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紅葉山東照宮
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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2021年1月7日 (木) 時点における版
紅葉山東照宮(もみじやま・とうしょうぐう)は、江戸城の紅葉山にあった東照宮。歴代将軍の霊廟もあった。現在の宮内庁庁舎北寄りから紅葉山御養蚕所にかけて広大な敷地を締めた。二の丸東照宮とは別。紅葉山御宮。
目次 |
歴史
1618年(元和4年)閏3月17日、仮殿を建て鎮座(続史愚抄)。同年4月17日正遷宮(続史愚抄)。徳川秀忠による。 1654年(承応3年)9月16日、正遷宮(続史愚抄)。 毎年4月17日には将軍が御三家・前田家・越前松平家・譜代大名らと共に参詣し紅葉山御社参と呼ばれた。 このとき、将軍は葡萄染精好の直垂を着用し、風折烏帽子をかぶって轅輿に乗り、随従の大名は烏帽子・大紋直垂を着用した。 毎月17日にも重臣の参詣があった。 紅葉山坊主が仕えた。 1642年(寛永19年)、三方楽所(宮中、南都楽所、天王寺楽所)から数人ずつが移って奏楽のための紅葉山楽人が置かれた。 警備として紅葉山火之番が設置された。 紅葉山御宮御番は宝暦ごろ廃止。 法華八講が行われていたようだ
明治初年に廃絶。 上野東照宮に石鳥居が移築されて現存する。
1698年(元禄11年)頃、旧殿が寛永寺山王社に移されていたが明治に解体された。
組織
紅葉山別当
- 公央
- 徳潤
- 光俊
- 義順
- 慈秀
- 公副
「紅葉山御別当譜」[1]
- 忠尊(?-1639):浅草寺別当。