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京都・興正寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
京都・興正寺
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'''興正寺'''(こうしょうじ)は、京都府京都市下京区にある[[浄土真宗]]の[[浄土真宗の本山寺院|本山寺院]]。[[門跡寺院]]。[[西本願寺]]の隣にある。文明14年(1482)、[[仏光寺]]14世蓮教(経豪)が仏光寺を捨て多くの末寺と共に[[蓮如]]に帰参して山科に新寺を創建して成立。本願寺と共に大坂などを転々とした。端坊、東坊、伊勢阿弥陀寺、堺性応寺を末寺頭とした。長年、西本願寺の脇門跡だったが明治に独立した。[[真宗興正派]]の本山。山号は円頓山。'''花園院'''。[[真宗興正派の別院寺院]]も参照。(参考:同名寺院[[興正寺]]) [[Category:京都府]] ==歴史== 天文元年(1532)、本願寺が山科から大坂石山に移転すると興正寺も大坂天満に移転(第一次・[[天満興正寺]])。 蓮秀が本願寺と日蓮宗の紛争を解決。天文4年(1535)本願寺一家衆に加えられた。 15年、大坂本願寺の中に移転。 永禄10年(1567)、本願寺顕如の次男顕尊が住職に入る。 永禄12年(1569)、本願寺の脇門跡となる。 天正8年(1580)、本願寺、大坂退去。 天正13年(1585)、本願寺が天満に移ると、再び天満の旧地に移る(第二次・天満興正寺)。 天正19年(1591)、本願寺が京都の現在地に移ると、興正寺もその南隣に移った。天満には別院が残された([[興正寺大阪別院]])。 本願寺が東西に分裂すると[[西本願寺]]に従った。 江戸時代に入ると、独立運動が盛んになり、たびたび請願している。特に承応2年(1653)の事件は激しく、幕府の裁決に至り、准秀らは処罰された。 宝暦4年(1754)、22代寂永は独自に朝廷から大僧正に任じられた。 本堂造営に際し本山を名乗ろうとしたが、文化8年(1811)、幕府は興正寺は西本願寺の末寺と確認した。 明治9年(1876)9月、本願寺末から離脱して興正派を設立。 明治35(1902)、火災で焼失。明治45年、再建されたのが現在の伽藍。 ==組織== ===歴代住職=== *1:[[親鸞]] *2:[[真仏]] *3:源海(光信) *4:了海(願明) *5:誓海(願念) *6:明光(了延) *7:了源(空性) *8:源鸞(了英) *9:了明(順子):尼僧 *10:唯了(源讃) *11:尭経(性曇) *12:経実(性善) *13:尭仁(光教) *14:経豪(蓮教):事実上の開山。 *15:経照(蓮秀):本願寺証如を助け、本願寺一家衆に加えられた。 *16:経尭(証秀) *17:佐超(顕尊):本願寺顕如の次男。 *18:照玄(准尊) *19:昭超(准秀) *20:円超(良尊) *21:由常(寂岷) *22:常勤(寂永) *23:常順(寂聴) *24:闡揚(法高) *25:華園尭揚(真恕) *26:華園摂生(本誓) *27:華園摂信(本寂):鷹司政通次男。[[仏光寺]]の渋谷教応の兄 *28:華園沢称(本常) *29:華園真淳(本昭) *30:華園真準(本賢) *31:華園真暢(本顕) (『日本仏家人名辞書』、望月『仏教大辞典 付録』など)
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