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五流尊瀧院
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
五流尊瀧院
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'''五流尊瀧院'''(ごりゅうそんりゅういん)は岡山県倉敷市にある[[修験道]][[本山派]]の[[修験道の本山寺院|本山寺院]]。[[修験道本庁]]の総本山。[[倉敷・熊野神社]]に長床衆として奉仕した。[[五流尊瀧院関連旧跡]]。 ==歴史== [[役小角]]が[[伊豆大島]]に配流された時、五人の弟子は難を避けるために[[熊野権現]]の神体を奉じて児島に下ったのが起源とされる。 平安時代には[[熊野本宮大社]]の長床を拠点とした「長床衆」として奉仕。 承久の乱で児島に流された[[頼仁親王]]が復興し、その末裔が代々継承し、現在に至るという。 実際には長床衆が熊野権現神領の児島に置いた荘園組織を担った山伏が起源とみられる。 児島荘は熊野本宮大社の神領の中でも最大規模で、長床衆がその権利を持っていた。瀬戸内海と熊野は海路を通じて交流が盛んだったと考えられている。近くの清田八幡宮に残る棟札によると児島が長床衆の所領になったのは1205年と記されている。 ここに[[倉敷・熊野神社]]を創建。 尊瀧院以下5寺を建てて拠点としたため、'''五流'''と呼ばれた。紀伊熊野と往復しながら活動したとみられる。 京都の皇族公卿が熊野詣をする際に先達を務め、また京都では公卿との親交があり、'''公卿山伏'''と呼ばれた。'''児島五流'''、'''五流修験'''、'''児島修験'''、'''児島山伏'''などとも呼ばれる。 [[熊野信仰]]の興隆の担い手となった[[天台宗寺門派]]に属した。しかし南北朝時代には[[東寺]]の御影供に出仕する[[真言宗]]両属の僧侶もいたことが知られる。 京都では[[新熊野神社]]を拠点としていたという。 [[聖護院門跡]]の傘下に入ったの1493年(明応2年)のことで、全国各地を巡教していた門主の道興がこの年、讃岐や児島を訪れている(『後法興院記』)。同年4月には児島山伏2人を引き連れて京都に戻ってきた。 1524年には門主道増の初の大峰入峰で報恩院が「二宿」を務めた。以後も法親王の入峰に児島山伏が役を務めており、本山派教団の中で高い地位を占めたことが分かる。 五流五院が揃って名前が見えるのは中世にはないという。 ==画像== <gallery widths="300" heights="300" perrow="3"> ファイル:五流尊瀧院・参道-01.jpeg| ファイル:五流尊瀧院・参道-02.jpeg| ファイル:五流尊瀧院・参道-03.jpeg| ファイル:五流尊瀧院・本殿周辺-01.jpeg| ファイル:五流尊瀧院・本殿周辺-02.jpeg| ファイル:五流尊瀧院・本殿周辺-03.jpeg| ファイル:五流尊瀧院・本殿周辺-04.jpeg| ファイル:五流尊瀧院・本殿周辺-05.jpeg| ファイル:五流尊瀧院・本殿周辺-06.jpeg| ファイル:五流尊瀧院・本殿周辺-07.jpeg| ファイル:五流尊瀧院・本殿周辺-08.jpeg| ファイル:五流尊瀧院・本殿周辺-09.jpeg| ファイル:五流尊瀧院・本殿周辺-10.jpeg| </gallery> <gallery widths="300" heights="300" perrow="3"> file:五流尊瀧院・三重塔周辺-09.jpeg| file:五流尊瀧院・三重塔周辺-08.jpeg| file:五流尊瀧院・三重塔周辺-07.jpeg| file:五流尊瀧院・三重塔周辺-06.jpeg| file:五流尊瀧院・三重塔周辺-05.jpeg| file:五流尊瀧院・三重塔周辺-04.jpeg| file:五流尊瀧院・三重塔周辺-03.jpeg| file:五流尊瀧院・三重塔周辺-02.jpeg| file:五流尊瀧院・三重塔周辺-01.jpeg| </gallery> == 組織 == ===初期の住職=== 歴代の世数と名は『五流尊瀧院世系譜』による。『長床縁由興廃伝』に事績の伝承がある。 *1義学:[[役小角]]の高弟。[[五鬼]]の一人。五流尊瀧院開山。 *2義玄:役小角の高弟。五鬼の一人。