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檀君陵
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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+ | 現在の伝承地がいつごろから、その伝承を得たのかは不明であるが、昭和年間の『名所旧蹟案内 平安南道』には江東郡江東面漆浦里に檀君墓があるとの記述がある。それによると、李氏朝鮮正祖(正宗)10年(1786年)に、毎年の春秋に県監に祭祀させることしたが、まもなく廃れた。日本植民地時代の1923年(大正12年)11月、江東郡明倫会が祭祀を復興し、門などを整備したという。戦後、1993年10月、朝鮮民主主義人民共和国社会科学院は、檀君陵の伝承地の発掘調査結果を発表し、檀君の墓だということが「科学的に」判明したと公表。翌年10月、檀君陵の築造を完了。ピラミッド型の構築物となっている。 | ||
==参考文献== | ==参考文献== |
2020年6月4日 (木) 時点における版
檀君陵 だんくん りょう | |
概要 | 朝鮮の神話的国祖檀君の陵墓。 |
奉斎 | 檀君 |
所在地 | 黄海北道江東郡? |
所在地(旧国郡) | 平安南道江東郡? |
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朝鮮の神話的国祖とされる檀君の陵墓。朝鮮民主主義人民共和国により、平壌東郊に位置する墳墓が檀君の陵墓だと認定されている。
神話によると、太伯山(現在の白頭山とされる)に天帝の子桓雄が王権の象徴である天符印を持って降臨し、熊の化身である女性を后としたが、その子檀君が紀元前2333年に平壌を首都として朝鮮を建国し、1048歳で崩御したとされる。この檀君神話は、高麗時代の『三国遺事』(1280年ごろ)に初めて記載され、以後、朝鮮の建国神話として普及した。神話の成立は征服を受けて国家意識が高まった、モンゴル支配時代(1259ごろ?)と推定されている。
現在の伝承地がいつごろから、その伝承を得たのかは不明であるが、昭和年間の『名所旧蹟案内 平安南道』には江東郡江東面漆浦里に檀君墓があるとの記述がある。それによると、李氏朝鮮正祖(正宗)10年(1786年)に、毎年の春秋に県監に祭祀させることしたが、まもなく廃れた。日本植民地時代の1923年(大正12年)11月、江東郡明倫会が祭祀を復興し、門などを整備したという。戦後、1993年10月、朝鮮民主主義人民共和国社会科学院は、檀君陵の伝承地の発掘調査結果を発表し、檀君の墓だということが「科学的に」判明したと公表。翌年10月、檀君陵の築造を完了。ピラミッド型の構築物となっている。
参考文献