ようこそ『神殿大観』へ。ただいま試験運用中です。

京都・興正寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

(版間での差分)
移動: 案内, 検索
(間の42版分が非表示)
1行: 1行:
 +
[[file:Kokudo0008.jpg|300px|thumb|興正寺境内(国土地理院空中写真より)]]
 +
'''興正寺'''(こうしょうじ)は、京都府京都市下京区にある[[浄土真宗]]の[[浄土真宗の本山寺院|本山寺院]]。[[門跡寺院]]。[[西本願寺]]の南隣にある。1482年(文明14年)、[[仏光寺]]14世蓮教(経豪)が仏光寺を捨て、多くの末寺と共に[[蓮如]]に帰参して山科に新寺を創建して成立。本願寺と共に大坂などを転々とした。[[端坊]]、[[東坊]]、[[性応寺]]を末寺頭とした。長年、西本願寺の脇門跡だったが明治に独立した。[[真宗興正派]]の本山。山号は円頓山。'''花園院'''。[[真宗興正派の別院寺院]]も参照。(参考:同名寺院[[興正寺]])
-
'''京都・興正寺'''は、京都府京都市下京区にある浄土真宗の本山寺院。西本願寺の隣にある。真宗興正派の本山。[[Category:京都府]]
+
[[Category:京都府]]
 +
 
 +
==歴史==
 +
[[file:Kokudo0010.jpg|300px|thumb|西本願寺の南隣に興正寺は位置する(国土地理院空中写真より)]]
 +
[[荒木門徒]]、[[麻布門徒]]の系統の[[了源]]が鎌倉から京都を訪れ、1324年(正中1年)頃に山科に創建。興正寺と称した。伝説では親鸞が関東布教に行く前に京都に戻った時に山科に建て、了源はそれを復興したとするが、史実とは言いがたい。1328年(嘉暦3年)頃、京都渋谷(汁谷)に移転し、仏光寺と称した([[渋谷仏光寺]])。[[仏光寺]]の項目も参照。
 +
1482年(文明14年)、仏光寺14世蓮教(経豪)が仏光寺を捨て多くの末寺と共に[[蓮如]]に帰参して山科に新寺を創建して成立([[山科興正寺]])
 +
 
 +
1532年(天文1年)、本願寺が山科から大坂石山に移転すると興正寺も大坂天満に移転(第一次・[[天満興正寺]])。
 +
蓮秀が本願寺と日蓮宗の紛争を解決。1535年(天文4年)、本願寺一家衆に加えられた。
 +
1546年(天文15年)、大坂本願寺の中に移転。
 +
1567年(永禄10年)、本願寺顕如の次男顕尊が住職に入る。
 +
1569年(永禄12年)、本願寺の脇門跡となる。
 +
1580年(天正8年)、本願寺、大坂退去。
 +
1585年(天正13年)、本願寺が天満に移ると、再び天満の旧地に移る(第二次・天満興正寺)。
 +
1591年(天正19年)、本願寺が京都の現在地に移ると、興正寺もその南隣に移った。天満には別院が残された([[興正寺大阪別院]])。
 +
本願寺が東西に分裂すると[[西本願寺]]に従った。
 +
江戸時代に入ると、独立運動が盛んになり、たびたび請願している。特に1653年(承応2年)の事件は激しく、幕府の裁決に至り、准秀らは処罰された。
 +
1754年(宝暦4年)、22代寂永は独自に朝廷から大僧正に任じられた。
 +
本堂造営に際し本山を名乗ろうとしたが、1811年(文化8年)、幕府は興正寺は西本願寺の末寺と確認した。
 +
1876年(明治9年)9月、本願寺末から離脱して興正派を設立。
 +
1902年(明治35年)、火災で焼失。1912年(大正1年)、再建されたのが現在の伽藍。
 +
 
 +
==伽藍==
 +
 
 +
==子院==
 +
仏光寺には子院48坊あったが興正寺独立時に42坊が随従した。
 +
42坊は実数でないとされるがその由緒を伝える寺院がいくつかある。特に大和には十六箇寺があったという。
 +
==末寺頭==
 +
*[[端坊]]:九州専想寺
 +
*[[東坊]]:
 +
*[[性応寺]]:
 +
 