[[五流太法院]]開山。年代が合わないが907年(延喜7年)宇多上皇の熊野先達、905年(延喜5年)の大峰山先達を務めたという(『新熊野権現御伝記』)。 *3義真:役小角の高弟。五鬼の一人。[[五流建徳院]]開山。816年(弘仁7年)、820年(弘仁11年)、822年(弘仁13年)の3回にわたり、平城上皇の熊野行幸の先達を務めたという(『長床縁由』)。 *4寿元:役小角の高弟。五鬼の一人。[[五流伝法院]]開山。 *5芳元:役小角の高弟。五鬼の一人。[[五流報恩院]]開山。 *6神鏡: *7義天:神鏡の子。肥後出身。幼少期、多病のうえに愚鈍であったため福南山で父の命で虚空蔵求聞持法を行った。すると成満した858年(天安2年)に山上に3つの星が現れ、虚空蔵菩薩、愛染明王、摩利支天となった。義天は神秘を感じ、この3尊を福南山三体妙見として崇め、児島長床衆の守護神としたという。清和天皇の病気を直して肥後国に八ケ荘を賜ったという。また宇多上皇の905年(延喜5年)大峰行幸の先達を務めた。さらに907年(延喜7年)熊野行幸の先達も務めこの時、五流一山の僧官補任を許されたという。(『長床縁由』) *8雲照:978年(天元1年)、清田八幡宮を熊野権現の御旅所とし、祭祀次第を定めたという。(『長床縁由』) *9元具:雲照の子。父から伝えられた秘法を[[聖護院]][[増誉]]に授けたという(死去年と年代が合わない)。永観年間(983-985)に死去。以後、しばらく荒廃したという。(『長床縁由』) *行宗:[[熊野本宮大社]]の長床執行を務めたという。1170年(嘉応2年)長床執行。1187年(文治3年)、後白河法皇の病気平癒の功績により少僧都になったという。(『両峰問答秘抄』) ===中興以降の住職=== 世数及び人名は宮家準2013『修験道と児島五流』掲載の一覧を基準とした。近現代は藤井義英2017『公卿山伏をささえた人々 児島五流の戦後を訪ねて』アジア仏教徒協会に基づく。略歴は「備前児島尊瀧院系図」[https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100247955/viewer/1]や『修験道聖護院史要覧』などを参考にした。 {|class="wikitable" |+ !style="width:5%;"|世数 !style="width:10%;"|名 !style="width:10%;"|生没年 !style="width:10%;"|在職年 !style="width:40%;"|略歴 |- |1 |[[頼仁親王]] |1201-1264 | |児島修験の中興。[[後鳥羽天皇]]皇子。1201年(建仁1年)生。承久の乱に関わった罪で備前児島に流され、五流尊瀧院を中興。1264年(文永1年)死去。寺伝では享年を69歳とする。皇室治定の[[頼仁親王墓]]がある。冷泉宮、児島宮と号す。 |- |1 |覚仁法親王 |1198-1266 | |後鳥羽天皇皇子。[[熊野三山検校]]。[[新熊野検校]]。1198年(建久9年)生。[[後嵯峨上皇]]の熊野御幸の先達を務めた。五流尊瀧院を中興。中興1世を覚仁法親王とする記述も多い。1266年(文永3年)死去。墓を[[桜井塚]](治定外)という。 |- |2 |道乗 |1215-1273 | |頼仁親王の王子。1215年(建保3年)生。[[東寺]]長者。法務。1273年(文永10年)死去。小島宮と号す。子に澄意、頼宴、親兼(観乗院、のち[[五流伝法院[[)、隆禅([[五流太法院]])、澄有(隆有とも。[[五流報恩院]])、昌範([[五流建徳院]])の6人がおり、五流各院を継いだという。 |- |3 |澄意 |1250-1286 |?-1286 |道乗の子。1250年(建長2年)生。「官領庄務」となる。1284年(弘安7年)清楽寺を創建し、社僧に加える。1286年(弘安9年)4月11日死去。37歳。(「備前児島尊瀧院系図」) |- |4 |頼宴 |1272-1325 |1286-1323 |道乗の子。1272年(文永9年)生。1323年(元亨3年)隠退。1325年(正中2年)11月22日死去。梵華院と号す。[[児島高徳]]の父と伝わる。(「系図」) |- |5 |重深(宴深?) |1301-1334 |1323-1334 |頼宴の子。児島高徳の兄という。1301年(正安3年)生。1323年(元亨3年)、23歳で院主となる。1334年(建武1年)1月18日死去。