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五流報恩院

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2020年8月16日 (日)

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(ページの作成:「五流報恩院は岡山県倉敷市林にあった修験道寺院。五流尊瀧院関連旧跡。 大宝2年創建。開山は芳元。中興は澄有。 == 組織 == =...」)
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五流報恩院は岡山県倉敷市林にあった修験道寺院。五流尊瀧院関連旧跡。
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'''五流報恩院'''は岡山県倉敷市林にあった[[修験道]]寺院。[[五流尊瀧院関連旧跡]]。
大宝2年創建。開山は芳元。中興は澄有。
大宝2年創建。開山は芳元。中興は澄有。
== 組織 ==
== 組織 ==
===歴代住職===
===歴代住職===
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*芳元()<>:開山
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*芳元()<>:開山。[[役小角]]の高弟。[[五鬼]]の一人。[[五流尊瀧院]]5世。
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*澄有()<>:中興
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*恵覚()<>:1092年(寛治6年)、[[白河法皇]]の[[吉野]]・[[熊野]]先達を務めたという(『新熊野権現御伝記』。『長床縁由』では熊野は1118年(元永1年)。)。1118年(元永1年)の入峰の時、白河法皇から僧官補任の永宣旨を与えられたという(『長床縁由』)。慈覚、慧学とも(『長床縁由』)。
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*堯海()<>
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*定慶()<>:1160年(永暦1年)法橋。1171年(承安1年)晦日峰入で所司を務めた。(『山伏帳』)
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*堯龍()<>
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*澄有()<>:中興。道乗の子。頼仁親王の孫。
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*宣海()<>
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*覚南?()<>:『熊野長床宿老五流』に名がある。
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*堯誉()<>
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*宣光()<>:五流尊瀧院13世の隆宴の第二子。
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*堯啓()<>
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*隆証()<>:1687年(貞享4年)、道祐法親王の入峰に従う(『備陽記』『吉備温故秘録』)
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*宣養()<>:1714年、宿老として入峰(岡山藩山伏留)。
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*宣誉()<>:宣誉の名がある1791年(寛政3年)の[[山上講]]の講員名簿が残る。
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*堯海()<>:(『要覧』)
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*堯龍()<>:(『要覧』)
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*宣海()<>:(『要覧』)
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*堯誉()<>:(『要覧』)
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*堯啓()<>:(『要覧』)
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(堯海から堯啓まで『修験道聖護院史要覧』)
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[[category:岡山県]]

2020年8月16日 (日) 時点における最新版

五流報恩院は岡山県倉敷市林にあった修験道寺院。五流尊瀧院関連旧跡

大宝2年創建。開山は芳元。中興は澄有。

組織

歴代住職

  • 芳元()<>:開山。役小角の高弟。五鬼の一人。五流尊瀧院5世。
  • 恵覚()<>:1092年(寛治6年)、白河法皇吉野熊野先達を務めたという(『新熊野権現御伝記』。『長床縁由』では熊野は1118年(元永1年)。)。1118年(元永1年)の入峰の時、白河法皇から僧官補任の永宣旨を与えられたという(『長床縁由』)。慈覚、慧学とも(『長床縁由』)。
  • 定慶()<>:1160年(永暦1年)法橋。1171年(承安1年)晦日峰入で所司を務めた。(『山伏帳』)
  • 澄有()<>:中興。道乗の子。頼仁親王の孫。
  • 覚南?()<>:『熊野長床宿老五流』に名がある。
  • 宣光()<>:五流尊瀧院13世の隆宴の第二子。
  • 隆証()<>:1687年(貞享4年)、道祐法親王の入峰に従う(『備陽記』『吉備温故秘録』)
  • 宣養()<>:1714年、宿老として入峰(岡山藩山伏留)。
  • 宣誉()<>:宣誉の名がある1791年(寛政3年)の山上講の講員名簿が残る。
  • 堯海()<>:(『要覧』)
  • 堯龍()<>:(『要覧』)
  • 宣海()<>:(『要覧』)
  • 堯誉()<>:(『要覧』)
  • 堯啓()<>:(『要覧』)
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