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天童寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
天童寺
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'''天童寺'''(てんどうじ)は、中国浙江省[[寧波]]市の太白山麓にある、[[禅宗]]寺院。市街地から東南30kmにある。[[栄西]]、[[明全]]、[[道元]]の旧跡。[[中国禅宗五山]]第3位。[[漢族地区仏教全国重点寺院]]。'''景徳寺'''ともいう。太白山の神の化身とされる童子が出現したため、天童寺という。北西10kmには[[阿育王寺]]がある。 ==歴史== === 名称変遷 === *乾元2年(759):天童〓瓏寺(〓は「王霊」) *咸通10年(869):天寿寺 *景徳4年(1007):景徳禅寺 *淳煕5年(1178):天童景徳禅寺 *洪武25年(1392):天童禅寺 *順治16年(1659):弘法寺 *康煕7年(1668):弘法禅寺 ==組織== ===歴代住職=== *「天童寺世代考1-11」に所載の一覧と考察による。 *世数は49世までは『扶桑五山記』の表記、それ以降は『天童寺志』『天童寺続志』に明示されているもののみ記し、他は便宜のため()で推定部分を補った。 {|class="wikitable" |+ !style="width:5%;"|歴代 !style="width:10%;"|名前 !style="width:10%;"|生没年 !style="width:50%;"|略歴 |- |開山 |義興 |~300~ |300年、東谷に庵を結ぶ(古天童の地)。清代に再建された墓塔がある? |- | |法睿 |~732~ |732年、精舎を東谷に再建した。「法〓」(〓は「王睿」)とも。墓塔は太白山にあったが廃滅。太白禅師。天童禅師。 |- | |宗弼 |生没年不詳 |経歴不詳。 |- | |曇総 |生没年不詳 |経歴不詳。 |- | |観宗 |731-809 |雲居智の法嗣。太白観宗。明州観宗。 |- | |清閒 |~759~ |759年、勅願「天童〓瓏寺」を下賜される。この時、清閒は食堂を建立。墓塔があったが廃滅。清閑。 |- |開法 |心鏡蔵奐 |790-866 |五洩霊黙の法嗣。『宋高僧伝』に「唐明州棲心寺蔵奐伝」がある。[[七塔寺]](棲心寺)を創建。太白山にあった墓塔は廃滅。七塔寺開山堂に1906年再建の墓塔がある。勅諡「心鏡禅師」(心鑑禅師)。賜塔「寿相」。心鑑蔵奐。棲心蔵奐。 |- |1 |咸啓 |~847~ |[[曹洞宗]]か。[[径山寺]]2世の鑑宗(793-866)の法嗣。または[[洞山良价]](807-869)の法嗣。847年、十方住持制が採用されて径山寺から招かれて天童寺に入ったという。860年[[紫衣]]を賜る。太白山にあった墓塔は現存不詳。。天童咸啓。 |- |2 |義 |生没年不詳 |曹洞宗。洞山良价の法嗣。 |- |3 |宝堅 |生没年不詳 |雲門宗。智門光祚の法嗣。 |- |4 |懐清 |生没年不詳 |雲門宗。五祖師戒の法嗣。天童懐清。景徳懐清。 |- |5 |子凝 |~1023~ |法眼宗。崇寿契稠(?-992)の法嗣。[[天台宗]]の[[四明知礼]]や慈雲遵式と親交を持った。大中祥符年間に20里に渡って道に松を植えた。天童子凝。 |- |6 |利章 |生没年不詳 |雲門宗。[[資聖寺]]の明覚大師雪竇重顕の法嗣。