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日枝神社
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
日枝神社
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{|class="wikitable" style="width:350px;" align=right |- |style="text-align:center;background-color:#ededed" colspan="2"|'''日枝神社'''<br>ひえ じんじゃ |- |style="text-align:center;" colspan="2"|[[ファイル:Hie-jinja (5).jpg|350px]] |- |style="background-color:#ededed;width:100px;"|概要 |皇城の守護神。 |- |style="background-color:#ededed"|奉斎 |大山咋命<br>(土岐昌訓論文) |- |style="background-color:#ededed"|所在地 |東京都千代田区永田町2-10-5 |- |style="background-color:#ededed"|所在地(旧国郡) |武蔵国豊島郡 |- |style="background-color:#ededed"|所属(現在) |[[神社本庁]] |- |style="background-color:#ededed"|格式など |[[朱印地拝領神社]]・[[准勅祭社]]・[[官幣大社]]・[[別表神社]] |- |style="background-color:#ededed"|関連記事 |[[山王信仰]] <!-- |- |style="text-align:center;" colspan="2"| <googlemap version="0.9" lat="35.007626" lon="135.768142" type="map" zoom="16" width="350" height="300" controls="large"> http://maps.google.co.jp/maps/ms?hl=ja&ie=UTF8&vps=1&jsv=327b&brcurrent=h3,0x34674e0fd77f192f:0xf54275d47c665244&msa=0&output=nl&msid=208806612508013451037.0004c2169adf4c6a43301 </googlemap> --> |} [[category:個別記事]] [[category:東京都]] ==概要== '''日枝神社'''(ひえ・じんじゃ)は、東京都千代田区の星ケ岡にある、[[江戸城]]・[[皇居]]鎮守とされる[[山王信仰]]の神社。[[江戸]]・[[東京]]を代表する神社の一つ。皇城鎮護の神として近代には[[官幣大社]]となった。例祭の'''山王祭'''は将軍が上覧する天下祭とされた。東北東3.7kmの中央区日本橋に[[日枝神社御旅所|御旅所]]がある。神宮寺として[[天台宗]][[観理院]]があった。[[朱印地拝領神社]]・[[准勅祭社]]・[[別表神社]]。'''山王社'''、'''赤坂日枝神社'''、'''永田町日枝神社'''、'''麹町山王社'''。[[日枝神社関連旧跡]]も参照。 <!-- ==奉斎== ==由緒== --> ==歴史== *南北朝時代:[[熊野那智大社]]に伝わる1362年の願文に「豊島郡江戸郷山王宮」とあり、既に存在していたらしい。 *文明年間:一説には[[太田道灌]]が[[江戸城]]築城の時、[[仙波日枝神社]]を江戸城内に勧請したのが始まりという。 *1590年頃:[[徳川家康]]、江戸城入城に伴い、梅林坂から紅葉山に移して社殿造営 *1591年:5石寄進 *1607年:西貝塚に遷座 *1617年:100石寄進 *1634年:山王祭が大規模になる *1635年:500石加増で600石 *1657年:明暦大火で焼失 *1659年:現在地に遷座 *1681年:山王祭、[[神田神社]]の神田祭と隔年で行うことになる *1869年:日枝神社と改称 *1872年:府社列格 *1883年:官幣中社に昇格 *1915年:官幣大社に昇格 ==境内== *本社 *山王稲荷神社 *八坂神社 *猿田彦神社 *祈祷殿 *新嘗祭御供物御埋納所:現状不詳 *[[日枝神社御旅所|御旅所]]:日本橋日枝神社。