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キリスト教アルメニア使徒教会

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

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アルメニア使徒教会は、キリスト教東方正統教会の一教派。

歴史

  • 1世紀:伝承によると、使徒タダイと使徒バルトロマイがアルメニアに布教したという。
  • 280年頃:アルメニア貴族末裔のグレゴリウス・イッルミナトル(240頃-322頃)がカッパドキアで修行した後、帰国。
  • 303年頃:エチミアジン大聖堂創建。
  • グレゴリウス、アルメニア国王ティリダテス3世をキリスト教に改宗させた。
  • グレゴリウス、カッパドキアのカエサレア主教から主教に叙階される。ついでアルメニア国王から教会の首長カトリコスに任命される。アルメニアは世界初のキリスト教国家となる。
  • 4世紀末:カッパドキアのカエサレア主教の管轄下から独立。
  • 406年:メスロプ・マシトツがアルメニア文字を考案。アルメニア語訳聖書が成立。
  • 428年:アルメニア王国滅亡。
  • 451年:カルケドン公会議に参加せず。
  • 506年:教会会議、カルケドン信条の不採用を決議。
  • 638年:正教会エルサレム総主教ソフロニウスが死去。その後任をアルメニア使徒教会が任命するようになった。断続的に現代まで続く。
  • 1058年:カトリコス座、セルジューク朝の支配を逃れて小アジアのスィヴァスに避難。
  • 1062年:カトリコス座、タフブロアに移転。
  • 1080年:キリキア・アルメニア王国の前身が成立。キリキアには多くのアルメニア人が逃れていた。キリキアがアルメニア使徒教会の第二の拠点となる。
  • 1149年:カトリコス座、転々としたのち、フロムクラに移転。
  • 1198年:カトリコスグリゴール6世、ローマ・カトリックとの合同を宣言。しかし支持を得られず。
  • 1199年:カトリコスがタルスス大聖堂で国王に格上げされたレヴォン2世に戴冠。
  • 1293年:カトリコス座、シスに移転。
  • 1340年頃:エルサレムのアルメニア人地区の周囲に城壁を建てることが許可される。
  • 1375年:キリキア・アルメニア王国滅亡。以後、教会がアルメニア人のコミュニティの中心となり、カトリコスは国家元首にみなされる。
  • 1375年:一部がローマカトリック教会と合同してアルメニア典礼カトリック教会として別れる。
  • 1441年:カトリコス座の分裂。カトリコスグリゴール9世、ローマカトリック教会との合同を宣言。支持を得られず、キラコス1世がカトリコスに擁立され、カトリコス座が分裂してエチミアジンに成立。
  • 1903年:ロシア帝国カフカス民政長官ゴリツィンが領内の教会の資産を没収。
  • 1915年:アルメニア人虐殺事件。シスのキリキアカトリコス座は崩壊。
  • 1930年:キリキアカトリコス座、レバノンのアンテリャスに移転。
  • 1945年:バガルシャパト、エチミアジンと改称。
  • 冷戦時代:アルメニアにソビエト政権が樹立すると、共産主義勢力に影響されたカトリコス座への警戒が増し、キリキアカトリコス座の勢力が拡大した。
  • 2015年4月23日:虐殺事件の全犠牲者を列聖した。

聖地と聖堂

組織

それぞれが独立した組織を持っている。

  • 全アルメニア教徒のカトリコス:最高総主教とも。
  • キリキアカトリコス:キリキア総主教という表記もある。レバノンのアンテリャスに置く。キリキア聖座。キリキア大堂カトリコス庁。
  • エルサレム総主教:
  • コンスタンティノープル総主教:
http://shinden.boo.jp/wiki/%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%A1%E3%83%8B%E3%82%A2%E4%BD%BF%E5%BE%92%E6%95%99%E4%BC%9A」より作成

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