太白山に墓塔があったが現存不詳。 |- |7 |瑞新 |?-1053? |法眼宗の帰宗義柔の法嗣。または雲門宗の福昌重善の法嗣。天童寺の後、1049年金山龍遊寺に転住。金山瑞新。 |- |8 |澹交 |生没年不詳 |雲門宗。大愚暁舜の法嗣。淡交。天童澹交。 |- |9 |清簡 |生没年不詳 |法眼宗。帰宗義柔の法嗣。天童清簡。 |- |10 |普 |生没年不詳 |経歴不詳。 |- |11 |清遂 |生没年不詳 |臨済宗。石霜楚円の法嗣。天童清遂。青遂。 |- |12 |弼 |生没年不詳 |経歴不詳。『扶桑五山記』は12世とするが、『天童寺志』『天童寺続志』には記載がない。 |- |13 |可斉 |生没年不詳 |雲門宗。慧林円照(慧林宗本)の法嗣。天童可斉。 |- |14 |資湶源 |生没年不詳 |経歴不詳。『扶桑五山記』は14世とするが、『天童寺志』『天童寺続志』には記載がない。 |- |? |仏国惟白 |~1101~ |雲門宗。法雲法秀の法嗣。1100年、徽宗、勅賜「仏国禅師」号。1101年『建中靖国続灯録』。[[法雲寺]]の住職も務めた。太白山に墓塔があったが現存不詳。法雲惟白。『天童寺志』『天童寺続志』に記載はあるが、『扶桑五山記』に記載なし。 |- |15 |普交 |1048-1124 |[[臨済宗]]黄龍派。〓潭応乾(〓は「サンズイ+コザト+力」)の法嗣。太白山に墓塔があったが現存不詳。天童普交。 |- |16 |[[宏智正覚]] |1091-1157 |曹洞宗。丹霞子淳の法嗣。諸寺の後、1129年に天童寺に入寺。1138年9月の1ヶ月間、北山[[霊隠寺]]に住したが、すぐに天童寺に再住。諸堂を整備した。大慧宗杲と交流。霊隠寺時代のわずかな期間を除いて1157年の死去まで30年間住した。古天童に墓塔があった文化大革命で破壊された。勅賜「宏智禅師」。勅塔「妙光」。天童宏智。天童正覚。 |- |17 |法為 |~1157~ |曹洞宗。宏智正覚の法嗣。1157年、大慧宗杲の推挙で就任。1159年退任。退任の理由は不明。大洪山崇寧保寿院にいた時期もある。太白山に墓塔があったが現存不詳。大洪法為。 |- |18 |大休宗〓(〓は「王玉」) |1091-1162 |曹洞宗。真歇清了(宏智正覚の法兄)の法嗣。延寿寺、岳林寺、[[雪竇寺]]を歴住し、1159年、天童寺に晋山。1162年死去。太白山に墓塔があったが現存不詳。大休如〓。 |- |19 |応庵曇華 |1103-1163 |臨済宗虎丘派。虎丘紹隆の法嗣。巨刹を多数歴住した後、1162年天童寺に晋山。翌年死去。太白山に墓塔があったが現存不詳。碑銘が現存。応菴曇華。天童曇華。 |- |20 |慈航了樸 |?-1183? |臨済宗黄龍派。無示介諶の法嗣。明州の蘆山(白龍禅寺か)、[[阿育王寺]]22世、海上・万寿寺(不詳)を経て1163年頃、天童寺に入った。1178年、孝宗に招かれ、道を講じ、「太白名山」の宸筆を賜ったという。天童寺で死去。1183年か。天童寺に墓塔があったが現状不明。慈航了朴。 |- |21 |密庵咸傑 |1118-1186 |臨済宗虎丘派。応菴曇華の法嗣。1167年、西烏巨山乾明院に晋山。大中祥符寺、金陵の太平興国寺、常州の褒忠顕報華蔵寺を歴住。1177年、径山寺に晋山。1180年、景徳霊隠寺に入る。1183年隠居するが、1184年天童寺に入る。1186年死去。天童寺に墓塔があったが現状不明。『天童寺志』では20世とする。 |- |22 |雪庵従瑾 |1117-1200 |臨済宗黄龍派。心聞曇賁の法嗣。如浄の法嗣とする説は誤り。