 +
== 組織 ==
 +
 
 +
===歴代住職===
 +
鷹司家との関係が深い。13世までは[[仏光寺#組織]]を参照。
 +
 
 +
{|class="wikitable"
 +
|+
 +
!style="width:5%;"|世数
 +
!style="width:10%;"|法号
 +
!style="width:10%;"|法諱
 +
!style="width:10%;"|院号など
 +
!style="width:10%;"|生没年
 +
!style="width:10%;"|在職年
 +
!style="width:40%;"|備考
 +
|-
 +
|14
 +
|蓮教
 +
|経豪
 +
|乗願院
 +
|1451-1492
 +
|1469-1492
 +
|事実上の開山。経実の長子。1451年(宝徳3年)1月15日生。1469年(文明1年)、法灯継承。1481年(文明13年)独立。1492年(明応1年)5月2日死去。42歳。
 +
|-
 +
|15
 +
|蓮秀
 +
|経照
 +
|快楽音院
 +
|1481-1552
 +
|1492-1552
 +
|経豪の長男。母は蓮如の孫。1481年(文明13年)3月10日生。1493年(明応2年)蓮如を師として得度。天文に本願寺が焼失した際に大坂に移転。本願寺証如を助け、本願寺一家衆に加えられた。1552年(天文21年)7月10日死去。72歳。法眼権大僧都。
 +
|-
 +
|16
 +
|証秀
 +
|経堯
 +
|願楽院
 +
|1535-1568
 +
|1552-1568
 +
|蓮秀の子。1535年(天文4年)10月3日生。1545年(天文14年)本願寺で得度。興正寺富田林別院を創建。1568年(永禄11年)3月12日死去。
 +
|-
 +
|17
 +
|顕尊
 +
|佐超
 +
|往還院
 +
|1564-1599
 +
|1568-1599
 +
|本願寺顕如の次男。1564年(永禄7年)1月22日生。焼けた本願寺から逃れ興正寺で生まれる。1567年(永禄10年)入寺。1569年(永禄12年)8月28日、有髪のまま門跡となる。1575年(天正3年)2月9日、顕如を師として得度。1599年(慶長4年)3月3日死去。権僧正。
 +
|-
 +
|18
 +
|准尊
 +
|照玄
 +
|不退院
 +
|1585-1622
 +
|1599-1622
 +
|顕尊の次子。1585年(天正13年)10月7日生。1594年(文禄3年)3月14日、本願寺で得度。1599年(慶長4年)法灯継承。1622年(元和8年)4月14日死去。権僧正。
 +
|-
 +
|19
 +
|准秀
 +
|昭超
 +
|寂静院
 +
|1607-1660
 +
|1622-1660
 +
|准尊の四男。1607年(慶長12年)閏4月5日生。1621年(元和7年)4月19日本願寺で得度。1652年(承応1年)の宗論で本願寺と争いとなる。翌年12月、天満に隠棲。1654年(承応3年)、幕府の裁定で越後に流されたが1658年(万治1年)許された。1660年(万治3年)10月12日死去。54歳。1660年(万治3年)10月12日死去。宗論以降、京都に帰ることを好まず、墓所も遺命で[[塚口別院]]に設けられた。正僧正。子に仏光寺20世堯庸がいる。
 +
|-
 +
|20
 +
|良尊
 +
|円超
 +
|受楽院
 +
|1631-1680
 +
|1660-1680
 +
|准秀の長男。鷹司房輔の猶子。1631年(寛永8年)8月6日生。1647年(正保4年)1月18日、本願寺で得度。1680年(延宝8年)3月9日死去。正僧正。
 +
|-
 +
|21
 +
|寂岷
 +
|由常
 +
|能信院
 +
|1672-1593
 +
|1680-1593
 +
|良尊の長男。1672年(寛文12年)10月3日生。1680年(延宝8年)、有髪のまま法灯継承。1686年(貞享3年)2月11日、本願寺で得度。1689年(元禄2年)1月4日死去。大僧都。
 +
|-
 +
|22
 +
|寂永
 +
|常勤