摂社。 *(明徳稲荷神社):別法人。 *[[観理院]]:別当。廃絶。 ==組織== 江戸時代には別当、神主(最初は日吉家、のち樹下家)、社僧(最初4坊、のち10坊)、社家(最初3人、のち6人)、巫女(2人)の5階級があった。その他、社人がいた。 ===別当=== [[観理院#組織]]を参照 ===神主=== 江戸幕府によって「神主職」が置かれた。「社司」「祠官」「神司」と記す場合もある。神主は別当の次位にあったらしい。最初の社家の日吉家は、[[神田神社]]社家の芝崎家から出た。樹下家は近江の[[日吉大社]]社家の祝部宿禰の出身。樹下家の先祖の樹下成保邸では1546年(天文15年)12月19日、足利義晴の子の元服を行ったという伝承がある(江戸惣鹿子)。 {|class="wikitable" |+江戸山王権現の歴代神主 !style="width:5%;"|代数 !style="width:10%;"|名 !style="width:10%;"|生没年 !style="width:10%;"|在職年 !style="width:65%;"|略歴 |- |1 |芝崎勝吉 |?-1634 | |神田神社神主6代。1604年(慶長9年)7月17日、[[徳川家光]]が神田神社と日枝神社に参詣した際、「神田・山王神主兼帯」を命じられたという。紅葉山から現在地への遷座にも奉仕したという。1634年(寛永11年)2月5日死去。 |- |2 |日吉大膳 |生没年不詳 | |芝崎勝吉の弟。遷座後に神主を任せられたらしい。右衛門。 |- |3 |日吉勝房 |生没年不詳 |1616-? |芝崎勝吉の子[https://dl.ndl.go.jp/pid/2274574/1/23]。生没年不詳。子のいない右衛門の後を継ぐ。1616年(元和2年)1月5日、将軍に年賀の謁見。退職年不詳。大膳。[https://dl.ndl.go.jp/pid/12267828/1/467] |- |4 |日吉右京 |生没年不詳 |?-1644頃 |日吉勝房の子。1633年(寛永10年)9月2日以前に山王権現神主。1644年(正保1年)9月23日以後に退任。右京進。[https://dl.ndl.go.jp/pid/12267828/1/467] |- |5 |日吉清房 |生没年不詳 |1645頃-? |1645年(正保2年)9月11日以前に山王権現神主。1680年(延宝8年)7月28日以後に退任。大膳。[https://dl.ndl.go.jp/pid/12267828/1/467] |- |6 |日吉正房 |生没年不詳 |1688-1697 |日吉右京の子。1688年(元禄1年)2月26日以前に山王権現神主に就任。1697年(元禄10年)2月2日、福島為従に殺害されたか[https://dl.ndl.go.jp/pid/1082719/1/233]。大膳。[https://dl.ndl.go.jp/pid/12267828/1/467] |- |7 |樹下資範 |1650-1718 |1697-1718 |日吉大社の祝部資盛の子。1697年(元禄10年)8月15日(5月15日とも・21日とも)から山王権現神主。将軍の命で近江国日吉大社から転任したという。従四位上。民部大輔。1718年(享保3年)10月9日死去(1723年(享保8年)まで在職とも)。69歳。 |- |8 |樹下成真 |生没年不詳 |~1724~ |民部。1724年(享保9年)12月29日には在職。日吉正房の子の可能性がある。伊集院久真([[豊臣秀頼]]の孫)の子という説もあるらしい[http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/sannou/sannou1.htm]。 |- |9 |樹下資信 |1707-1754 |1744-1754 |日吉大社の祝部資光の子。従四位上。兵部大輔。1744年(延享1年)12月21日、日吉大社を辞して樹下成真の養子となり、山王権現神主となる。1754年(宝暦4年)3月12日死去。48歳。 |- |10 |樹下永成 |1725-1795 |1754-? |日吉大社の祝部資光の次男。1754年(宝暦4年)3月13日、小比叡禰宜を辞して同年5月11日、山王権現神主となる。1795年(寛政7年)3月27日死去。71歳。従四位上(従五位上とも)。兵部大輔、民部、采女正と名乗る。内膳とも? |- |11 |樹下成央 |生没年不詳 | |従五位上(従五位下とも)。内膳、日向守と名乗る。 |- |12 |樹下資英 |生没年不詳 | |従五位下。近江守。資秀。