霊巌寺、象山香灯院(不詳)、天童寺、雪竇寺を歴住。鹿円庵に隠棲した。天童寺の在住時期は前後から1186年~1189年頃か。1200年死去。墓塔は[[天台山]][[万年寺]]にあったが現状不明。 |- |23 |虚庵懐敞 |~1189~ |[[栄西]]の師。臨済宗黄龍派。雪菴従瑾の法嗣。天台山万年寺を経て1189年、天童寺に晋山。栄西は1187年、2回目の入宋を果たし、万年寺時代の虚庵懐敞に師事し、天童寺転住に従い、1191年嗣法し、同年秋に日本に帰国した。栄西との関係以外の事績は不明。天童寺に墓塔があったが現状不明。虚菴懐敞。 |- |24 |節 |生没年不詳 |経歴不詳。『扶桑五山記』は24世とするが、『天童寺志』『天童寺続志』には記載がない。 |- |25 |無用浄全 |1137-1207 |臨済宗楊岐派大鑑下。大慧宗杲の法嗣。1185年、狼山(寺名不明)に晋山。建業の[[保寧寺]]を経て天童寺住持となった。霊隠寺にも住したか。天童寺に墓塔があったが現状不明。 |- |26 |息庵達観 |1138-1212 |臨済宗楊岐派大鑑下。水菴師一の法嗣。厳州の霊巌寺、霊隠寺、天童寺に住した。1207年頃に就任か。1212年死去。天童寺に墓塔があったが現状不明。 |- |27 |浙翁如〓(〓は「王炎」) |1151-1225 |臨済宗楊岐派大慧下。拙庵徳光(1121-1203)の法嗣。南剣の含情寺、越州の能仁寺、明州の光孝寺、建康の蒋山(開善寺か)を歴住。霊隠寺32世とも。1217年以前に天童寺に入った。のち径山寺に移った。径山寺時代の1223年~1224年頃に入宋中の[[道元]]が訪ねている。育王如〓。径山如〓。仏心如〓。 |- |? |松窓澄照 |生没年不詳 |臨済宗虎丘派か。密庵咸傑の法嗣。世代不詳。『寺志』には記載があるが、『扶桑五山記』には記載がない。 |- |28 |癡鈍智頴 |生没年不詳 |臨済宗楊岐派。焦山師体(或庵師体)(1108-1179)の法嗣。茶陵の厳福寺、金陵の保寧寺、蒋山、紹興の報恩寺、蘇州の霊巌寺を歴住。蒋山に再住し、雪竇寺を経て天童寺住持となる。天童智穎。 |- |29 |海門師斉 |生没年不詳 |臨済宗楊岐派大慧下。拙庵徳光(1121-1203)の法嗣。台州の瑞巌寺を経て勅旨により天童寺に晋山。その時「華厳大菩薩」の再生とされたという。天童寺に墓塔があった現状不明。 |- |30 |無際了派 |1149-1224 |臨済宗楊岐派大慧下。拙庵徳光(1121-1203)の法嗣。1198年、常州保安寺、天童寺に歴住。嘉定年間(1208-1224)に天童寺に在住している。1223年7月、入宋した[[道元]]が天童寺に掛塔した時、無際了派が住職だった。天童寺に墓塔があったが現状不明。 |- |31 |[[長翁如浄]] |1163-1228 |[[道元]]の師。曹洞宗。雪竇智鑑の法嗣。1210年、建康の石頭山清涼広慧禅寺、1215年台州の瑞巌浄土禅院、1216年、杭州[[浄慈寺]](1220年まで)、1222年、明州の瑞巌開善禅寺、1223年、浄慈寺(再住)を歴住(年には諸説ある)。1224年天童寺に入り、1227年に隠退した。『天童寺志』では誤って元代の人物とされている。 |- |32 |枯禅自鏡 |~1225~ |臨済宗虎丘派。密庵咸傑の法嗣。隆興上藍寺、建康旌忠寺、撫州白楊寺、福州太平寺、福州西禅寺を歴住。1225年、勅命で霊隠寺に入る。1227年~1229年頃に天童寺に晋山した。天童寺に墓塔があったが現状不明。枯禅智鏡。 |- |33 |晦巌仏光 |~1225~ |『天童寺志』『天童寺続志』では「晦巌仏光」と「東谷妙光」を同一人物としているが別人説もある。