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地光寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2022年5月16日 (月)
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'''地光寺'''(じこうじ)は奈良県葛城市脇田・笛吹(大和国忍海郡)にあった[[古代寺院]]。忍海氏の氏寺とみられる。県道を挟んで7世紀末の東遺跡と8世紀前半の西遺跡の2カ所からなり、東遺跡から西遺跡に移転したと考えられている。 | '''地光寺'''(じこうじ)は奈良県葛城市脇田・笛吹(大和国忍海郡)にあった[[古代寺院]]。忍海氏の氏寺とみられる。県道を挟んで7世紀末の東遺跡と8世紀前半の西遺跡の2カ所からなり、東遺跡から西遺跡に移転したと考えられている。 | ||
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文献史料には記録はない。1912年(大正1年)、「地光寺」の地名が伝わる場所から心礎や奈良時代の瓦が出土。周辺には「大門」「寺ノ前」など伽藍の存在を想像させる小字が残る。1972年(昭和47年)、橿原考古学研究所が発掘調査した。'''東遺跡'''は脇田神社周辺に存在。東塔と西塔が並んでいたことが確認され、薬師寺式伽藍配置だったと推定されている。神社境内に巨大な東塔心礎がある。'''西遺跡'''には「地光寺旧跡」碑が建つ。あまり類例のない「鬼面文軒丸瓦」が出土。中心軸から塔跡とみられる地覆石がみつかり、四天王寺式伽藍配置と推定されている。寺域は条里制に沿っていたと考えられている。(『日本歴史地名大系』「葛城市歴史博物館解説」「地光寺跡 地光寺西遺跡の発掘調査について」[http://www.city.katsuragi.nara.jp/index.cfm/13,23721,31,135,html]) | 文献史料には記録はない。1912年(大正1年)、「地光寺」の地名が伝わる場所から心礎や奈良時代の瓦が出土。周辺には「大門」「寺ノ前」など伽藍の存在を想像させる小字が残る。1972年(昭和47年)、橿原考古学研究所が発掘調査した。'''東遺跡'''は脇田神社周辺に存在。東塔と西塔が並んでいたことが確認され、薬師寺式伽藍配置だったと推定されている。神社境内に巨大な東塔心礎がある。'''西遺跡'''には「地光寺旧跡」碑が建つ。あまり類例のない「鬼面文軒丸瓦」が出土。中心軸から塔跡とみられる地覆石がみつかり、四天王寺式伽藍配置と推定されている。寺域は条里制に沿っていたと考えられている。(『日本歴史地名大系』「葛城市歴史博物館解説」「地光寺跡 地光寺西遺跡の発掘調査について」[http://www.city.katsuragi.nara.jp/index.cfm/13,23721,31,135,html]) | ||
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2022年5月16日 (月) 時点における最新版
地光寺(じこうじ)は奈良県葛城市脇田・笛吹(大和国忍海郡)にあった古代寺院。忍海氏の氏寺とみられる。県道を挟んで7世紀末の東遺跡と8世紀前半の西遺跡の2カ所からなり、東遺跡から西遺跡に移転したと考えられている。
文献史料には記録はない。1912年(大正1年)、「地光寺」の地名が伝わる場所から心礎や奈良時代の瓦が出土。周辺には「大門」「寺ノ前」など伽藍の存在を想像させる小字が残る。1972年(昭和47年)、橿原考古学研究所が発掘調査した。東遺跡は脇田神社周辺に存在。東塔と西塔が並んでいたことが確認され、薬師寺式伽藍配置だったと推定されている。神社境内に巨大な東塔心礎がある。西遺跡には「地光寺旧跡」碑が建つ。あまり類例のない「鬼面文軒丸瓦」が出土。中心軸から塔跡とみられる地覆石がみつかり、四天王寺式伽藍配置と推定されている。寺域は条里制に沿っていたと考えられている。(『日本歴史地名大系』「葛城市歴史博物館解説」「地光寺跡 地光寺西遺跡の発掘調査について」[1])