34歳。(「系図」) |- |6 |回深 |1316-1340 |1334-1340 |重深の子。1316年(正和5年)生。1340年(興国1年/暦応3年)3月14日死去。25歳。(「系図」) |- |7 |頼深 |1328-1345 |1340-1345 |重深の子。回深の同母弟。1328年(嘉暦3年)生。1345年(興国6年/貞和1年)5月3日死去。(「系図」) |- |8 |頼瑜 |1333-1346 |1345-1346 |重深の子。回深、頼深の同母弟。1333年(元弘3年/正慶2年)生。1346年(正平1年/貞和2年)12月17日死去。14歳。(「系図」) |- |9 |湛深 |1337-1425 |1346-1386 |回深の子。1337年(延元2年)生。1347年(正平2年/貞和3年)、五流修験の霞を諸国に分配し、豊前、豊後、肥前、肥後、筑前、筑後、隠岐、石見、備中の9国?を五流尊瀧院の霞とした。1357年(正平12年/延文2年)宿老。1386年(元中3年/至徳3年)「官領庄務院主職」を譲る。京都洛北に住み長流寺と称したという。1399年(応永6年)五流尊瀧院に戻り一院を建てる。1425年(応永32年)11月27日死去。89歳。最勝光院と号す。(「系図」) |- |10 |玄道 |1359-1391 |1386-1391 |湛深の子。母は児島高徳の娘という。1359年(正平14年/延文4年)生。1381年(永徳1年)、21歳で宿老となる。1386年(元中3年/至徳3年)継承。1391年(元中8年/明徳2年)2月27日死去。33歳。(「系図」) |- |11 |乗玄 |1381-1393 |1391-1393 |玄道の子。1381年(弘和1年/永徳1年)生。1393年(明徳4年)12月11日死去。13歳。(「系図」) |- |12 |乗宴 |1388-1399 |1393-1399 |玄道の子。1388年(元中5年/嘉慶2年)生。1399年(応永6年)2月28日死去。12歳。(「系図」) |- |13 |隆宴 |1387-1446 |1399-1446 |湛深の子。1387年(元中4年/嘉慶1年)生。1416年(応永23年)宿老。1427年(応永34年)「官領庄務」。1446年(文安3年)6月1日死去。59歳。(「系図」) |- |14 |隆以 |1411-1457 |1446-1457 |隆宴の子。1411年(応永18年)生。1441年(嘉吉1年)宿老。1451年(宝徳3年)「官領庄務」。1457年(長禄1年)12月29日死去。47歳。(「系図」) |- |15 |道宣 |1444-1461 |1457-1461 |隆以の子。1444年(文安1年)生。1461年(寛正2年)9月15日、京都で死去。18歳。(「系図」) |- |16 |宴順 |1447-1465 |1461-1466 |隆以の子。1447年(文安4年)生。1465年(寛正6年)10月13日死去。21歳。(「系図」) |- |17 |宣重(宣宴?) |1418-1490 |1466-1478 |隆宴の子。1418年(応永25年)生。1430年(永享2年)、[[五流太法院]]で得度。1442年(嘉吉2年)、紀伊熊野の「御庵室御留守居職」([[堀河上皇]]、[[白河上皇]]が建てたもので「後世修験道先達以当其〓勅令守此室聞三山之事」という)、「宿老法印大僧都」となり、25年間熊野に滞在。1466年(文正1年)、五流尊瀧院を継承し、太法院住職を長子隆誉に継がせた。1471年(文明3年)「官領庄務」。1478年(文明10年)隠退して長流寺と号す。1490年(延徳2年)7月11日死去。73歳。(「系図」) |- |18 |宣親(宴親?) |1443-1483 |1478-1483 |宣重の子。1443年(嘉吉3年)生。1454年(享徳3年)紀伊熊野で得度。1472年(文明4年)宿老。1478年(文明10年)五流尊瀧院を継承し、「官領庄務」。1483年(文明15年)12月1日死去。41歳。(「系図」) |- |19 |昌順 |1462-1488 |1483-1488 |宣親の子。1462年(寛正3年)生。1483年(文明15年)宿老。五流尊瀧院を継承。1488年(長享2年)4月12日死去。27歳。 |- |20 |回算 |1486-1490 |1488-1490 |昌順の子。1486年(文明18年)生。3歳で継承。1490年(延徳2年)1月29日死去。5歳。