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由義宮
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
2016年12月19日 (月) 時点におけるWikiSysopKARASUYAMA (トーク | 投稿記録)による版
由義宮(ゆげのみや)は、河内国若江郡(大阪府八尾市)にあった副都。称徳天皇時代、法王道鏡を出した弓削氏の故郷に置かれた。西京と定められたことから、平城京や平安京のような都市の建設が計画されていたという説がある。中心となる宮殿に隣接する形で、巨大な塔を備える弓削寺(由義寺)があったようだが、いずれも遺構は発見されていない。平成28年(2016)には、遺物とみられる大量の瓦が出土した。
歴史
『続日本紀』によると、765年(天平神護1年)10月29日、前年に重祚した称徳天皇は、紀伊行幸の帰路、由義宮の前身と思われる弓削行宮に立ち寄った。翌日には弓削寺に参拝。閏10月1日には弓削寺と知識寺に食封を与えている。そして2日、弓削行宮で道鏡を太政大臣禅師に任命した(のち法王となる)。宇佐神託事件のあった769年(神護景雲3年)の10月7日から2回目の行幸。滞在は23日間におよび、同月30日には由義宮と名付けた上、西京に定め、河内国に河内職を設置し、都に準ずる特別行政区とした。また19日には河内・龍華寺で市を開かせている。造由義大宮司、造由義寺司が設置され、本格的な都市建設が計画される。弓削寺は由義寺と書かれるようになる。そして翌年4月5日に称徳天皇行幸のもと、由義寺の塔が竣工した。この時の行幸でも40日近く滞在しており、天皇の由義宮重視の姿勢が分かる。しかし、同年8月に称徳天皇は崩御。建設計画はストップし、やがて荒廃したらしい。河内職もまもなく廃止された。