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朝日神社
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2015年6月13日 (土)
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- | 1908年(明治41年) | + | 1908年(明治41年)、天理教の教会に出入りしていた'''井出くに'''('''井手くに''')(1863(文久3)-1947(昭和22))が神秘体験を経験し、1909年(明治42年)に信者が彼女のもとに集まり始めたのが創始という。この年、「神様の家」と呼ばれる神殿が建立されている。1910年(明治43年)、全国の天理教教会を廻ろうとするが挫折した。しかし1916年(大正5年)の天理教教祖30年祭において天理教教会本部にて人々に救済を施し、さらに相手がどんなに力を入れても打ち負かしたという神秘現象を見せる。中山みきの曾孫にあたる'''福井勘治郎'''(まさの孫)が入信したこともあって、井出くには「'''二代教祖'''」「'''播州の親様'''」などと呼ばれるようになる。 |
- | 大正時代から昭和前期に掛けては多くの天理教信者を集めたという。1935年(昭和10年) | + | 大正時代から昭和前期に掛けては多くの天理教信者を集めたという。1935年(昭和10年)には神殿を造営するに至っている。大正時代の天理教の異端的知識人である'''大平良平'''は自らが主催する雑誌『新宗教』にて、井出を天啓者として認め、絶賛することによって天理教本部に揺さぶりをかけたこともあった。小説家'''芹沢光治良'''も妻の病気を機に、神秘現象を目の当たりにして、しばしば交流し、その小説(『神の微笑』など)のなかにはくにの名前がたびたび登場する。 |
戦後の1947年(昭和22年)に井出くには死去し、その後は組織的拡張は見られないという。1952年(昭和27年)に宗教法人となった。 | 戦後の1947年(昭和22年)に井出くには死去し、その後は組織的拡張は見られないという。1952年(昭和27年)に宗教法人となった。 | ||
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2015年6月13日 (土) 時点における最新版
朝日神社 あさひ じんじゃ | |
概要 | 天理教系の新宗教。天理教直系教団の一つ。 |
奉斎 | 天照皇大御神・明治天皇(『新宗教教団・人物事典』) |
所在地 | 兵庫県三木市別所町高木817 |
所属(現在) | 朝日神社 |
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目次 |
概要
天理教の分派の一つ。天理教から直接分かれた教団である。教祖30年祭前後に天啓者待望論が広まるなかで、中山みきの子孫が入信し、天理教周縁の文化人が支持したことで知られている。
1908年(明治41年)、天理教の教会に出入りしていた井出くに(井手くに)(1863(文久3)-1947(昭和22))が神秘体験を経験し、1909年(明治42年)に信者が彼女のもとに集まり始めたのが創始という。この年、「神様の家」と呼ばれる神殿が建立されている。1910年(明治43年)、全国の天理教教会を廻ろうとするが挫折した。しかし1916年(大正5年)の天理教教祖30年祭において天理教教会本部にて人々に救済を施し、さらに相手がどんなに力を入れても打ち負かしたという神秘現象を見せる。中山みきの曾孫にあたる福井勘治郎(まさの孫)が入信したこともあって、井出くには「二代教祖」「播州の親様」などと呼ばれるようになる。
大正時代から昭和前期に掛けては多くの天理教信者を集めたという。1935年(昭和10年)には神殿を造営するに至っている。大正時代の天理教の異端的知識人である大平良平は自らが主催する雑誌『新宗教』にて、井出を天啓者として認め、絶賛することによって天理教本部に揺さぶりをかけたこともあった。小説家芹沢光治良も妻の病気を機に、神秘現象を目の当たりにして、しばしば交流し、その小説(『神の微笑』など)のなかにはくにの名前がたびたび登場する。
戦後の1947年(昭和22年)に井出くには死去し、その後は組織的拡張は見られないという。1952年(昭和27年)に宗教法人となった。
画像
参考文献
- 『新宗教教団・人物事典』8頁。
- 『天啓のゆくえ』
- 『新宗教事典』
- 矢野敬一、1989「出郷者の『家』」(岩本通弥、1989『混沌と生成』雄山閣)(未見)