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京都・方広寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

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方広寺(ほうこうじ)は京都府京都市東山区にある豊臣家ゆかりの天台宗寺院。豊臣秀吉が創建した大仏寺院善光寺遷座旧跡寺院。天台宗延暦寺派。 (参考:同名寺院方広寺


目次

歴史

豊国神社(南)と方広寺(北)(国土地理院空中写真より)
妙法院・豊臣秀吉墓・智積院・方広寺・豊国神社・京都国立博物館・三十三間堂(国土地理院空中写真より)

1586年(天正14年)4月、豊臣秀吉は大仏造立を発願。 まもなく着工したが、8月には中断。 1588年(天正16年)再開。 1591年(天正19年)5月20日、立柱。 この頃から木食応其が造営に関与。 1593年(文禄2年)9月24日、棟上式。 1595年(文禄4年)9月21日、聖護院門跡道澄が住職に任命された。 1万石寄進。 9月25日、父母の供養を各宗派に命じて千僧を出仕させた。

同年閏7月13日大地震。本尊・築地が大破。 開眼法要は延期された。 9月7日、甲斐の善光寺如来を迎えるように秀吉が命じた。

1597年(慶長2年)7月18日、善光寺如来が到着。 翌年7月に、開眼法要は8月22日と決まったが、 8月17日に信濃に還座することになった。 病床に臥せった秀吉に夢告があったためという。 8月18日秀吉は死去。死は伏せられ、 8月22日、本尊のない大仏殿で開眼法要が行われた。

翌年3月から秀頼が工事を再開したが、

1602年(慶長7年)12月4日、鋳造中の大仏から出火。 1608年(慶長13年)末3度目の造立を再開。 1611年(慶長16年)6月12日、地鎮祭 8月22日立柱 翌年閏10月、本尊に金箔が貼られた。 1614年(慶長19年)4月、梵鐘完成 5月に開眼法要は8月3日と決まった。しかし7月26日になって徳川家康は鐘銘を問題視。

名称は盧舎那仏(大仏)の出典である『大方広仏華厳経』から取られたものと思われる。 豊臣秀吉により、焼失した大仏殿大仏の代わりに、慶長2年、善光寺如来甲斐善光寺(あるいは鴨江寺)より方広寺の本尊として迎えられた。しかし、善光寺如来の祟りを恐れ、翌年、長野に戻された。



本坊として照高院門跡が創建された。豊臣家滅亡後は妙法院門跡の管轄下に入った。 1662年(寛文2年)の地震で被害。1665年(寛文5年)に木像で再造された。 1798年(寛政10年)落雷の大火で焼失。 1973年(昭和48年)、大仏殿焼失。

組織

歴代住職(近世)

豊臣家滅亡後の1615年(元和1年)から妙法院門跡が兼務。

  • 1道澄(1544-1608)<1595->: 照高院1世。(略歴は照高院宮#組織を参照)
  • 2興意法親王(道勝法親王)(1576-1620)<1601->:照高院宮初代。聖護院門跡。園城寺長吏。1601年(慶長6年)方広寺別当。1615年(元和1年)豊臣家滅亡で追放された。江戸で客死。(略歴は照高院宮#組織を参照)
  • 3常胤法親王(1548-1621)<>:天台座主。妙法院門跡門主33世。1615年(元和1年)妙法院門跡が兼務。(略歴は妙法院門跡#組織を参照)

歴代住職(明治以降)

  • 村田泰良()<>:村田寂順の実弟。
  • 木下寂善(1876-1942)<1932->:二尊院住職。四天王寺住職。(略歴は四天王寺#組織を参照)
  • 木下寂俊(1947-)<1970->:天台宗宗務総長。1947年(昭和22年)生。龍谷大学文学部仏教学科卒業。1970年(昭和45年)方広寺住職。1997年(平成9年)妙法院門跡執事長。2013年(平成25年)、天台宗宗務総長。
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