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瑞山神社
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2024年2月18日 (日)
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2024年2月18日 (日) 時点における最新版
瑞山神社は、高知県高知市仁井田吹井にある志士武市瑞山を祀る霊社。武市瑞山墓および旧宅のそばに建てられた。御神体は獄中で描いた自画像だという[1]。県社として計画されていたが実現しなかったようだ。宗教法人格はないようだ。(参考:同名神社陸奥・瑞山神社)
目次 |
歴史
略歴
- 1829年(文政12年)9月27日:誕生。白札格の郷士の家。名は小楯。号は瑞山。半平太とも。
- 1849年(嘉永2年):家督相続
- 1856年(安政3年)8月:剣術修行のため江戸に下る。
- 1857年(安政4年)9月:帰郷。
- 1858年(安政5年):二人扶持となる。
- 1860年(万延1年):岡田以蔵らと中国・九州を巡歴。この頃、平田篤胤の『霊能真柱』を読んでいたという。
- 1861年(文久1年)6月:江戸に下り、尊攘派と交流を深める。山口藩の久坂玄瑞、鹿児島藩の樺山三円をはかって、朝廷権力の回復のために各藩主を上京させることで盟約を結んだ。
- 1861年(文久1年)8月:江戸滞在中に有志を集めて土佐勤王党を結成。
- 1861年(文久1年)9月:高知に戻る。200人を超える組織となる。
- 1862年(文久2年)4月8日:勤王党、吉田東洋を暗殺。
- 1862年(文久2年)8月:藩主山内豊範の上京を実現。随従した。
- 1862年(文久2年)10月:勅使下向の際には柳川左門と名乗って随行した。
- 1863年(文久3年)9月21日:八月十八日の政変を経て、公武合体派だった前藩主山内容堂は勤王党を弾圧。捕縛された。
- 1865年(慶応1年)閏5月11日:切腹。37歳。
祭祀史
- 1877年(明治10年)2月19日:明治天皇、武市半平太に祭粢料300円を、平井収二郎、間崎哲馬、弘瀬健太、千屋菊次郎、松山深蔵、田所壮輔、島村衛吉、小畑孫三郎に祭粢料各150円を下賜[2]。
- 1891年(明治24年)4月:贈位正四位。
- 1914年(大正3年)5月:50年祭にあたり三里瑞山先生記念会、墓域を整備[3]。
- 1930年(昭和5年)1月7日:瑞山神社建立計画を立てる[4]。
- 1930年(昭和5年)8月:武市瑞山先生県社奉祀期成会、趣意書を制作[5]
- 1932年(昭和7年)1月:瑞山神社創立を申請[6]。
- 不詳:鎮座。(戦後か)
- 1965年(昭和40年)5月11日:100年祭。記念館を兼ねた拝殿を建設。