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紫宸殿
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
紫宸殿
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[[file:Kokudo0023.jpg|thumb|300px|京都紫宸殿と春興殿周辺(国土地理院空中写真より)]] '''紫宸殿'''(ししんでん、ししいでん)は[[平安宮]]内裏または[[京都御所]]の正殿。後方には[[仁寿殿]]が接続した。[[大極殿]]廃滅後は[[高御座]]が置かれている。 本来、平安宮の公的な正殿は大極殿であり、紫宸殿は天皇の私邸の正殿に過ぎなかったが、大極殿の廃滅でその役割を引き継いだ。 == 造営・焼失 == [[file:皇城大内裏地図・部分0・平安宮・内裏中心部.jpeg|平安宮内裏(1750皇城大内裏地図・部分)|thumb|400px]] [[file:皇城大内裏地図・部分0・平安宮・内裏全体.jpeg|平安宮内裏(1750皇城大内裏地図・部分)|thumb|400px]] [[file:Kokudo0022.jpg|thumb|200px|京都御所(国土地理院空中写真より)]] ===平安宮紫宸殿=== *960年(天徳4年):焼失 *976年(貞元1年):焼失 *980年(天元3年):焼失 *982年(天元5年):焼失 *999年(長保1年):焼失 *1001年(長保3年):焼失 *1005年(寛弘2年):焼失 *1014年(長和3年):焼失 *1015年(長和4年):焼失 *1039年(長暦3年):焼失 *1042年(長久3年):焼失 *1048年(永承3年):焼失 *1058年(康平1年):焼失 *1082年(永保2年):焼失 *1157年(保元2年):修造。この時の紫宸殿が『年中行事絵巻』『年中行事絵巻』に描かれている。 *1219年(承久1年):焼失 *1227年(安貞1年):再建途中に焼失。平安宮紫宸殿は廃絶。 ===中世=== これ以後は里内裏内に殿舎を適宜紫宸殿とみなしている。 ===近世=== *1589年(天正17年): *慶長: *宝永: *1790年(寛政2年):平安時代の規模に復元造営。 *1855年(安政2年):寛政度を踏襲。現在の京都御所紫宸殿。 ==儀礼== ===行事=== *即位礼:[[大極殿]]廃絶後は紫宸殿で行われた。 ===神事=== *大嘗祭:大極殿廃絶後は紫宸殿で行われた。 *軒廊御卜:宜陽殿とつながる廊下で行う。 ===仏事=== *[[後七日御修法]]:1353年(正平8年/文和2年)の[[真言院]]廃滅の後は、明治初年まで紫宸殿が会場となった。 *[[季御読経]]:2月と8月に行われた。100人の僧侶を集めて『大般若経』転読を行った。708年(和銅1年)、もしくは729年(天平1年)に年に一度の行事として始まった。862年(貞観4年)には2月・4月・8月・10月の年四度となった。877年(元慶1年)3月、年2度となった。元は3日間だったが天慶年間以降は4日間となった。[[大極殿]]や[[清涼殿]]でも行われた。 *[[五仏頂法]]:円澄(772-837)が805年(延暦24年)に始めた。 *[[御斎会]]:原則として大極殿で行うが、紫宸殿で行ったこともある。 *[[仁王会]]:宮中内外の各所に置かれた道場の一つとなった。 *[[大元法]]:江戸時代、天皇即位の年のみ紫宸殿で大元法を行った。例年は[[醍醐寺理性院]]で行った。 == 旧堂の下賜 == *[[長岡宮]]の紫宸殿が移築されて創建時の[[清水寺]]本堂になったという伝承がある。 *天正年間造営の紫宸殿が1612年(慶長17年)頃、泉涌寺海会堂として移築された。 *慶長年間造営の紫宸殿が1637年(寛永14年)頃、[[仁和寺]]金堂に移築された。 == その他 == *[[浄土真宗]]本堂には「紫宸殿造」という様式があったらしい。 [[Category:京都府]]
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