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久米寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

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'''久米寺'''(くめでら)は、奈良県橿原市にある[[真言宗]]寺院。本尊は薬師如来。[[空海旧跡]]。山号は霊禅山。東塔院と称す。真言宗御室派。
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'''久米寺'''(くめでら)は、奈良県橿原市にある[[空海]]ゆかりの[[真言宗]]寺院。本尊は[[薬師如来]]。山号は霊禅山。'''東塔院'''と称す。[[真言宗御室派]]
== 歴史 ==
== 歴史 ==
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創建については諸説ある。『扶桑略記』によると延喜元年(901)、龍門寺で修行した久米仙人が創建し、薬師三尊を祀ったという。鎌倉時代には、来目皇子が創建したとの説がある。
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創建については諸説ある。『扶桑略記』によると延喜元年(901)、[[龍門寺]]で修行した久米仙人が創建し、薬師三尊を祀ったという。鎌倉時代には、[[聖徳太子]]弟の来目皇子が創建したとの説がある。
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しかし、確かな記録としては空海の事績が早い。天長2年(825)に空海が記した益田池碑銘では湖畔に来眼精舎があったとし、『御遺告』では入唐前の空海が久米寺東塔で大日経を感得したと述べる。
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ただ確かな記録としては空海の事績が早い。天長2年(825)に空海が記した益田池碑銘では湖畔に「来眼精舎」があったとし、『御遺告』では入唐前の空海が久米寺東塔で大日経を感得したと述べる。
考古学的調査では現在境内の西に古代伽藍跡があり、出土瓦から白鳳時代後期の成立とみられている。
考古学的調査では現在境内の西に古代伽藍跡があり、出土瓦から白鳳時代後期の成立とみられている。
金堂、講堂、東塔西塔を備えていた。
金堂、講堂、東塔西塔を備えていた。
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天慶5年(942)7月、東院大塔が雷火で焼失。文明4年(1472)塔が倒壊。
天慶5年(942)7月、東院大塔が雷火で焼失。文明4年(1472)塔が倒壊。
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近世、東院跡に伽藍復興。多宝塔を仁和寺から移した。
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近世、東院跡に伽藍復興。これか現在の境内となる。多宝塔を[[仁和寺]]から移した。
(国史大辞典)
(国史大辞典)

2017年9月11日 (月) 時点における版

久米寺(くめでら)は、奈良県橿原市にある空海ゆかりの真言宗寺院。本尊は薬師如来。山号は霊禅山。東塔院と称す。真言宗御室派

歴史

創建については諸説ある。『扶桑略記』によると延喜元年(901)、龍門寺で修行した久米仙人が創建し、薬師三尊を祀ったという。鎌倉時代には、聖徳太子弟の来目皇子が創建したとの説がある。 ただ確かな記録としては空海の事績が早い。天長2年(825)に空海が記した益田池碑銘では湖畔に「来眼精舎」があったとし、『御遺告』では入唐前の空海が久米寺東塔で大日経を感得したと述べる。 考古学的調査では現在境内の西に古代伽藍跡があり、出土瓦から白鳳時代後期の成立とみられている。 金堂、講堂、東塔西塔を備えていた。

天慶5年(942)7月、東院大塔が雷火で焼失。文明4年(1472)塔が倒壊。 近世、東院跡に伽藍復興。これか現在の境内となる。多宝塔を仁和寺から移した。

(国史大辞典)

http://shinden.boo.jp/wiki/%E4%B9%85%E7%B1%B3%E5%AF%BA」より作成

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