次男の利雄は[[香取神宮]]大宮司の香取和雄(正雄)の養子となっている[https://dl.ndl.go.jp/pid/1038196/1/182]。 |- |13 |樹下資泰 |生没年不詳 | | |- |14 |樹下資政 |生没年不詳 |?-1872 |神社改正にともない、1872年(明治5年)5月8日、神主職廃止。同日、祠掌となる。7月13日に退職。1900年(明治33年)生存[https://dl.ndl.go.jp/pid/2948267/1/6]。 |} ===社家・巫女=== *小川織部家:藤原秀郷の後裔という。 *千勝主水家:祖先は日枝神社御神体が下総国遷幸のときに供奉して江戸城に入る。 *千勝采女家:千勝隼人。1670年(寛文10年)分家。 *金丸靱負家:斎部色井の末裔。1670年(寛文10年)宮西求馬に代わって入る。 *宮西頼母家:阿蘇神社大宮司阿蘇惟康の末裔という。 *正木主膳家:浦鬼大学。神田神社社家の浦鬼延勝次男の延貞が金丸内蔵介に代わり1713年(正徳3年)に入る。 *諸井喜内家:御旅所留守居。1651年(慶安4年)諸井義久が御旅所預に任命される。 *左近家:元山王の時代から奉仕。 *土佐家:大内蔵。 *伊賀家:1753年(宝暦3年)土佐の跡に入る? *織江家: ===宮司=== {|class="wikitable" |+東京日枝神社の歴代祠官 !style="width:5%;"|代数 !style="width:10%;"|名 !style="width:10%;"|生没年 !style="width:10%;"|在職年 !style="width:65%;"|略歴 |- |1 |神田息胤 |?-1921 |1873-1873 |[[神宮奉斎会]]会長。神宮権禰宜。[[鎌倉宮]]権宮司。1873年(明治6年)5月8日から6月14日まで日枝神社祠官。1921年(大正10年)9月14日死去[https://dl.ndl.go.jp/pid/2990007/1/140]。 |- |2 |前田清秋 |?-1879 |1873-1873 |[[三島大社]]少宮司。鹿児島県出身。1873年(明治6年)6月14日から6月25日まで日枝神社祠官。1874年(明治7年)3月15日、日枝神社祠官。10月18日、三島神社少宮司。1875年(明治8年)12月9日、権少教正[https://dl.ndl.go.jp/pid/773572/1/96]。1876年(明治9年)2月27日、三島神社大宮司[https://dl.ndl.go.jp/pid/773564/1/18]。4月5日、正七位[https://dl.ndl.go.jp/pid/773564/1/24]。1878年(明治11年)頃、[[本教教会]]伊豆国教長[https://dl.ndl.go.jp/pid/3168214/1/27]。1879年(明治12年)死去[https://dl.ndl.go.jp/pid/2979518/1/74]。 |- |3 |前田勇平 |1801-? |1873-1874 |[[宮崎神社]]権宮司。[[鵜戸神宮]]権宮司。鹿児島県出身。1801年(享和1年)生。1873年(明治6年)6月25日、日枝神社祠官。この時、72歳。1874年(明治7年)3月14日、都農神社権禰宜。中講義。『産土神奉仕略記』。兼幸。 |- |4 |前田清秋 |?-1879 |1874-1874 |再任。1874年(明治7年)3月15日、日枝神社祠官。10月18日、三島神社少宮司。 |- |5 |大関増勤 |1852-1905 |1874-1875 |黒羽藩主。1852年(嘉永5年)生。1868年(明治1年)4月27日、黒羽藩1万8000石を継ぐ。11月21日従五位下。1869年(明治2年)6月2日、戊辰戦争の褒賞として1万5000石下賜。6月22日、黒羽藩知事。1871年(明治4年)7月14日、藩知事退任。1872年(明治5年)から翌年まで米国留学。1874年(明治7年)7月9日から1875年(明治8年)3月18日まで教導職大講義。1874年(明治7年)10月24日から1875年(明治8年)3月21日まで日枝神社祠官。1884年(明治17年)7月8日、子爵。1887年(明治20年)正五位。1892年(明治25年)従四位。1905年(明治38年)8月7日死去。益俊?益愛?[https://dl.ndl.go.jp/pid/780674/1/164] |- |6 |平山省斎 |1815-1890 |1875-1882 |[[神道大成教]]初代管長。1815年(文化12年)生。1875年(明治8年)3月22日、日枝神社祠官。