「東谷妙光」に関する別史料には天童寺に住したという記述は確認できないという。「晦巌仏光」(晦巌大光)は阿育王寺住持時代の1225年頃、入宋した[[道元]]と会っている。「晦巌仏光」は臨済宗虎丘派と思われるが、「東谷妙光」は明極慧祚の法嗣で[[曹洞宗宏智派]]で齟齬がある。『明州阿育王山続志』では「晦巌仏光」は阿育王寺32世と伝わるが、「東谷妙光」は41世とされる。「晦巌仏光」の墓塔は天童寺にあったが現状不明。 |- |34 |松岩印 |生没年不詳 |経歴不詳。『扶桑五山記』は34世とするが、『天童寺志』『天童寺続志』には記載がない。 |- |35 |雲臥栄 |生没年不詳 |経歴不詳。『扶桑五山記』は35世とするが、『天童寺志』『天童寺続志』には記載がない。 |- |36 |癡絶道冲 |1169-1250 |臨済宗虎丘派。曹源道生の法嗣(ただし生前に印可を受けられなかったという)。1219年、嘉興の報恩光孝禅寺に晋山。1225年、蒋山の太平興国禅寺に転住。1238年、福州の雪峰山崇聖禅寺に入り、1239年、勅旨により天童寺に晋山した。阿育王寺も兼務したという。1244年、勅旨により霊隠寺に入ったが約1年で引退した。1249年2月、再三の懇請で呉興の覚城山法華禅寺の開山になる。同年10月、詔勅により径山寺に昇住。翌年死去。墓塔は金陵の玉山庵と径山玉芝庵にあったが現状不明。 |- |37 |滅翁文礼 |1167-1250 |臨済宗虎丘派。松源崇嶽の法嗣。1212年、臨安の慧雲寺に入り、京城(杭州?)の広寿寺、永嘉の能仁寺、安吉の福泉寺、行都の浄慈寺、天童寺を歴住。天童寺に墓塔があったが現状不明。天目文礼。 |- |? |月窓円 |生没年不詳 |臨済宗虎丘派。枯禅自鏡の法嗣。経歴不詳。寺志では簡翁居敬の次、寺続志では滅翁文礼の後に茨菴全堯と並んで掲げる。『扶桑五山記』にはない。 |- |? |茨庵全堯 |生没年不詳 |臨済宗楊岐派。焦山師体(或庵師体)(1108-1179)の法嗣。経歴不詳。寺志では癡絶道冲の次、寺続志では滅翁文礼の後に月窓円と並んで掲げる。『扶桑五山記』にはない。 |- |38 |弁山了阡 |生没年不詳 |臨済宗楊岐派大慧下。浙翁如〓の法嗣。経歴不詳。天童寺に墓塔があったが現状不明。 |- |39 |西巌了慧 |1198-1262 |臨済宗虎丘派。[[無準師範]]の法嗣。平江の定慧寺、温州の能仁寺、江州[[廬山]][[東林寺]]を歴住。1252年、天童寺に晋山。西巌了恵。 |- |40 |別山祖智 |1200-1260 |臨済宗虎丘派。無準師範の法嗣。1238年、蘇州の天王寺に晋山。天童寺に転住。1256年に被災した伽藍を1258年頃に再建した。門下に日本の樵谷惟僊がいる。1260年死去。天童寺に墓塔があったが現状不明。 |- |? |絶岸可湘 |1206-1290 |臨済宗虎丘派。無準師範の法嗣。経歴不詳。寺志で別山祖智の次に記載される。『扶桑五山記』にはない。 |- |41 |西江広謀 |生没年不詳 |臨済宗楊岐派。淳菴善浄の法嗣。経歴不詳。阿育王寺の42世または44世。 |- |42 |簡翁居敬 |~1260~ |臨済宗虎丘派。癡絶道冲の法嗣。経歴不詳。浄慈寺44世。 |- |43 |石帆惟衍 |生没年不詳 |臨済宗楊岐派?。運庵普巌の法嗣。蘇州の承天能仁寺、浄慈寺47世または49世。1273年以前の死去。門下に西澗子曇。 |- |44 |環渓惟一 |1202-1281 |臨済宗虎丘派。無準師範の法嗣。1246年、建寧の瑞巌寺に晋山。