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飯高寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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既に[[京都]]で[[松ケ崎檀林]]を開いていた'''教蔵院日生'''は講肆開設を聞きつけ、1577年(天正5年)、飯塚を尋ねる。日統を救けて講義を開くと次々と聴衆が集まった。1579年(天正7年)日統は病に伏せ、日生に後事を託す。日統の没後、地元は不受不施を主張したため日生は光福寺を離れた。飯高の領主'''平山刑部'''、中台妙見宮別当[[妙福寺]]の'''日因'''が同時に霊夢を見て、日生を招く。日生は、妙福寺の講義所を弟子の'''蓮成院日尊'''に譲り、京都に帰る。日尊は妙福寺で講義するが、平山刑部は、新たに飯高の地を寄進して講堂を構え、衆寮を建設。1591年(天正19年)11月、[[徳川家康]]から朱印地が寄進され檀林が公認され、'''飯高壇林'''が成立、'''妙雲山法輪寺'''と称した。1596年(慶長1年)伽藍完成。1599年(慶長4年)には28歳の日遠が入る。 | 既に[[京都]]で[[松ケ崎檀林]]を開いていた'''教蔵院日生'''は講肆開設を聞きつけ、1577年(天正5年)、飯塚を尋ねる。日統を救けて講義を開くと次々と聴衆が集まった。1579年(天正7年)日統は病に伏せ、日生に後事を託す。日統の没後、地元は不受不施を主張したため日生は光福寺を離れた。飯高の領主'''平山刑部'''、中台妙見宮別当[[妙福寺]]の'''日因'''が同時に霊夢を見て、日生を招く。日生は、妙福寺の講義所を弟子の'''蓮成院日尊'''に譲り、京都に帰る。日尊は妙福寺で講義するが、平山刑部は、新たに飯高の地を寄進して講堂を構え、衆寮を建設。1591年(天正19年)11月、[[徳川家康]]から朱印地が寄進され檀林が公認され、'''飯高壇林'''が成立、'''妙雲山法輪寺'''と称した。1596年(慶長1年)伽藍完成。1599年(慶長4年)には28歳の日遠が入る。 | ||
- | + | 組織としての直接的な系譜ではないが、立正大学の前身と位置付けられている。中台谷(なかだいさく)、城下谷(ねごやさく)、松和田谷(まつわださく)の三つの学寮があった。 | |
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+ | *講堂: | ||
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+ | *龍眠庵:中台谷 | ||
+ | *向城庵:城下谷 | ||
+ | *松和軒:松和田谷 | ||
+ | *飯高神社:[[妙見信仰]]の神社。 | ||
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2016年3月26日 (土) 時点における版
飯高寺は、千葉県匝瑳市にある日蓮宗寺院。日蓮宗久遠寺派。かつての檀林で、飯高壇林と呼ばれた。
歴史
1573年(天正1年)、比叡山の修学から帰郷した要行院日統は、下総飯塚の光福寺に学室を構えた。これが飯塚講肆、および飯高壇林の起源となる。 既に京都で松ケ崎檀林を開いていた教蔵院日生は講肆開設を聞きつけ、1577年(天正5年)、飯塚を尋ねる。日統を救けて講義を開くと次々と聴衆が集まった。1579年(天正7年)日統は病に伏せ、日生に後事を託す。日統の没後、地元は不受不施を主張したため日生は光福寺を離れた。飯高の領主平山刑部、中台妙見宮別当妙福寺の日因が同時に霊夢を見て、日生を招く。日生は、妙福寺の講義所を弟子の蓮成院日尊に譲り、京都に帰る。日尊は妙福寺で講義するが、平山刑部は、新たに飯高の地を寄進して講堂を構え、衆寮を建設。1591年(天正19年)11月、徳川家康から朱印地が寄進され檀林が公認され、飯高壇林が成立、妙雲山法輪寺と称した。1596年(慶長1年)伽藍完成。1599年(慶長4年)には28歳の日遠が入る。
組織としての直接的な系譜ではないが、立正大学の前身と位置付けられている。中台谷(なかだいさく)、城下谷(ねごやさく)、松和田谷(まつわださく)の三つの学寮があった。
明治に檀林は廃止。現在は飯高寺と称す。
伽藍
- 講堂:
- 題目堂
- 天神社
- 妙福寺
- 龍眠庵:中台谷
- 向城庵:城下谷
- 松和軒:松和田谷
- 飯高神社:妙見信仰の神社。