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京都・金蓮寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
京都・金蓮寺
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[[file:270DDF19-C59E-4142-A5FB-1898ADCD0120.jpeg|thumb|500px|鷹峰の金蓮寺の庫裏。本堂は再建されていないようだ。]] '''金蓮寺'''(こんれんじ)は、京都府京都市北区鷹峯藤林町にある[[一遍旧跡]]の[[時宗]]寺院。元は四条京極にあった。[[祇陀林寺]]が前身と伝える。かつての[[時宗四条派]]の拠点寺院。一遍賦算の旧跡。'''錦綾山金蓮寺'''。'''四条道場'''。'''四条京極道場'''。(参考:同名寺院[[金蓮寺]]) [[遊行派]]の拠点であった[[七条道場]]とたびたび対立した。 時宗四条派の四本寺に[[浄信寺]]、[[熱田・円福寺]]、[[和泉・引接寺]]、尼崎[[摂津・善通寺]]があった。 ==歴史== [[file:6D966504-572C-41AA-BC41-FA6CB50BAF36.jpeg|thumb|300px|金蓮寺旧地に残る染殿院。新京極商店街の南端に「時宗開祖一遍上人念仏賦算遺跡」碑が立つ]] ===創建=== 浄阿真観は、[[熊野新宮]]の神託で形木名号を授かり、[[他阿真教]]の弟子となる前から賦算していた。 他阿真教に随従の後、京都[[祇陀林寺]]に滞在。その間、1311年(応長1年)2月、[[後伏見上皇]]の帰依を受けて勅して寺を賜った。[[花園天皇]]から「錦綾山太平興国金蓮寺」の勅額を下賜された。 1312年(正和1年)、上人号を賜る。 ===足利家の庇護=== 1357年(正平12年/延文2年)、佐々木高氏(道誉)が私領を寄進。[[足利義満]]の庇護を受けた。 1388年(元中5年/嘉慶2年)2月23日、足利義満の御教書で染殿地蔵(のちの染殿院。釈迦堂とも)が金蓮寺の管轄となった。 明徳の乱の敗将の山名満幸は1394年(応永1年)京都で首を切られ、その首は四条道場に送られた。そして鳥部野の道場で供養された。 ===遊行派との対立=== 1396年(応永3年)頃にはまだ遊行派との関係は良好であったことが遊行派の『往古過去帳』に歴代の没日が記されることから分かる。 しかし6世のころから遊行派と対立。 1409年(応永16年)3月22日や1424年(応永31年)8月10日に火災。これは[[遊行派]]の京都拠点である[[七条道場]]との対立によるものという。特に後者は将軍足利義量が七条道場の末寺とするように命じ7世はそれに従い、七条道場で遊行上人15世尊恵から十念を受けたので、内部の反発を買い、「自焼」したという。 以後も将軍家の葬儀の席次を巡って七条道場とたびたび争う。 1430年(永享2年)6月11日、足利義教が四条道場で7世と連歌を行う。 1491年(延徳3年)8月28日には相国寺蔭涼軒10世の亀泉集証が訪れて当時の寺内の様子を記している。 室町時代は文学芸能の中心地の一つとなり、踊り念仏だけでなく、早歌、曲舞、田楽、獅子舞などが行われていたようだ。 連歌師も多く輩出した。曽我兄弟の子孫と称するものが金蓮寺で時衆となり、曽我物語を語り広めたとも考えられるという。 ===近世=== 応仁の乱で焼失。天文年間、後奈良天皇の勅許で再建。 1544年(天文13年)、[[後土御門天皇]]が四脚門建立を勅許。 1591年(天正19年)、[[豊臣秀次]]が23石寄進。 天正年間、北隣に[[歓喜光寺]]が移転してきた。 江戸時代には四条派の学林が設置され、加行が行われた。 1737年(元文2年)、[[浄土宗鎮西派]]正栄寺の恵観が晋山し、金蓮寺を時宗・浄土宗・禅宗の三宗兼学の道場とすることとしたが、実際には鎮西派改宗を意図したものとされ、寺社奉行へ訴え、追放された。 1788年(天明8年)、天明の大火で焼失。 