蓮峰庵(不詳)、臨江の瑞篁山恵力寺、隆興の〓潭山宝峰寺、隆興の黄龍山崇恩寺、建昌の資聖寺、瑞州の黄檗山報恩光孝寺、1265年袁州の仰山太平興国寺、1269年、福州の雪峰山崇聖寺を経て1273年、天童寺に晋山。まもなく伽藍焼失という事態に遭遇。復興に尽力する一方で、僧の修行には影響が出ないように配慮を重ねたと伝えられる。1279年引退し東堂となる。1281年死去。 |- |45 |月坡普明 |~1283~ |臨済宗虎丘派。無準師範の法嗣。経歴不詳。1283年までに天童寺晋山。1284年~1289年頃に天童寺で死去。 |- |46 |止泓道鑑 |~1284~ |臨済宗楊岐派大慧下。偃渓広聞の法嗣。信州真如寺(不詳)を経て天童寺に晋山。1284年頃在住か。 |- |? |石門来 |生没年不詳 |臨済宗楊岐派大慧下。大川普済の法嗣。経歴不詳。天童寺に墓塔があったが現状不明。『扶桑五山記』になし。石門礼。 |- |47 |東巌浄日 |1221-1308 |臨済宗虎丘派。西巌了慧の法嗣。[[廬山]]円通寺、[[廬山東林寺]]、1292年[[阿育王寺]](55世)を経て1300年以前に天童寺に昇住。 |- |48 |竺西妙坦 |1245-1315 |臨済宗松源派。虚舟普度の法嗣。無錫の保寧寺の止住した後、慧山(不詳)、南康の華蔵寺、承天寺などに滞在。1298年、華蔵寺に入り、1308年以前に天童寺に昇住した。天童寺に墓塔があったが現状不明。 |- |49 |雲外雲岫 |1242-1324 |曹洞宗宏智派。直翁徳挙の法嗣。慈谿の石門寺、象山の智門寺、嘉禾の天寧寺を経て天童寺に昇住。天童寺49世であることは『扶桑』『寺志』『続志』とも共通して記す。門下に来日僧の東陵永〓がいる。1324年死去。天童寺に墓塔があったが現状不明。『扶桑五山記』はここまで掲載。 |- |(50?) |東雲仏海 |1268-? |臨済宗か。経歴不詳。天童寺在任期間は1324~1329年頃の数年間。1352年までは生存していた。 |- |(51?) |怪石奇 |生没年不詳 |臨済宗楊岐派大慧下。雪峰妙高の法嗣。経歴不詳。天童寺以前に大慈寺(大慈教忠報国寺(功徳寺)か)に止住した。 |- |(52?) |平石如砥 |1268-1357 |臨済宗虎丘派。東巌浄日の法嗣。1299年、慶元の保聖寺に晋山。1313年定水寺(不詳)に転住。1329年、天童寺に晋山。1342年退任。 |- |(53?) |龍門膺 |?-1358 |経歴不詳。1342年、廬山大華蔵寺就任。1343年に天童寺住職に任命。固辞するが結局就任する。まもなく死去。天童寺に墓塔があったが現状不明。 |- |(54?) |孚中懐信 |1280-1357 |臨済宗松源派。竺西妙坦の法嗣。1326年明州観音寺(不詳)、1329年[[普陀山]][[普済寺]]に歴住。1334年には普陀山に「多宝仏塔」(太子塔)に建立。この塔は現存するという。1330年、文宗皇帝から勅賜「広慧妙悟智宝弘教禅師」号と金襴法衣を授けられた。1342年、中天竺山天暦永祚禅寺に転住。1345年、天童寺に晋山。境内整備を進めた。1349年、大龍翔集慶寺に転住。1357年死去。聚宝山で火葬され、牛首山に墓塔が建てられた。天童寺には爪髪塔が建てられた。 |- |(55?) | | | |- |(56?) |正宗法庄 |~1353~ |臨済宗松源派。竺西妙坦の法嗣。続志に記載されるが、寺志に記載がない。明州開寿寺(不詳)、龍興上藍寺(建徳か)、蒋山を歴住。1353年、天童寺に晋山。 |- |(57?) |雪窓悟光 |1298-1357 |臨済宗松源派。