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与田寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
与田寺
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'''与田寺'''(よだじ)は、香川県東かがわ市中筋(讃岐国大内郡)にある[[薬師信仰]]の[[真言宗]]寺院。本尊は[[薬師如来]]。[[真言宗善通寺派]]。[[四国八十八所霊場]]の総奥之院を称す。'''虚空蔵院'''と号す。'''與田寺'''。山号は医王山。 ==歴史== 『与田寺旧記』によると739年(天平11年)、[[行基]]の創建で医王山薬師寺と称したという。 [[空海]]が真言宗に改め勅願所とし、[[嵯峨天皇]]が200町の寺田を賜ったという。 河内の[[誉田八幡宮]]を勧請して鎮守とし神宮寺と改称したとも、[[讃岐・水主神社]]の別当になったともいう。 鎌倉時代には讃岐七談義所の一つとなった。 戦乱で荒廃するが、室町時代、増吽が復興。[[後小松天皇]]の勅で虚空蔵院と改称した。盛んに写経活動を行った。 増吽は[[熊野信仰]]に篤く、応永年間の[[熊野速玉大社]]の再建に尽力し、水主三山に[[熊野三山]]を勧請した。 また小豆島の吉祥寺、直島の極楽寺、[[備前・蓮台寺]]なども復興したという。覚城院にも住した。玉野市の無動院で石棺に入り入定したとも。 以後、興隆して与田寺旧記によると末寺は讃岐国128寺、下野・武蔵・尾張・播磨・備前・備中・阿波の1129寺に及んだと記す。 1583年(天正11年)、長宗我部軍の兵火で焼失。 元和年間、増意が再興するが、1640年(寛永17年)焼失。 松平頼重が高松藩主となると、院主増遍が上申して1645年(正保2年)20石寄進を受ける。 1665年(寛文5年)、[[仁和寺]]の直末となる。 高松藩主の命で五大[[虚空蔵]]護摩を行った。以後、再び隆昌する。 明治になって与田寺と改称した。 (日本歴史地名大系) ==境内== *本堂:1733年(享保18年)再建。 *大師堂: *護摩堂:本尊は清水観音、不動明王、地蔵菩薩など。元禄年間再建。 *多宝塔: *仁王門:1634年(寛永11年)再建。 *鐘楼門:1634年(寛永11年)再建。 *奥之院大師堂: [[Category:香川県]]
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