 +
|遠慶院
 +
|1671-1754
 +
|1689-1754
 +
|准秀の孫。良尊の甥。1671年(寛文11年)2月28日生。1689年(元禄2年)7月26日法灯継承。翌年4月28日得度。1754年(宝暦4年)、歴代で初めて大僧正となる。当時、西本願寺は権僧正だった。1754年(宝暦4年)7月17日死去。子に毫摂寺18世善栄がいる。
 +
|-
 +
|23
 +
|寂聴
 +
|常順
 +
|慶縁院
 +
|1702-1787
 +
|1754-1787
 +
|寂永の次子。鷹司家の猶子。1702年(元禄15年)9月4日生。1722年(享保7年)得度。恭礼門院から帰依。1787年(天明7年)6月29日死去。大僧正。
 +
|-
 +
|24
 +
|法高
 +
|闡揚
 +
|平等心院
 +
|1737-1795
 +
|1787-1795
 +
|寂聴の子。鷹司輔平の猶子。1737年(元文2年)8月3日生。1753年(宝暦3年)2月17日、得度。三業惑乱が起きる。1795年(寛政7年)10月10日死去。権僧正。
 +
|-
 +
|25
 +
|真恕
 +
|堯揚
 +
|大悲心院
 +
|1791-1812
 +
|1795-1812
 +
|法高の甥。1791年(寛政3年)10月15日生。1795年(寛政7年)法灯継承。1804年(文化1年)12月22日、妙法院門跡真仁法親王を師として得度。西本願寺との対立が増し、慣例を変えて旧例に従いに従いではなく妙法院門跡で得度した。法眼。1812年(文化9年)5月6日死去。
 +
|-
 +
|26
 +
|本誓
 +
|摂生
 +
|広大寛院
 +
|1776-1832
 +
|1812-1818
 +
|西本願寺の光雄の末男。1776年(安永5年)10月21日生。1812年(文化9年)1月15日入寺。翌月17日西本願寺で得度。西本願寺と興正寺の確執が高まる中で苦しんだようだ。終身、生家に帰ることはなかった。1818年(文政1年)7月26日辞職。南荘に隠棲。1832年(天保3年)10月11日死去。権僧正。
 +
|-
 +
|27
 +
|本寂
 +
|華園摂信
 +
|大慶喜心院
 +
|1808-1877
 +
|1818-
 +
|鷹司政通次男。仏光寺25世渋谷教応の兄。1808年(文化5年)2月16日生。1810年(文化7年)入寺。1818年(文政1年)3月19日得度。同年、本誓の辞職を受けて7月26日に法灯継承。1877年(明治10年)11月12日死去。正僧正。大教正。
 +
|-
 +
|28
 +
|本常
 +
|華園沢称
 +
|恭敬心院
 +
|1852-1912
 +
|
 +
|1852年(嘉永5年)生。1912年(大正1年)死去。
 +
|-
 +
|29
 +
|本昭
 +
|華園真淳
 +
|大菩提心院
 +
|1884-1975
 +
|
 +
|華園沢称の次男。1884年(明治17年)8月3日生。京都帝国大学卒。1975年(昭和50年)1月22日死去。90歳。
 +
|-
 +
|30
 +
|本賢
 +
|華園真準
 +
|一心帰命院
 +
|1925-2019
 +
|1975-2001
 +
|華園真淳の子。1925年(大正14年)生。大谷大学卒。1945年(昭和20年)得度。1975年(昭和50年)1月に門主に就任。1979年(昭和54年)から1985年(昭和60年)まで総巡化を行う。2001年(平成13年)4月、門主を退任。2019年(令和1年)12月16日死去。94歳。
 +
|-
 +
|31
 +
|本顕
 +
|華園真暢
 +
|
 +
|1957-
 +
|2001-
 +
|華園真準の長男。1957年(昭和32年)生。2001年(平成13年)4月1日、門主に就任。
 +
|-
 +
|嗣法
 +
|
 +
|華園真慶
 +
|
 +
|1993-
 +
|
 +
|華園真暢の長女。1993年(平成5年)生。2017年(平成29年)4月1日、嗣法に就任。華園沙弥香。
 +
|}
 +
『真宗法脈史』、『日本仏家人名辞書』、望月『仏教大辞典 付録』など

