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京都・光福寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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[[ファイル:光福寺-02.jpeg|500px|thumb|門前に建つ「六斎念仏総本寺」碑]] | [[ファイル:光福寺-02.jpeg|500px|thumb|門前に建つ「六斎念仏総本寺」碑]] | ||
- | '''光福寺'''(こうふくじ)は、京都府京都市左京区田中上柳町にある[[浄土宗]]寺院。[[空也堂]]と共に[[六斎念仏]]の本山だった。京都近辺の六斎念仏講を配下に置いた。江戸時代、六斎念仏が芸能化していく中で、光福寺は念仏としての行事を守ろうとしたため、衰退したという。'''斎教院'''、'''安養殿'''。山号は干菜山。通称は'''干菜寺'''(ほしなでら)。[[浄土宗知恩院派]]。(参考:同名寺院[[光福寺]]) | + | '''光福寺'''(こうふくじ)は、京都府京都市左京区田中上柳町にある[[浄土宗]]寺院。[[空也堂]]と共に[[六斎念仏]]の本山だった。京都近辺の六斎念仏講を配下に置いた。江戸時代、六斎念仏が芸能化していく中で、光福寺は念仏としての行事を守ろうとしたため、衰退したという。'''斎教院'''、'''安養殿'''。山号は干菜山。通称は'''干菜寺'''、'''乾菜寺'''(ほしなでら)。[[浄土宗知恩院派]]。(参考:同名寺院[[光福寺]]) |
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寺伝によると、元は山城国乙訓郡安養谷にあった。 | 寺伝によると、元は山城国乙訓郡安養谷にあった。 | ||
- | + | 証空の3世法孫の道空が中興した。道空は寛元年間、春日烏丸に常行院を建て六斎念仏を始めたという。 | |
天文年間、当時の住職の信光が、斎教院を開き、それを1582年、宗心が現在地に移しさらに丹波にあった武蔵寺を合併させて、斎教院武蔵寺と称したという。 | 天文年間、当時の住職の信光が、斎教院を開き、それを1582年、宗心が現在地に移しさらに丹波にあった武蔵寺を合併させて、斎教院武蔵寺と称したという。 | ||
- | + | 聚楽第時代の豊臣秀吉が鷹狩に付近に来た時に寺に滞在。しかし貧しい地であるため他に献上する物がなく、干し菜を出したところ、その誠意に感じるところがあり、寺産(寺領?)を下した。よって干菜寺と呼ばれるようになったという。秀吉は光福寺の名を与えた。六斎念仏の総本山に定められたのも秀吉の時代だという。 | |
- | + | 1637年、知恩院末となった。(『日本歴史地名大系』) | |
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2022年8月13日 (土) 時点における版
光福寺(こうふくじ)は、京都府京都市左京区田中上柳町にある浄土宗寺院。空也堂と共に六斎念仏の本山だった。京都近辺の六斎念仏講を配下に置いた。江戸時代、六斎念仏が芸能化していく中で、光福寺は念仏としての行事を守ろうとしたため、衰退したという。斎教院、安養殿。山号は干菜山。通称は干菜寺、乾菜寺(ほしなでら)。浄土宗知恩院派。(参考:同名寺院光福寺)
寺伝によると、元は山城国乙訓郡安養谷にあった。 証空の3世法孫の道空が中興した。道空は寛元年間、春日烏丸に常行院を建て六斎念仏を始めたという。 天文年間、当時の住職の信光が、斎教院を開き、それを1582年、宗心が現在地に移しさらに丹波にあった武蔵寺を合併させて、斎教院武蔵寺と称したという。 聚楽第時代の豊臣秀吉が鷹狩に付近に来た時に寺に滞在。しかし貧しい地であるため他に献上する物がなく、干し菜を出したところ、その誠意に感じるところがあり、寺産(寺領?)を下した。よって干菜寺と呼ばれるようになったという。秀吉は光福寺の名を与えた。六斎念仏の総本山に定められたのも秀吉の時代だという。 1637年、知恩院末となった。(『日本歴史地名大系』)