1876年(明治9年)4月22日、[[氷川神社]]大宮司に再任し、5月10日に日枝神社祠官を兼任。1882年(明治15年)1月12日、官幣中社昇格と共に退任し、日枝神社御用掛となる。1890年(明治23年)死去。(略歴は、[[神道大成教#組織]]を参照) |} {|class="wikitable" |+東京日枝神社の歴代宮司 !style="width:5%;"|代数 !style="width:10%;"|名 !style="width:10%;"|生没年 !style="width:10%;"|在職年 !style="width:65%;"|略歴 |- |1 |園池実康 |1857-1928 |1882-1884 |京都出身。[[華族]]。園池公静の子。1857年(安政4年)生。1881年(明治14年)内務省御用掛。1882年(明治15年)1月26日[https://dl.ndl.go.jp/pid/12267828/1/490]から1884年(明治17年)7月17日[https://dl.ndl.go.jp/pid/2943520/1/2]まで日枝神社宮司。1892年(明治25年)[[宮内省]]に入り、[[掌典職]]。掌典次長。のち宮中顧問官。1925年(大正14年)子爵。1928年(昭和3年)4月23日死去。 |- |2 |吉田良義 |1837-1890 |1884-1890 |幕末維新期の[[吉田家]]当主。1884年(明治17年)日枝神社宮司。1887年(明治20年)3月29日[https://dl.ndl.go.jp/pid/2944355/1/2]日枝神社宮司。1890年(明治23年)3月4日、在職で死去。(略歴は、[[吉田家#組織]]を参照) |- |3 |戸田忠友 |1847-1924 |1890-1894 |1890年(明治23年)4月1日[https://dl.ndl.go.jp/pid/2945276/1/2]から1894年(明治27年)6月12日[https://dl.ndl.go.jp/pid/2946550/1/2]まで日枝神社宮司。(略歴は[[宇都宮二荒山神社#組織]]を参照) |- |4 |伊藤景裕 |1848-1907 |1894-1894 |小倉藩士。1848年(嘉永1年)生。1874年(明治7年)8月19日、[[教部省]]十五等出仕。同日、社寺掛。1875年(明治8年)5月20日、十四等出仕。1876年(明治9年)2月2日、教部筆生。1878年(明治11年)8月8日、内務省十等属。1887年(明治20年)12月28日、[[造神宮使庁]]属。1888年(明治21年)1月17日、内務省属を兼務。1891年(明治24年)8月16日から12月24日まで内務省[[社寺局]]神社課長心得。1894年(明治27年)6月12日、日枝神社宮司[https://dl.ndl.go.jp/pid/2946550/1/2]。7月20日正七位。9月29日、[[氷川神社]]宮司[https://dl.ndl.go.jp/pid/2946646/1/11]。1895年(明治28年)従六位。1898年(明治31年)12月20日、[[沼名前神社]]宮司。1899年(明治32年)4月29日、日枝神社宮司に再任[https://dl.ndl.go.jp/pid/2948037/1/3]。1900年(明治33年)10月15日、[[弥彦神社]]宮司[1900年(明治33年)10月15日[https://dl.ndl.go.jp/pid/2948483/1/2]、日枝神社宮司。]。1901年(明治34年)5月7日、[[玉前神社]]宮司。同年正六位。1902年(明治35年)3月4日、[[鎌倉宮]]宮司。7月5日[[浅間大社]]宮司。1907年(明治40年)死去。余太郎。伊藤景祐。 |- |5 |風早公紀 |1841-1905 |1894-1897 |1894年(明治27年)9月29日[https://dl.ndl.go.jp/pid/2946646/1/11]から1897年(明治30年)8月13日[https://dl.ndl.go.jp/pid/2947523/1/1]まで日枝神社宮司。(略歴は、[[橿原神宮#組織]]を参照) |- |6 |柴崎宣弘 |1838-1912 |1897-1899 |江戸出身。1838年(天保9年)生。1872年(明治5年)麻布本村町の氷川神社祠掌、祠官。1873年(明治6年)教導職試補。諸社を歴任して1884年(明治17年)権少教正。1892年(明治25年)1月、豊国神社宮司。1894年(明治27年)1月、貴船神社宮司。1897年(明治30年)8月13日、日枝神社宮司[https://dl.ndl.go.jp/pid/2947523/1/1]。