(「系図」) |- |21 |玄応 |1472-1552 |1490-1534 |宣親の子。1472年(文明4年)生。1500年(明応9年)宿老。「官領庄務」。1534年(天文3年)隠退して智厳院と号す。1552年(天文21年)11月29日死去。(「系図」) |- |22 |昌宴 |1492-1569 |1534-1556 |玄応の子。1492年(明応1年)生。1521年(大永1年)宿老。1534年(天文3年)継承。「官領庄務」。1556年(弘治2年)隠退して瑞雲院と号す。1569年(永禄12年)8月26日、長流寺で死去。78歳。(「系図」) |- |23 |諦宴 |1516-1564 |1556-1564 |昌宴の子。1516年(永正13年)生。1536年(天文5年)宿老。1556年(弘治2年)継承。「官領庄務」。1564年(永禄7年)5月5日死去。49歳。(「系図」) |- |24 |澄順 |1562-1613 |1564-1613 |諦宴の子。1562年(永禄5年)生。1591年(天正19年)長床宿老。1613年(慶長18年)6月5日死去。52歳。(「系図」) |- |25 |玄宴 |1579-1653 |1613-1630 |澄順の子。1579年(天正7年)生。1613年(慶長18年)長床宿老。1630年(寛永7年)、養子の澄玄に譲り、徳園院と号す。1653年(承応2年)7月13日死去。75歳。(「系図」) |- |26 |澄玄 |1615-1664 |1630-1658 |22世昌宴の曽孫。玄宴の養子。昌宴の第二子が伝法院玄寿(1520-1584)で、その第七子が宝良院玄秀(1568-1636)で、澄玄はその第一子。1615年(元和1年)生。11歳で玄宴の養子となる。1627年(寛永4年)得度。1630年(寛永7年)五流尊瀧院を継承し、長床宿老。1658年(万治1年)隠退して清浄院と号す。1664年(寛文4年)10月25日死去。74歳。(「系図」) |- |27 |澄宴 |1636-1691 |1658-1691 |澄玄の子。1636年(寛永13年)生。1658年(万治1年)継承。1662年(寛文2年)長床宿老。1691年(元禄4年)7月15日死去。56歳。蓮池院と号す。(「系図」) |- |28 |澄与 |1674-1697 |1691-1697 |澄宴の子。1674年(延宝2年)生。1691年(元禄4年)継承。1697年(元禄10年)閏2月28日死去。24歳。(「系図」) |- |29 |玄興 |1689-1756 |1697-1749 |澄宴の子。1689年(元禄2年)生。1697年(元禄10年)9歳で相続。1698年(元禄11年)1月13日得度。仮名を秀賢という。1699年(元禄12年)[[聖護院]]による[[箕面山]]での[[役小角]]1000年忌に出仕し、入峰。1700年(元禄13年)8月、秀賢の名で入峰二度(『修験道聖護院史要覧』)。1706年(宝永3年)11月、玄興に改名。字は梵鳳。1710年(宝永7年)玄興の名で新先達、入峰四度(要覧)。1713年(正徳3年)7月、長床宿老。木蘭色衣を賜う。この年、宿老の袈裟房色を改定。1730年(享保15年)宿老の袈裟房色を改定。1731年(享保16年)6月3日、上洛して伊賀を新たに加えて伊賀国と備中松山を霞として認められる(豊臣秀吉の中国攻めで肥後と児島の「領地」を失い、霞として残るのは備中と塩飽島だったが、宝永年間に塩飽島勝知院に長床[[讃岐・吉祥院|吉祥院]]の名跡を与え、備中と塩飽島を霞として分けたことから備中松山のみになってしまったという)。1739年(元文4年)9月、上洛して[[聖護院]]から五流公卿僧官と五流補任の詳細について下問を受ける。同月15日、回答書が叡聞となり「如古来無改替」となる(「長床僧官次第並従五流免許補任之記」が別に記録があるという)。同年、[[薬師如来]]像と[[役行者]]像の大坂出開帳の申請のため江戸に下向し幕府の許可を得る。翌年、大坂北野自香寺で出開帳。1741年(寛保1年)岡山清光院で出開帳。同年、本堂造営のため備前国と備中国の勧進許可。元文年間から同年まで[[当山派]]をを離れ[[本山派]]に帰す。1742年(寛保2年)、長床宿老と左右先達で入峰の順序を争う。1748年(寛延1年)、尊瀧院、「御庵室先達長床宿老」の肩書を聖護院に願い出て許される。1749年(寛延2年)隠退して往生院と称す(『修験道聖護院史要覧』)。1756年(宝暦6年)9月29日死去。