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東本願寺学寮
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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*光遠院恵空()<>:京都西福寺住職。野洲善立寺の出身。金森の道西善従の子孫という。1644年(正保1年)生。比叡山に登り天台学を学ぶ。誓願寺円智に学ぶ。1680年(延宝8年)12月から1692年(元禄5年)7月まで西福寺住職。1715年(正徳5年)10月19日、真如の命で深諦院殿で「大経和讃」を講ずる。10月21日、真如に召されて、「寮内の〓林」を預けるという命を受ける(講師職の始まり)。1716年(享保1年)4月15日、尊命で無量寿経を講じる。1717年(享保2年)5月18日、講堂で観経を講じる。1719年(享保4年)秋、安陀衣を賜る。1721年(享保6年)12月8日死去。秋子内親王(中御門天皇の妹)に召されるが間に合わなかった。1777年(安永6年)、「内陣班」贈り、光遠院号を賜る。 | *光遠院恵空()<>:京都西福寺住職。野洲善立寺の出身。金森の道西善従の子孫という。1644年(正保1年)生。比叡山に登り天台学を学ぶ。誓願寺円智に学ぶ。1680年(延宝8年)12月から1692年(元禄5年)7月まで西福寺住職。1715年(正徳5年)10月19日、真如の命で深諦院殿で「大経和讃」を講ずる。10月21日、真如に召されて、「寮内の〓林」を預けるという命を受ける(講師職の始まり)。1716年(享保1年)4月15日、尊命で無量寿経を講じる。1717年(享保2年)5月18日、講堂で観経を講じる。1719年(享保4年)秋、安陀衣を賜る。1721年(享保6年)12月8日死去。秋子内親王(中御門天皇の妹)に召されるが間に合わなかった。1777年(安永6年)、「内陣班」贈り、光遠院号を賜る。 | ||
| - | *円澄()<> | + | *円澄()<>:短期間のため歴代外。美濃河野称名寺住職。1726年(享保11年)2月13日死去。42歳。称名院と号す。 |
| - | *恵暁()<> | + | *恵暁()<>:短期間のため歴代外。生没年不詳。越中鷹巣西安寺の出身。京都西蓮寺に住す。1702年(元禄15年)光遠院恵空に師事。 |
*香厳院恵然()<>:1693年(元禄6年)生。和泉専称寺の出身。1713年(正徳3年)光遠院恵空に師事。1728年(享保13年)講師。学寮の制条、入寮制約などを定めた。1764年(明和1年)1月15日死去。 | *香厳院恵然()<>:1693年(元禄6年)生。和泉専称寺の出身。1713年(正徳3年)光遠院恵空に師事。1728年(享保13年)講師。学寮の制条、入寮制約などを定めた。1764年(明和1年)1月15日死去。 | ||
*理綱院慧琳()<>:伊勢西川寺住職。1743年(寛保3年)嗣講職に就任(嗣講のはじめ)。香厳院恵然に師事。宗名事件に尽力。1765年(明和2年)講師。1789年(寛政1年)5月25日死去。75歳。 | *理綱院慧琳()<>:伊勢西川寺住職。1743年(寛保3年)嗣講職に就任(嗣講のはじめ)。香厳院恵然に師事。宗名事件に尽力。1765年(明和2年)講師。1789年(寛政1年)5月25日死去。75歳。 | ||
2024年7月12日 (金) 時点における版
東本願寺学寮は京都東本願寺に併設された僧侶教育機関。大谷大学の前身とされる。高倉学寮。
- 初期:東本願寺寺内町にあった東坊で適宜、学僧による講義が行われた。
- 寛文年間:渉成園内の西北に移転。
- 1715年:講師職を設置。
- 1755年(宝暦5年):六条高倉に移転。
- 1864年(元治1年):焼失。
- 1868年:近隣に護法場が設置される。
- 1873年(明治6年):仮講堂再建。貫練堂と称す。
- 1879年:貫練教校と改称
- 1882年:大学寮と改称
- 1883年(明治16年):講堂を再建。現在の高倉会館の建物。
- 1896年(明治29年):講堂は学寮と真宗大学(大谷大学)の共用の講堂となる。真宗高倉大学寮と称す。
- 1901年:真宗大学が東京巣鴨に移転
- 1911年(明治44年):学寮と真宗大学(東京から京都に移る)が合併。翌年移転。