2020年6月26日 (金) 時点における版

興正寺境内(国土地理院空中写真より)

興正寺(こうしょうじ)は、京都府京都市下京区にある浄土真宗本山寺院門跡寺院西本願寺の南隣にある。1482年(文明14年)、仏光寺14世蓮教(経豪)が仏光寺を捨て、多くの末寺と共に蓮如に帰参して山科に新寺を創建して成立。本願寺と共に大坂などを転々とした。端坊東坊性応寺を末寺頭とした。長年、西本願寺の脇門跡だったが明治に独立した。真宗興正派の本山。山号は円頓山。花園院真宗興正派の別院寺院も参照。(参考:同名寺院興正寺

目次

歴史

西本願寺の南隣に興正寺は位置する(国土地理院空中写真より)

荒木門徒麻布門徒の系統の了源が鎌倉から京都を訪れ、1324年(正中1年)頃に山科に創建。興正寺と称した。伝説では親鸞が関東布教に行く前に京都に戻った時に山科に建て、了源はそれを復興したとするが、史実とは言いがたい。1328年(嘉暦3年)頃、京都渋谷(汁谷)に移転し、仏光寺と称した(渋谷仏光寺)。仏光寺の項目も参照。 1482年(文明14年)、仏光寺14世蓮教(経豪)が仏光寺を捨て多くの末寺と共に蓮如に帰参して山科に新寺を創建して成立(山科興正寺

1532年(天文1年)、本願寺が山科から大坂石山に移転すると興正寺も大坂天満に移転(第一次・天満興正寺)。 蓮秀が本願寺と日蓮宗の紛争を解決。1535年(天文4年)、本願寺一家衆に加えられた。 1546年(天文15年)、大坂本願寺の中に移転。 1567年(永禄10年)、本願寺顕如の次男顕尊が住職に入る。 1569年(永禄12年)、本願寺の脇門跡となる。 1580年(天正8年)、本願寺、大坂退去。 1585年(天正13年)、本願寺が天満に移ると、再び天満の旧地に移る(第二次・天満興正寺)。 1591年(天正19年)、本願寺が京都の現在地に移ると、興正寺もその南隣に移った。天満には別院が残された(興正寺大阪別院)。 本願寺が東西に分裂すると西本願寺に従った。 江戸時代に入ると、独立運動が盛んになり、たびたび請願している。特に1653年(承応2年)の事件は激しく、幕府の裁決に至り、准秀らは処罰された。 1754年(宝暦4年)、22代寂永は独自に朝廷から大僧正に任じられた。 本堂造営に際し本山を名乗ろうとしたが、1811年(文化8年)、幕府は興正寺は西本願寺の末寺と確認した。 1876年(明治9年)9月、本願寺末から離脱して興正派を設立。 1902年(明治35年)、火災で焼失。1912年(大正1年)、再建されたのが現在の伽藍。

伽藍

子院

仏光寺には子院48坊あったが興正寺独立時に42坊が随従した。 42坊は実数でないとされるがその由緒を伝える寺院がいくつかある。特に大和には十六箇寺があったという。