67歳。(「系図」) |- | |(玄尊) |生没年不詳 | |弟子。1736年(元文1年)入峰初度(「系図」にも同様の記述)。1746年(延享3年)7月25日宿老。(『修験道聖護院史要覧』) |- |30 |覚道 |1728-1793 |1749-1760 |玄興の子。1728年(享保13年)生。1746年(延享3年)長床宿老。1749年(寛延2年)継承。1752年(宝暦2年)入峰脇宿五度(『修験道聖護院史要覧』)。1760年(宝暦10年)隠居して紫雲院と号す。1793年(寛政5年)死去。67歳。(「系図」) |- |31 |玄鑑 |1739-1806 |1760-1806 |覚道の子。1739年(元文4年)生。1760年(宝暦10年)継承。1763年(宝暦13年)8月17日、宿老となる(『要覧』)。1779年(安永8年)2月、庵室の修理に際して「柴庵室」の額を与えられる(『要覧』)。1806年(文化3年)3月死去。68歳。(「系図」) |- |32 |抽興 |1777-1852 |1806-1848 |玄鑑の子。1777年(安永6年)生。15歳で得度。1802年(享和2年)8月26日、宿老(『要覧』)。1806年(文化3年)継承。1848年(嘉永1年)2月、隠居して清閑院と号す。1839年(天保10年)10月13日、[[聖護院門跡]]雄仁親王入峰の靡先達を務めた褒賞として「一世准院室」となる(『要覧』)。1852年(嘉永5年)12月18日死去。76歳。(「系図」) |- |33 |元興 |1811-1862 |1848-1862 |抽興の子。1811年(文化8年)生。1814年(文化11年)入峰初度(『要覧』)。11歳で得度。1827年(文政10年)宿老(『要覧』)。1848年(嘉永1年)継承。峰中出世職。大僧都。1849年(嘉永2年)9月1日、院室(『要覧』)。1862年(文久2年)3月21日死去。57歳。(「系図」) |- |34 |隆興 | |1863-? |1852年(嘉永5年)8月、入峰初度。1863年(文久3年)3月5日住職。1865年(慶応1年)7月25日宿老。1867年(慶応3年)以降に[[讃岐・吉祥院|吉祥院]]を兼務。1870年(明治3年)[[聖護院]]法務所副司裁。修験道廃止に際し、修験道の神道化を試みたが果たせなかった。(『修験道聖護院史要覧』ほか) |- |35 |宮家晋 |?-1907 | |隆興の子。1907年(明治40年)死去。42歳。 |- |36 |宮家教誉 |1898-1991 |1924-1991 |[[修験道本庁]]初代管長。1898年(明治31年)生。晋の甥。初名は龍興。一時期は東京で暮らしたが1923年(大正12年)の関東大震災の被災を機に岡山に帰郷。1924年(大正13年)に住職就任。旧末流の結集を密かに進め、戦後、[[修験道本庁]]を設立。1991年(平成3年)10月21日死去。94歳。 |- | |宮家道玄 |1922-2011 |1992-2011 |修験道本庁2代管長。1922年(大正11年)生。少年時代は満洲に住む。上海東亜同文書院大学に入学するがすぐに学徒出陣。1948年(昭和23年)京都大学卒。1949年(昭和24年)教誉に弟子入り。教誉の娘と結婚して、三宅信徳と名乗り、のち宮家信徳と名乗る。宗務総長を経て、1992年(平成4年)管長就任。1994年(平成6年)、中国[[泰山]]で入峰修行。1996年(平成8年)中国長白山(北朝鮮・[[白頭山]])で入峰修行。1998年(平成10年)ギリシャ・[[アトス山]]を遥拝。男系相続の原則から歴代に数えられていないようだ。2011年(平成23年)4月14日死去。 |- |37 |宮家堯仁 |1933- |2012- |修験道本庁3代管長。修験道研究の第一人者で[[宗教学]]者の宮家準として知られる。東京都出身。1933年(昭和8年)生。教誉の兄の子。母は[[法然]]の母の生家とされる[[立石家]]。教誉の養子となる。[[慶応義塾大学]]卒。[[東京大学]]大学院で宗教学者岸本英夫に師事。博士課程修了。慶応義塾大学教授、[[国学院大学]]教授を歴任。[[日本宗教学会]]会長。[[日本山岳修験学会]]会長。2012年(平成24年)継承。著書多数。 |} ==資料== [[新熊野山#資料]]を参照。 [[category:岡山県]]
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