- 1922年(大正11年)5月23日:高倉会館を創立。日曜講演始まる。
- 1927年(昭和2年):崇真会讃仰講演会始まる。
- 1930年(昭和5年):高倉保育園(高倉幼稚園)設置。
- 2015年(平成27年):教化事業はしんらん交流館に移る。
目次 |
組織
講師
明治初年、一時期廃されるが、1882年(明治15年)12月に再設置。1907年(明治40年)2月、講師は学階に改められた。
- 光遠院恵空()<>:京都西福寺住職。野洲善立寺の出身。金森の道西善従の子孫という。1644年(正保1年)生。比叡山に登り天台学を学ぶ。誓願寺円智に学ぶ。1680年(延宝8年)12月から1692年(元禄5年)7月まで西福寺住職。1715年(正徳5年)10月19日、真如の命で深諦院殿で「大経和讃」を講ずる。10月21日、真如に召されて、「寮内の〓林」を預けるという命を受ける(講師職の始まり)。1716年(享保1年)4月15日、尊命で無量寿経を講じる。1717年(享保2年)5月18日、講堂で観経を講じる。1719年(享保4年)秋、安陀衣を賜る。1721年(享保6年)12月8日死去。秋子内親王(中御門天皇の妹)に召されるが間に合わなかった。1777年(安永6年)、「内陣班」贈り、光遠院号を賜る。
- 円澄()<>:短期間のため歴代外。美濃河野称名寺住職。1726年(享保11年)2月13日死去。42歳。称名院と号す。
- 恵暁()<>:短期間のため歴代外。生没年不詳。越中鷹巣西安寺の出身。京都西蓮寺に住す。1702年(元禄15年)光遠院恵空に師事。
- 香厳院恵然()<>:1693年(元禄6年)生。和泉専称寺の出身。1713年(正徳3年)光遠院恵空に師事。1728年(享保13年)講師。学寮の制条、入寮制約などを定めた。1764年(明和1年)1月15日死去。
- 理綱院慧琳()<>:伊勢西川寺住職。1743年(寛保3年)嗣講職に就任(嗣講のはじめ)。香厳院恵然に師事。宗名事件に尽力。1765年(明和2年)講師。1789年(寛政1年)5月25日死去。75歳。
- 寂定院慧敞()<>:京都西福寺住職。光遠院恵空の孫。光遠院恵空と香厳院恵然に師事。1791年(寛政3年)6月22日講師。1793年(寛政5年)2月15日死去。香雲庵と号す。
- 香月院深励()<>:金津永輪寺住職。随恵、理綱院慧琳に師事。1794年(寛政6年)講師。1817年(文化14年)7月8日死去。69歳。
- 円乗院宣明()<>:理綱院慧琳に師事。1811年(文化8年)講師(2人体制となる)。1821年(文政4年)5月17日死去。72歳。
- 五乗院宝景()<>:江戸浅草光円寺住職。理綱院慧琳に師事。1821年(文政4年)講師。1828年(文政11年)9月17日死去。83歳。
- 易行院法海()<>:肥後光徳寺住職。1828年(文政11年)講師。1834年(天保5年)8がg津7日死去。67歳。
- 雲華院大含()<>:豊前正行寺住職。1834年(天保5年)講師。1850年(嘉永3年)10月8日死去。
- 香樹院徳龍()<>:越後水原無為信寺住職。1847年(弘化4年)講師。1858年(安政5年)1月26日死去。87歳。
- 開悟院霊〓()<>:越中円満寺住職。1849年(嘉永2年)講師。1851年(嘉永4年)8月15日死去。77歳。(〓は日+往)
- 本法院義譲()<>:三河源徳寺住職。1852年(嘉永5年)講師。1858年(安政5年)2月4日死去。63歳。
- 皆遵院宜成()<>:河内光照寺。1858年(安政5年)講師。1861年(文久1年)1月死去。
- 賢殊院得住()<>:能登常徳寺。1861年(文久1年)講師。1874年(明治7年)死去。
- 香山院 樋口龍温()<>:京都円光寺住職。1865年(慶応1年)講師。1885年(明治18年)7月26日死去。86歳。
- 開華院 渡辺法住()<>:
- 雲〓院 南条神興()<>:
- 香華院 宮地義天()<>:
- 香涼院 武田行忠()<>:
- 因明院 雲英晃耀()<>:
- 真成院 細川千巌()<>:
- 冷香院 楠潜龍()<>:
- 是心院 調雲集()<>:
- 開神院 広陵了栄()<>:
- 香龍院 渡辺法瑞()<>:
- 香温院 龍山慈影()<>:
- 一乗院 吉谷覚寿()<>:
贈講師
- 頓恵()<>:理綱院慧琳に師事。
- 宝景()<>:理綱院慧琳に師事。
- 義陶()<>:理綱院慧琳に師事。