東嶼徳海の法嗣。1330年、平江の白馬寺、1333年、蘇州の開元寺、1342年、阿育王寺に入り、僧侶の綱紀粛正を行い、伽藍を整備した。順帝は勅賜「仏日円明普済禅師」号を授けた。のち天童寺を兼務した。 |- |58 |原明元良 |~1358~ |臨済宗松源派。別源法源の法嗣。初め台州の紫〓瑞巌寺に住し、1358年に天童寺に晋山。寺志、続志に58世と明記される。伽藍の整備に尽力した。1360年、順帝が勅賜「善覚普光禅師」号を授けた。1367年頃、退任か。天童寺に墓塔があったが現状不明。元明原良とも。 |- |(59?) |了堂惟一 |?-1378 |臨済宗松源派。竺原妙道の法嗣。1330年、慶元の[[延慶寺]]に初住。1342年台州の紫〓山広度寺(不詳)に転住。1363年、慶元の天寧寺に転住。1368年頃、兄弟弟子の別源法源の弟子、つまり後輩格に当たる原明元良の後をついで1367年頃、天童寺に昇住。芥室惟一。 |- |(60?) |木庵司聡 |1312-1381 |臨済宗松源派。竺原妙道の法嗣。1358年、台州の洪祐寺(不詳)、1363年、[[天台山]][[国清寺]]を経て1369年、天童寺に昇住。1372年頃退任。天童寺東堂となる。天童寺に墓塔があったが現状不明。 |- |(61?) |寿巌智昌 |?-1378 |臨済宗楊岐派大慧下。玉渓思珉の法嗣。大梅県の保福院(不詳)に初住。1369年、退任。翌年、昌国県の吉祥寺に転住。1372年、天童寺に昇住。1377年に詔勅により首都[[金陵]]に召集され、天下の僧徒は昼講夜禅の規矩を守るように達せられた。1378年死去。天童寺に墓塔があったが現状不明。友幻智昌。 |- |(62?) |用愚希顔 |生没年不詳 |臨済宗楊岐派大慧下。愚庵智及の法嗣。経歴不詳。寺志にないが、続志にある。 |- |(63?) | | | |- |64 |仁叟懐 |生没年不詳 |経歴不詳。寺志に64世と明記される。天童寺に墓塔があったが現状不明。 |- |(65?) |湛然自性 |~1382~ |臨済宗楊岐派大慧下。全室宗〓の法嗣。寺志では仁叟懐の前とするが続志では仁叟懐の次とする。雲陽の普光寺に晋山。1382年、常州の永慶寺、続いて撫州の疎山寺、勅命で天童寺に晋山。時期不明だが勅賜「仏朗禅師」号を下賜される。仏朗自性。 |- |(66?) |雲壑浄観 |~1415~ |臨済宗楊岐派大慧下。定巌宝戒(定巌浄戒。1418没)の法嗣。永楽年間(1403-1424)天童寺に昇住し[[紫衣]]を下賜される。1415年、成祖から勅賜「弘慈普応禅師」号を授けられた。仏ロウ寺、盤山寺、二霊寺、珠山寺を天童寺に合併させた。宣宗皇帝の顧問となり、1426年、[[北京]][[慶寿寺]]に滞在して「左講経」(僧録職)となる。 |- |(67?) |法等 |生没年不詳 |経歴不詳。「洪鐘銘序」に名がある。1428年-1432年頃に在住か。法等の前に遠〓(草冠に「止」)を入れる説もある。 |- |(68?) |天泉祖淵 |~1434~ |臨済宗楊岐派大慧下。定巌宝戒(定巌浄戒)の法嗣。1428年-1432年頃に在住か。実際は円愷の次か。1434年、上京し僧録司「左覚義」となる。雨菴祖淵。右善世に昇格し、のち江寧の鳳翔山の[[普寧寺]]を与えられた。また万善戒壇が建立されると伝戒宗師となり、1万人以上を弟子としたという。1449年死去。太上皇(英宗)は宦官を派遣し「白金・香幣・鈔万緡」を下賜し、礼部主事を派遣して葬礼を行った。遺骨は[[大功徳寺]]に奉安された後、普寧寺に送られ、大塔を建てて納骨したという。