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京都・世尊寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
京都・世尊寺
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'''世尊寺'''(せそんじ)は、[[平安京]]の一条の北にあった[[古代寺院]]。現在の上京区笹屋町通桝屋町、あるいは栄町に当たる。本尊は[[大日如来]]と思われる。西に[[尊重寺]]、東に[[京都・実相寺|実相寺]]、[[紫野・妙覚寺|妙覚寺]]があった。(参考:同名寺院[[世尊寺]]) == 歴史 == この地には元来、天皇の食事に使う野菜や果実を栽培する菜園の京北園があった。その後も桃の木などが残ったことから桃園と呼ばれ、桃園邸(桃園第、桃園宮)として[[皇族]]や貴族が住んだ。安和元年(968)には[[花山天皇]]が桃園邸で生まれた(『帝王編年記』には世尊寺で生まれたとあるが創建前のことなので桃園邸を指すとみられる)。生母の藤原懐子([[冷泉天皇]]女御)の父の藤原伊尹が桃園邸の主。そして伊尹の孫で懐子の甥にあたる藤原行成に桃園邸が継承された。 藤原行成が長保3年(1001)、寺院として寄進し、世尊寺を創建した。金色大日如来・[[普賢菩薩]]・[[十一面観音]]・彩色[[不動尊]]・[[降三世明王]]を祀った。落慶法要には天台座主覚慶を始め、100人の僧侶が出仕したという。寛弘3年(1006)には[[阿弥陀如来]]を祀った。要人の参詣もあり、[[藤原道長]]は寛弘元年(1004)、寛仁2年(1018)など数回訪れている。保元2年(1157)に[[後白河上皇]]が行幸したとあるが(園太暦)、その後の記録には世尊寺のことは現れない。行成の子孫は'''世尊寺家'''を名乗り、その書風は'''世尊寺流'''と呼ばれる。 (国史大辞典、日本歴史地名大系) [[category:京都府]]
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