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河内・往生院
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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'''往生院'''(おうじょういん)は、大阪府東大阪市六万寺町にある寺院。[[楠木正行]]の旧跡。[[河内・六万寺]]の子院。'''往生院六万寺'''と称す。山号は岩瀧山。(参考:同名寺院[[往生院]]) | '''往生院'''(おうじょういん)は、大阪府東大阪市六万寺町にある寺院。[[楠木正行]]の旧跡。[[河内・六万寺]]の子院。'''往生院六万寺'''と称す。山号は岩瀧山。(参考:同名寺院[[往生院]]) | ||
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+ | 『拾遺往生伝』によると安助が念仏道場として復興。日想観を営んだ。 | ||
+ | 岩瀧山では役小角が修行したと伝える。『諸山縁起』に葛城北峰の宿として往生院を記す。 | ||
+ | 1226年(嘉禄2年)、仁和寺宮道探法親王が高野山参詣の帰りに参詣(明月記)。 | ||
+ | 1250年(建長2年)、東福寺末となる。 | ||
+ | 南北朝時代に楠木正行の本陣となった。1348年(正平3年/貞和4年)四条縄手の合戦で焼失。 | ||
+ | 近世、関白鷹司信房を檀越として復興が始まる。浄土宗欣誉浄泉が鷹司房輔の寄進で1653年(承応2年)本堂再建。楠木正行胴塚、楠木正成塔も修復し、本堂に楠木正玄、楠木正成、楠木正行の位牌を祀った。徳川家が113石を寄進。鷹司家の霊牌堂を建てた。 | ||
+ | 1663年(寛文3年)鐘楼再建。浄土寺と称した。 | ||
+ | 1690年(元禄3年)知恩院末となる。 | ||
+ | 戦後、浄土宗を離脱し、伽藍も建て替えたようだ。 | ||
+ | 1961年(昭和36年)往生院の東の字九輪塔から礎石が出土。中世の往生院の跡地とみられている。 | ||
+ | (大阪府全志、日本歴史地名大系ほか) | ||
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2021年9月19日 (日) 時点における版
往生院(おうじょういん)は、大阪府東大阪市六万寺町にある寺院。楠木正行の旧跡。河内・六万寺の子院。往生院六万寺と称す。山号は岩瀧山。(参考:同名寺院往生院)
創建は不詳。天慶年間、炎上。 『拾遺往生伝』によると安助が念仏道場として復興。日想観を営んだ。 岩瀧山では役小角が修行したと伝える。『諸山縁起』に葛城北峰の宿として往生院を記す。 1226年(嘉禄2年)、仁和寺宮道探法親王が高野山参詣の帰りに参詣(明月記)。 1250年(建長2年)、東福寺末となる。 南北朝時代に楠木正行の本陣となった。1348年(正平3年/貞和4年)四条縄手の合戦で焼失。 近世、関白鷹司信房を檀越として復興が始まる。浄土宗欣誉浄泉が鷹司房輔の寄進で1653年(承応2年)本堂再建。楠木正行胴塚、楠木正成塔も修復し、本堂に楠木正玄、楠木正成、楠木正行の位牌を祀った。徳川家が113石を寄進。鷹司家の霊牌堂を建てた。 1663年(寛文3年)鐘楼再建。浄土寺と称した。 1690年(元禄3年)知恩院末となる。 戦後、浄土宗を離脱し、伽藍も建て替えたようだ。 1961年(昭和36年)往生院の東の字九輪塔から礎石が出土。中世の往生院の跡地とみられている。 (大阪府全志、日本歴史地名大系ほか)