末寺頭

組織

歴代住職

鷹司家との関係が深い。13世までは仏光寺#組織を参照。

世数 法号 法諱 院号など 生没年 在職年 備考
14 蓮教 経豪 乗願院 1451-1492 1469-1492 事実上の開山。経実の長子。1451年(宝徳3年)1月15日生。1469年(文明1年)、法灯継承。1481年(文明13年)独立。1492年(明応1年)5月2日死去。42歳。
15 蓮秀 経照 快楽音院 1481-1552 1492-1552 経豪の長男。母は蓮如の孫。1481年(文明13年)3月10日生。1493年(明応2年)蓮如を師として得度。天文に本願寺が焼失した際に大坂に移転。本願寺証如を助け、本願寺一家衆に加えられた。1552年(天文21年)7月10日死去。72歳。法眼権大僧都。
16 証秀 経堯 願楽院 1535-1568 1552-1568 蓮秀の子。1535年(天文4年)10月3日生。1545年(天文14年)本願寺で得度。興正寺富田林別院を創建。1568年(永禄11年)3月12日死去。
17 顕尊 佐超 往還院 1564-1599 1568-1599 本願寺顕如の次男。1564年(永禄7年)1月22日生。焼けた本願寺から逃れ興正寺で生まれる。1567年(永禄10年)入寺。1569年(永禄12年)8月28日、有髪のまま門跡となる。1575年(天正3年)2月9日、顕如を師として得度。1599年(慶長4年)3月3日死去。権僧正。
18 准尊 照玄 不退院 1585-1622 1599-1622 顕尊の次子。1585年(天正13年)10月7日生。1594年(文禄3年)3月14日、本願寺で得度。1599年(慶長4年)法灯継承。1622年(元和8年)4月14日死去。権僧正。
19 准秀 昭超 寂静院 1607-1660 1622-1660 准尊の四男。1607年(慶長12年)閏4月5日生。1621年(元和7年)4月19日本願寺で得度。1652年(承応1年)の宗論で本願寺と争いとなる。翌年12月、天満に隠棲。1654年(承応3年)、幕府の裁定で越後に流されたが1658年(万治1年)許された。1660年(万治3年)10月12日死去。54歳。1660年(万治3年)10月12日死去。宗論以降、京都に帰ることを好まず、墓所も遺命で塚口別院に設けられた。正僧正。子に仏光寺20世堯庸がいる。
20 良尊 円超 受楽院 1631-1680 1660-1680 准秀の長男。鷹司房輔の猶子。1631年(寛永8年)8月6日生。1647年(正保4年)1月18日、本願寺で得度。1680年(延宝8年)3月9日死去。正僧正。
21 寂岷 由常 能信院 1672-1593 1680-1593 良尊の長男。1672年(寛文12年)10月3日生。1680年(延宝8年)、有髪のまま法灯継承。1686年(貞享3年)2月11日、本願寺で得度。1689年(元禄2年)1月4日死去。大僧都。
22 寂永 常勤 遠慶院 1671-1754 1689-1754 准秀の孫。良尊の甥。1671年(寛文11年)2月28日生。1689年(元禄2年)7月26日法灯継承。翌年4月28日得度。1754年(宝暦4年)、歴代で初めて大僧正となる。当時、西本願寺は権僧正だった。1754年(宝暦4年)7月17日死去。子に毫摂寺18世善栄がいる。
23 寂聴 常順 慶縁院 1702-1787 1754-1787 寂永の次子。鷹司家の猶子。1702年(元禄15年)9月4日生。1722年(享保7年)得度。恭礼門院から帰依。1787年(天明7年)6月29日死去。大僧正。
24 法高 闡揚 平等心院 1737-1795 1787-1795 寂聴の子。鷹司輔平の猶子。1737年(元文2年)8月3日生。1753年(宝暦3年)2月17日、得度。三業惑乱が起きる。1795年(寛政7年)10月10日死去。権僧正。
25 真恕 堯揚 大悲心院 1791-1812 1795-1812 法高の甥。1791年(寛政3年)10月15日生。1795年(寛政7年)法灯継承。1804年(文化1年)12月22日、妙法院門跡真仁法親王を師として得度。西本願寺との対立が増し、慣例を変えて旧例に従いに従いではなく妙法院門跡で得度した。法眼。1812年(文化9年)5月6日死去。
26 本誓 摂生 広大寛院 1776-1832 1812-1818 西本願寺の光雄の末男。1776年(安永5年)10月21日生。1812年(文化9年)1月15日入寺。翌月17日西本願寺で得度。西本願寺と興正寺の確執が高まる中で苦しんだようだ。終身、生家に帰ることはなかった。1818年(文政1年)7月26日辞職。南荘に隠棲。1832年(天保3年)10月11日死去。権僧正。
27 本寂 華園摂信 大慶喜心院 1808-1877 1818- 鷹司政通次男。仏光寺25世渋谷教応の兄。1808年(文化5年)2月16日生。1810年(文化7年)入寺。1818年(文政1年)3月19日得度。同年、本誓の辞職を受けて7月26日に法灯継承。1877年(明治10年)11月12日死去。正僧正。大教正。
28 本常 華園沢称 恭敬心院 1852-1912 1852年(嘉永5年)生。1912年(大正1年)死去。
29 本昭 華園真淳 大菩提心院 1884-1975 華園沢称の次男。1884年(明治17年)8月3日生。京都帝国大学卒。1975年(昭和50年)1月22日死去。90歳。
30 本賢 華園真準 一心帰命院 1925-2019 1975-2001 華園真淳の子。1925年(大正14年)生。大谷大学卒。1945年(昭和20年)得度。1975年(昭和50年)1月に門主に就任。1979年(昭和54年)から1985年(昭和60年)まで総巡化を行う。2001年(平成13年)4月、門主を退任。2019年(令和1年)12月16日死去。94歳。
31 本顕 華園真暢 1957- 2001- 華園真準の長男。1957年(昭和32年)生。2001年(平成13年)4月1日、門主に就任。
嗣法 華園真慶 1993- 華園真暢の長女。1993年(平成5年)生。2017年(平成29年)4月1日、嗣法に就任。華園沙弥香。

『真宗法脈史』、『日本仏家人名辞書』、望月『仏教大辞典 付録』など

http://shinden.boo.jp/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E3%83%BB%E8%88%88%E6%AD%A3%E5%AF%BA」より作成

注意事項

  • 免責事項:充分に注意を払って製作しておりますが、本サイトを利用・閲覧した結果についていかなる責任も負いません。
  • 社寺教会などを訪れるときは、自らの思想信条と異なる場合であっても、宗教的尊厳に理解を示し、立入・撮影などは現地の指示に従ってください。
  • 当サイトの著作権は全て安藤希章にあります。無断転載をお断りいたします(いうまでもなく引用は自由です。その場合は出典を明記してください。)。提供されたコンテンツの著作権は各提供者にあります。
  • 個人用ツール