天童寺には分骨が納められたという。 |- |(69?) |円愷 |~1432~ |経歴不詳。1428年-1432年頃に在住か。実際は天泉祖淵の前か。1428年の焼失を受けて短期間で再建を実現し、1432年伽藍を旧観に復したという。 |- |70 |雲荘慶 |生没年不詳 |経歴不詳。臨済宗虎丘派か。雪巌祖欽(?-1287)の法灯に連なるという。寺志では70世と世数を明記する。天童寺に墓塔があったが現状不明。 |- |71 |曦庵皚 |生没年不詳 |臨済宗楊岐派大慧下。無言本の法嗣。経歴不詳。寺志では71世と世数を明記する。天童寺に墓塔があったが現状不明。 |- |72 |無伝宗嗣 |~1441~ |経歴不詳。寺志に72世と明記する。1441年、寺の大衆と力をあわせて洪鐘を鋳造したことが知られる(洪鐘銘序)。天童寺に墓塔があったが現状不明。 |- |73 |(不明) |生没年不詳 |不詳 |- |74 |(不明) |生没年不詳 |不詳 |- |75 |大用機 |生没年不詳 |臨済宗虎丘派。壊空成の法嗣。経歴不詳。寺志に75世と明記する。天童寺に墓塔があったが現状不明。 |- |76 |(不明) |生没年不詳 |不詳 |- |77 |性空習 |生没年不詳 |経歴不詳。寺志に77世と明記する。天童寺に墓塔があったが現状不明。 |- | | | |(15世紀後半から17世紀初頭まで100年余りは衰退して住職の名前が伝わらない。) |- |中興1 |密雲円悟 |1566-1642 |臨済宗雪厳派。幻有正伝の法嗣。明清時代の天童寺の基礎を築いた。1617年、龍池山禹門禅院に晋山。1622年、[[天台山]][[通玄寺]]に昇住。1624年、嘉興の金栗山[[広慧寺]]に転住か。1630年、黄檗山[[福建・万福寺|万福寺]]に晋山。1631年2月、[[阿育王寺]]に転住。4月に天童寺に晋山。5月には広慧寺に再住するも、8月には天童寺に戻った。はじめ仏殿と天王殿を建て、法堂、先覚堂、蔵閣、大方丈を造営。その後も伽藍造営が続いた。1641年退任。毅宗皇帝から[[紫衣]]を賜る。勅賜「慧定禅師」。翌年、通玄寺で死去。通玄寺と天童寺に墓塔が建てられた。 |- |中興2 |山翁道忞 |1596-1674 |臨済宗。密雲円悟の法嗣。1643年、天童寺住職となるが、継承を巡って法嗣の間で争いがあったという。1646年、五磊山霊峰寺に転住。越州の雲門寺、1647年、台州の広潤寺、1649年、越州大能仁寺(不詳)、1651年、湖州の道場山護聖万寿寺、青州の大覚寺を経て、浮石通賢の退任を受けて1657年に天童寺に再住した。1659年3月、世祖の勅命で[[北京]]に召され、万善殿・愍忠殿・広済殿で結冬を行う。1660年、勅賜「弘覚禅師」号を授かる。その後もたびたび衣などが下賜されている。1670年4月、天童寺帰山の許可を得た。翌年退任。1674年死去。平陽の黄龍下に墓塔が建てられた。天童寺には爪髪塔が建てられた。木陳道忞。 |- |中興3 |費隠通容 |1593-1661 |[[隠元隆琦]]の師。臨済宗。密雲円悟の法嗣。馬峰(南靖県)に住して3年。1633年10月15日、黄檗山[[福建・万福寺|万福寺]]に晋山。この時、西堂職に隠元隆琦が就いている。1636年春、万福寺を辞した(のち後任に隠元隆琦が就任)。建寧の地蔵院で結夏安居。秋に建寧の建安蓮峰院に昇住。1637年、温州の法通寺に晋山。1638年春、金栗山広慧寺に晋山。1646年10月11日に天童寺に晋山。古天童の「宏智祖師塔院」「東谷祖師像」の荒廃を嘆き修復。1647年、一時的に広慧寺に再住するがすぐに天童寺に戻った。