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京都・興正寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

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蓮秀が本願寺と日蓮宗の紛争を解決。本願寺一家衆に加えられた。
蓮秀が本願寺と日蓮宗の紛争を解決。本願寺一家衆に加えられた。
永禄12年(1568)、本願寺の脇門跡となる。
永禄12年(1568)、本願寺の脇門跡となる。
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江戸時代に入ると、独立運動が盛んになり、たびたび請願している。特に承応2年(1653)の事件は激しく、幕府の裁決に至り、准秀らは処罰された。
明治9年(1876)9月、本願寺末から離脱して興正派を設立。
明治9年(1876)9月、本願寺末から離脱して興正派を設立。

2017年4月1日 (土) 時点における版

興正寺(こうしょうじ)は、京都府京都市下京区にある浄土真宗本山寺院西本願寺の隣にある。文明14年(1482)、仏光寺蓮教(経豪)が仏光寺を捨て多くの末寺と共に蓮如に帰参して山科に新寺を創建して成立。本願寺と共に大坂などを転々とした。長年、西本願寺の脇門跡だったが明治に独立した。真宗興正派の本山。山号は円頓山。真宗興正派の別院寺院も参照。(参考:同名寺院興正寺

歴史

天文元年(1532)、本願寺が大坂に移転すると興正寺も大坂に移転。 蓮秀が本願寺と日蓮宗の紛争を解決。本願寺一家衆に加えられた。 永禄12年(1568)、本願寺の脇門跡となる。 江戸時代に入ると、独立運動が盛んになり、たびたび請願している。特に承応2年(1653)の事件は激しく、幕府の裁決に至り、准秀らは処罰された。 明治9年(1876)9月、本願寺末から離脱して興正派を設立。

組織

歴代住職

  • 1:親鸞
  • 2:真仏
  • 3:源海(光信)
  • 4:了海(願明)
  • 5:誓海(願念)
  • 6:明光(了延)
  • 7:了源(空性)
  • 8:源鸞(了英)
  • 9:了明(順子):尼僧
  • 10:唯了(源讃)
  • 11:尭経(性曇)
  • 12:経実(性善)
  • 13:尭仁(光教)
  • 14:経豪(蓮教):事実上の開山。
  • 15:経照(蓮秀):本願寺証如を助け、本願寺一家衆に加えられた。
  • 16:経尭(証秀)
  • 17:佐超(顕尊):本願寺顕如の次男。
  • 18:照玄(准尊)
  • 19:昭超(准秀)
  • 20:円超(良尊)
  • 21:由常(寂岷)
  • 22:常勤(寂永)
  • 23:常順(寂聴)
  • 24:闡揚(法高)
  • 25:華園尭揚(真恕)
  • 26:華園摂生(本誓)
  • 27:華園摂信(本寂):鷹司政通次男。仏光寺の渋谷教応の兄
  • 28:華園沢称(本常)
  • 29:華園真淳(本昭)
  • 30:華園真準(本賢)
  • 31:華園真暢(本顕)

(『日本仏家人名辞書』、望月『仏教大辞典 付録』など)

http://shinden.boo.jp/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E3%83%BB%E8%88%88%E6%AD%A3%E5%AF%BA」より作成

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