1899年(明治32年)4月29日、鶴岡八幡宮宮司[https://dl.ndl.go.jp/pid/2948037/1/3]。1902年(明治35年)7月5日退任。1912年(大正1年)3月19日死去。73歳。 |- |7 |伊藤景祐 |1848-1907 |1899-1900 |再任。1899年(明治32年)4月29日から1900年(明治33年)10月15日まで日枝神社宮司。 |- |8 |久保悳鄰 |1858-1919 |1900-1919 |[[国学者]]久保季茲の子。江戸出身。1858年(安政5年)生。1873年(明治6年)教導職試補。1877年(明治10年)[[神道事務局]]講師。1884年(明治17年)[[皇典講究所]]助教。1894年(明治27年)[[東京府神職取締所]]所長。1900年(明治33年)10月15日[https://dl.ndl.go.jp/pid/2948483/1/2]、日枝神社宮司。須賀神社社司を兼務。1913年(大正2年)神社奉祀調査会・明治神宮造営局嘱託。[[東京府神職会]]会長。1919年(大正8年)5月17日、在職で死去[https://dl.ndl.go.jp/pid/2954156/1/4]。著書『清園諄辞集』。 |- |9 |宮西惟助 |1873-1939 |1919-1939 |1873年(明治6年)生。1893年(明治26年)国学院卒。1909年(明治42年)[[根津神社]]社司。1917年(大正6年)から1929年(昭和4年)まで東京府神職会会長。1918年(大正7年)皇典講究所理事。1919年(大正8年)6月12日、日枝神社宮司[https://dl.ndl.go.jp/pid/2954170/1/3]。同年、[[国学院大学]]教授。1923年(大正12年)神社制度調査会委員。1926年(昭和1年)[[全国神職会]]専任理事。1930年(昭和5年)から没年まで全国神職会副会長。1939年(昭和14年)6月15日、宮司在職で死去[https://dl.ndl.go.jp/pid/2960230/1/12]。 |- |10 |秋岡保治 |1886-1971 |1913-1947 |1913年(大正2年)6月20日[https://dl.ndl.go.jp/pid/2960234/1/9]から日枝神社宮司。1947年(昭和22年)6月27日、神宮少宮司。(略歴は、[[伊勢神宮#組織]]を参照) |- |11 |斎藤英夫 |1883-1975 |1947-1963 |1947年(昭和22年)6月30日から1963年(昭和38年)11月25日まで日枝神社宮司。 |- |12 |宮西惟喬 |1903-1989 |1963-1986 |東京都出身。1903年(明治36年)生。宮西惟助の子。1927年(昭和2年)国学院大学文学部卒。1929年(昭和4年)神職養成部講師。1930年(昭和5年)[[石清水八幡宮]]主典。1932年(昭和7年)[[鶴岡八幡宮]]主典。1935年(昭和10年)[[香取神宮]]禰宜。1937年(昭和12年)[[田島神社]]宮司。1941年(昭和16年)静岡県[[祭務官]]。1942年(昭和17年)[[四條畷神社]]宮司。1947年(昭和22年)日枝神社権宮司。1963年(昭和38年)11月25日から1986年(昭和61年)6月30日まで日枝神社宮司。1971年(昭和46年)神社本庁評議員。1977年(昭和52年)[[東京都神社庁]]長。[[大宮八幡宮]]宮司代務者。1979年(昭和54年)国学院大学理事。1982年(昭和57年)神社本庁長老。1989年(平成1年)死去。著書『星岡諄辞集』『続星岡諄辞集』。 |- |13 |宮西惟道 |1933-2017 |1986-2015 |東京都出身。1933年(昭和8年)生。宮西惟喬の子。1957年(昭和32年)国学院大学文学部宗教学科卒。[[東京大神宮]]権禰宜。1968年(昭和43年)日枝神社禰宜。1975年(昭和50年)日枝神社権宮司。1986年(昭和61年)6月30日、日枝神社宮司。2015年(平成27年)退任。2017年(平成29年)10月1日死去。83歳。9月30日付で神社本庁長老。11月17日神社葬に天皇から祭粢料。著書『日枝神社歴代宮司祝詞選』。 |- |14 |宮西修治 |1960- |2015-現職 |東京都出身。1960年(昭和35年)生。国学院大学文学部神道学科卒。[[葛飾八幡宮]]権禰宜、日枝神社権禰宜、禰宜、権宮司を経て、2015年(平成27年)4月1日、日枝神社宮司。 |} ===権宮司=== *宮西惟喬(1903-1989)<1947-1963>: *宮西惟道(1933-2017)<1975-?