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温明殿
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2021年10月19日 (火)
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+ | [[file:FB10B7A3-3FE0-46C2-9B9F-421D5D5C888A.jpeg|昭陽舎跡から温明殿跡パネルの方角をみる|thumb|300px]] | ||
文献上の初見は818年。当初の機能は不明だが、女御の居所ともいう。一説には[[宇多天皇]]の時代に賢所が祀られた。 | 文献上の初見は818年。当初の機能は不明だが、女御の居所ともいう。一説には[[宇多天皇]]の時代に賢所が祀られた。 | ||
大刀、節刀、関契、駅鈴なども保管された。南北九間、東西二間、四面に庇があり、西面する。入母屋造で檜皮葺と推定される。 | 大刀、節刀、関契、駅鈴なども保管された。南北九間、東西二間、四面に庇があり、西面する。入母屋造で檜皮葺と推定される。 | ||
中央の一間は馬道となり、南北に2分される。賢所を祀った南側は'''神座'''、'''神殿'''と呼ばれた。北側には内侍が詰めたと思われる。「内侍所」のことと思われ、内侍所は賢所の別称となる。[[一条天皇]]の時代から、綾綺殿との間の庭上で、毎年12月の内侍所御神楽が始められた。賢所は後に[[春興殿]]に遷った(春興殿は「温明殿代」とも呼ばれた)。 | 中央の一間は馬道となり、南北に2分される。賢所を祀った南側は'''神座'''、'''神殿'''と呼ばれた。北側には内侍が詰めたと思われる。「内侍所」のことと思われ、内侍所は賢所の別称となる。[[一条天皇]]の時代から、綾綺殿との間の庭上で、毎年12月の内侍所御神楽が始められた。賢所は後に[[春興殿]]に遷った(春興殿は「温明殿代」とも呼ばれた)。 | ||
[[天台]][[密教]]の修法として「温明殿念誦」(温明殿秘密念誦)が行われたともいうが不詳。 | [[天台]][[密教]]の修法として「温明殿念誦」(温明殿秘密念誦)が行われたともいうが不詳。 | ||
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(『国史大辞典』ほか) | (『国史大辞典』ほか) | ||
2021年10月19日 (火) 時点における最新版
温明殿(うんめいでん)は平安宮内裏にあった御殿。南側の母屋に賢所が祀られていた。西隣に接続する綾綺殿と共に、紫宸殿の北東、仁寿殿の東にあった。西側が正面で、東側(裏側)には宜陽門があった。「うんめいでん」と読むことが通例だが、「おんめいでん」とも。
歴史
文献上の初見は818年。当初の機能は不明だが、女御の居所ともいう。一説には宇多天皇の時代に賢所が祀られた。 大刀、節刀、関契、駅鈴なども保管された。南北九間、東西二間、四面に庇があり、西面する。入母屋造で檜皮葺と推定される。 中央の一間は馬道となり、南北に2分される。賢所を祀った南側は神座、神殿と呼ばれた。北側には内侍が詰めたと思われる。「内侍所」のことと思われ、内侍所は賢所の別称となる。一条天皇の時代から、綾綺殿との間の庭上で、毎年12月の内侍所御神楽が始められた。賢所は後に春興殿に遷った(春興殿は「温明殿代」とも呼ばれた)。 天台密教の修法として「温明殿念誦」(温明殿秘密念誦)が行われたともいうが不詳。
登極令によると近代には宮中三殿の賢所を温明殿と呼んだ(現在は不明)。
(『国史大辞典』ほか)
- 雲図抄
- 年中行事絵巻