1649年10月、松江超果院に転住。1650年には崇徳の福厳寺に転住。ここで『五灯厳統』を印刻している。同年、[[径山寺]]に転住。1654年、径山寺を退任。なおこの年、隠元隆琦一行が長崎興福寺の逸然の招請で来日している。1655年12月には虞山維摩院に転住。1656年5月、堯峰興福院に転住。1657年、福厳寺に再住。1661年3月29日死去。69歳。遺骨は門人たちの協議により黄檗山に納められたという。 |- |中興4 |林野通奇 |1595-1652 |臨済宗雪厳派。密雲円悟の法嗣。1650年就任。1652年退任。 |- |中興5 |牧雲通門 |1599-1671 |臨済宗雪厳派。密雲円悟の法嗣。1652年就任。1654年退任。 |- |中興6 |浮石通賢 |1593-1667 |臨済宗雪厳派。密雲円悟の法嗣。1654年就任。1657年退任。山翁道忞が再住した。 |- | |遠庵本〓(〓は「人豊」) |1622-1682 |臨済宗雪厳派。山翁道忞の法嗣。 |- | |山暁本皙 |1620-1686 |臨済宗雪厳派。山翁道忞の法嗣。 |- | |天嶽本畫 |1621-1706 |臨済宗雪厳派。山翁道忞の法嗣。 |- | |柏堂超静 |生没年不詳 |臨済宗雪厳派。山暁本皙の法嗣。 |- | |慰弘元盛 |生没年不詳 |臨済宗雪厳派。山暁本皙の法嗣。 |- | |偉載超静 |1651-1724 |臨済宗雪厳派。天嶽本畫の法嗣。偉載元乗?偉載超乗?以下、『天童寺続志』に記載。 |- | |介愚元晟 | | |- | |泉声元煌 | | |- | |懶畊元来 | | |- | |石吼元徹 |1662-1738 |霊遠応の法嗣。山翁道忞の孫弟子。 |- | |子常成楨 | | |- | |訊庵成〓(〓は「干」の下に「心」) | | |- | |湘南成衡 | | |- | |慈雲成度 | | |- | |千日成眼 | | |- | |文耀仏慈 | | |- | |万〓仏用(〓は「人分」) | | |- | |大挙仏度 | | |- | |徳山仏性 | | |- | |祖芳仏聯 | | |- | |一輪祖元 | | |- | |省三仏才 | | |- | |雲中際沛 | | |- | |慧海祖源 | | |- | |甬清祖泉 | | |- | |易悟祖和 | | |- | |克明祖参 | | |- | |嵩岳祖集 | | |- | |天機祖縁 | | |- | |文秀祖参 | | |- | |(中略) | |(電子化の際の錯簡のためか「天童寺世代考1」には記載されていない。『天童寺続志』には記載があるようだ) |- | |奇禅敬安 |1851-1912 | |} ==資料== *吉田道興「天童寺世代考」1-11 *[http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/18780/KJ00005120279.pdf] * 明庵栄西の在宋中の動静について(下)虚庵懐敞の天童山入寺と栄西の随侍および帰国[http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/34494/] *「明末清初の天童山と密雲圓悟」[http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/18780/] [[category:中華人民共和国浙江省]]
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