日死去。 |- |10 |周仙 |1574-1629 |?-1629 |1574年(天正2年)生。1613年(慶長18年)3月7日上人号勅許。1629年(寛永6年)2月29日死去。 |- |11 |堯順 |1603-1668 |1629-1667 |1603年(慶長8年)生。1633年(寛永10年)1月6日、上人号勅許。1667年(寛文7年)11月24日、宝珠院に隠居。1668年(寛文8年)2月13日死去。 |- |12 |寿性 |1616-1682 |1667-1682 |近江国野洲郡出身。[[豊臣秀吉]]家臣本間久八郎の子。1616年(元和2年)生。10歳で堯順に師事。16歳で受戒。23歳で[[金剛峰寺]]で快舜から灌頂。1655年(明暦1年)8月29日、本願職に就任。1667年(寛文7年)成就院住職。1670年(寛文10年)12月25日、上人号勅許。1682年(天和2年)4月12日死去。67歳。 |- |13 |堯慎 |1651-1691 |1682-1691 |1651年(慶安4年)生。1682年(天和2年)成就院住職。1683年(天和3年)8月9日上人号勅許。1691年(元禄4年)5月9日死去。41歳。 |- | |笹丸 |1684-? | |1684年(貞享1年)生。旗本の雀部六太夫の子。入寺せず。没年不詳。 |- |14 |寿清 |1661-1708 |1697-1705 |1661年(寛文1年)生。1691年(元禄4年)頃、住職の笹丸に代わり看坊となる。1697年(元禄10年)8月、正式な住職となる。21日本願職。1698年(元禄11年)5月5日、上人号勅許。1705年(宝永2年)12月13日、宝珠院に隠居。宥伝坊と号す。1708年(宝永5年)9月16日(12日とも)死去。 |- |15 |隆性 |1697-1730 |1705-1730 |[[隆光]]の甥。1704年(宝永1年)成就院に入る。1705年(宝永2年)12月13日、わずか9歳で住職となる。1716年(享保1年)10月26日、上人号勅許。1730年(享保15年)10月2日死去。34歳。 |- |16 |清巓 |1727-? |1737-1774 |1727年(享保12年)生。[[倉橋家]]出身。倉橋三位の子。甘露寺規長の猶子。幼名は余所丸。1730年(享保15年)入寺決定するも正式に入寺するのは1737年(元文2年)11月。1731年(享保16年)2月、本願職に任命。1748年(寛延1年)2月1日、参内して上人号を得る。のち賢雅と改名。1774年(安永3年)4月16日、[[興福寺一乗院]]から蟄居を命じられた。9月2日隠居。没年不詳。 |- |17 |快音 |生没年不詳 |1776-1777 |和歌山藩士村上三左衛門の子。[[紀三井寺]]で出家。1776年(安永5年)5月、一乗院門跡から成就院住職に任命された。1777年(安永6年)3月、内紛により隠居を命じられた。上人号を得ず。 |- |18 |隆豊 |1728-1804 |1779-1786 |和歌山藩士千賀市左衛門尉の子。1728年(享保13年)生。栄福寺了快に師事。初名は教伝。光平寺方常に得度受戒。[[高野山]]で学び[[仁和寺蓮乗院]]に入る。1779年(安永8年)2月23日、成就院住職。[[橋本家]]猶子となる。1786年(天明6年)4月27日隠居。摩尼院と号す。1800年(寛政12年)金蔵院住職。1804年(文化1年)8月18日死去。上人号を得ず。 |- |19 |賢杲 |1733-1804 |1786-1790 |1733年(享保18年)生。光乗院住職。1786年(天明6年)4月、成就院住職。橋本家猶子。1788年(天明8年)8月21日上人号勅許。1790年(寛政2年)5月、光乗院に隠居。1804年(文化1年)1月18日死去。 |- |20 |盛興 |?-1808 |1790-1803 |生年不詳。慈心院住職。1790年(寛政2年)5月3日、本願。5月11日、成就院住職。12月16日上人号勅許。1803年(享和3年)閏1月14日退任。1808年(文化5年)死去。 |- |21 |範如 |1793-? |1807-1815 |1793年(寛政5年)生。慈心院住職。1807年(文化4年)10月、成就院住職。1815年(文化12年)退任。慈心院に再任。没年不詳。 |- |22 |蔵海 |1777-1835 |1819-1835 |讃岐善通寺村出身。1777年(安永6年)生。[[弥谷寺]]で得度。[[牛額寺]]に師事。[[海印寺]]寂照院で学ぶ。歌人として名を馳せる。1819年(文政2年)3月13日、成就院住職。園基茂の猶子となる。6月1日本願。1827年(文政10年)10月11日、上人号勅許。聖教類・古文書の収集整理を進める。1835年(天保6年)5月21日死去。59歳。墓は[[清閑寺]]にある。 |- |23 |忍向 |1813-1858 |1835-1854 |号の月照の名で知られる。蔵海の甥。俗名は宗久。大坂の町医玉井鼎斎の長男。1813年(文化10年)生。1827年(文政10年)1月、成就院付弟となる。園基茂の猶子となる。久丸と名乗る。1835年(天保6年)5月5日成就院住職。1853年(嘉永6年)7月、無断で出奔。隠密の旅に出る。[[善光寺]]に参詣し、会田に逗留。木曽路を経て10月8日に帰京。伊豆で異国船を視察した、水戸で勤王志士と交流したともいわれるが後世の創作という。11月、興福寺一乗院に事が露見。高野山に籠もる。1854年(安政1年)2月、隠居を命じられた。清閑寺に閑居する。成就院配下の近藤正慎(1816-1858)と共に尊攘活動に従事する。1858年(安政5年)、安政の大獄で幕吏に追われ、薩摩に逃れる。11月16日、[[西郷隆盛]]とともに入水し死去(西郷隆盛は一命をとりとめた)。[[南林寺]]に仮埋葬。忍介。忍鎧。忍海。中将房と号す。 |- |24 |信海 |1821-1859 |1854-1859 |忍向の弟。蔵海の甥。1821年(文政4年)生。1829年(文政12年)3月、成就院来訪。光乗院付弟となる。長丸、義蔵と名乗る。1830年(天保1年)光乗院住職。飛鳥井雅光の猶子。1835年(天保6年)9月12日、高野山に修学。高野山の宝蔵院、修学院、万勝院の住職を歴任。[[雲伝神道]]の伝授を受ける。兄の出奔により呼び戻され、光乗院住職。1854年(安政1年)2月2日、成就院住職。高野山万勝院も引き続き兼務した。1859年(安政6年)1月、安政の大獄で捕縛。江戸に護送され、3月18日、[[小伝馬町牢屋敷]]で獄死。[[小塚原]]に埋葬された。 |- |25 |園部忍慶 |1842-1890 |1868- | |} [[category:京都府]]
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