>:のち宮司。 *北山高司()<-2004->: *宮西修治()<-2015>:のち宮司。 *大塚正行()<>: ==画像== <Gallery widths="300" heights="200" perrow="3"> file:hie-jinja (1).jpg| file:hie-jinja (2).jpg| file:hie-jinja (3).jpg| file:hie-jinja (4).jpg| file:hie-jinja (5).jpg| file:hie-jinja (6).jpg| file:hie-jinja (7).jpg| file:hie-jinja (8).jpg| file:hie-jinja (9).jpg| file:hie-jinja (10).jpg| file:hie-jinja (11).jpg| file:hie-jinja (12).jpg| file:hie-jinja (13).jpg| ファイル:CCC9476B-062D-4DFD-998E-E1347A4AF14C.jpeg|(国土地理院空中写真より) ファイル:2721A0DA-8AF4-4604-93C6-D16586970E8A.jpeg|(国土地理院空中写真より) ファイル:2ADA862C-6372-4FB8-896F-4AA4974C4913.png|(国土地理院空中写真より) </gallery><gallery> file:hie-jinja-otabisho (1).JPG| file:hie-jinja-otabisho (2).JPG| file:hie-jinja-otabisho (3).JPG| file:hie-jinja-otabisho (4).JPG| file:hie-jinja-otabisho (5).JPG| file:hie-jinja-otabisho (6).JPG| file:hie-jinja-otabisho (7).JPG| file:hie-jinja-otabisho (8).JPG| file:hie-jinja-otabisho (9).JPG| file:hie-jinja-otabisho (10).JPG| </gallery> ==資料== *『古事類苑』「日枝神社」[https://dl.ndl.go.jp/pid/897625/1/94] *『東京名所図会』「日枝神社」[https://dl.ndl.go.jp/pid/9640998/1/126]:詳しい *村主惣三郎1894『日枝神社現素録』[https://dl.ndl.go.jp/pid/816020] *1916『日本橋区史』「官幣大社日枝神社末社」[https://dl.ndl.go.jp/pid/9642951/1/22] *1916『日本橋区史』「山王祭」[https://dl.ndl.go.jp/pid/9642951/1/24] *1935『麹町区史』「日枝神社」[https://dl.ndl.go.jp/pid/1216537/1/663] *『官国幣社特殊神事調』[https://dl.ndl.go.jp/pid/3441769/1/40] *『東京市史稿 遊園篇』[https://dl.ndl.go.jp/pid/1915792/1/310] *『東京市史稿 皇城篇』[https://dl.ndl.go.jp/pid/764121/1/212] *『戦災等による焼失文化財』「日枝神社社殿」[https://dl.ndl.go.jp/pid/2476847/1/73] *佐々木達夫・佐々木花江1975「東京都日枝神社境内遺跡の調査」『考古』 *木下秀一郎1978『日枝神社江戸鎮座五百年』[https://dl.ndl.go.jp/pid/12262029] *1979『日枝神社史』[https://dl.ndl.go.jp/pid/12267828] *加藤千晶・重枝豊2018「日枝神社・根津神社の建築構成とその位置付けについて」[https://www.jstage.jst.go.jp/article/aija/83/744/83_285/_article/-char/ja/] ===古写真・絵図=== *東京府史蹟[https://dl.ndl.go.jp/pid/1181687/1/19] *『西洋画譜』[https://dl.ndl.go.jp/pid/1511534/1/5]
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