たびたび出開帳の会場となった。(月堂見聞集) *1711年(正徳1年):月輪寺 *1716年(享保1年):丹波国分寺 *1722年(享保7年):不明 *1722年(享保7年):西七条十王堂 *1723年(享保8年):久世万福寺 また様々な寺社主催による富くじ興行も行われた。 *1782年(天明2年):談山神社 *1790年(寛政2年):東大寺か *1830年(天保1年):大覚寺覚勝院 *1831年(天保2年):東山円光寺 *1832年(天保3年):増上寺 *1833年(天保4年):東寺 *1833年(天保4年):東岩倉山真性寺 *1833年(天保4年):西岩倉山金蔵院 *1834年(天保5年):北野天満宮妙蔵院 *1834年(天保5年):仁和寺 *1836年(天保7年):那智山実方院 ===衰退と鷹ケ峰移転=== 1825年(文政8年)、再建。この頃から寺運は傾き、広大な寺域を少しずつ切り売りして付近に料亭、飲食店、商店などが増えていった。 1926年(昭和1年)、市中の雑踏と火災を避けるために鷹峰に移転を決定。 1934年(昭和9年)までに庫裏を移築し、本堂用材を運んだ。ただし本堂は現在も建てられていない。 鎮守の弁財天社がある。 <Gallery widths="200" heights="150" perrow="3"> file:54F7EA2B-49E8-4245-B549-6571CB945054.jpeg|庫裏 file:4DAC0E9C-C182-4D0D-8A49-C1B29F0E0508.jpeg|弁財天 file:9DBFB272-4CB0-4112-8522-97498C52B974.jpeg|弁財天 file:C879BC23-BF95-4843-A5FB-AA16AD3CAB70.jpeg|板碑 file:3828E80D-63F1-4E4E-9E22-07A406F37CF5.jpeg|五輪塔 file:2BBEF003-BFEC-4EA6-9CD5-D96913E5FBA6.jpeg|五輪塔 file:E3E2A7FC-3A1A-4E32-A22D-62A244212DD6.jpeg|石碑 file:BDAF4886-E6B2-4085-BD67-DF3FB3D9E899.jpeg|蔵か </Gallery> == 子院 == [[file:Kokudo0296.jpg|thumb|300px|金蓮寺(国土地理院空中写真より)]] *元正院: *梅林院: *後松庵: *照月院: *知足院: *南涼院: *寿福庵: *永福院: *宝珠庵: *長春庵: *尋牛庵: *興徳庵: *松林院: *放光庵: *十住心院:[[空海]]の旧跡という。染殿院と改称。 *真珠庵: <gallery> file:2C9F4497-C75D-4943-A444-592969478898.jpeg|染殿院 file:57EB0AE8-847D-4703-8B33-77D5428C2F5E.jpeg|染殿院 file:A46DDBAC-ABA7-4316-8AB5-19EEF70DAC94.jpeg|染殿院 </gallery> == 組織 == === 歴代住職 === *歴代住職は「浄阿」(浄阿弥陀仏)を名乗る。[[上人号]]を勅許され、'''四条上人'''と呼ばれた。 *京都に限って賦算権を持っていたとされる。 *「四条道場金蓮寺歴代世譜」より {|class="wikitable" |+ !style="width:5%;"|世数 !style="width:10%;"|名 !style="width:10%;"|生没年 !style="width:10%;"|在職年 !style="width:65%;"|略歴 |- |1 |浄阿真観 |1268-1341 | |上総出身。[[鎌倉極楽寺]]で[[忍性]]に戒律を学び、[[紀伊興国寺]]の[[心地覚心]]に禅を学ぶ。心地覚心の勧めで[[熊野本宮]]、[[熊野新宮]]に参詣。新宮で夢告により「念仏の形木」を授けられ、賦算を命じられたという。この時、一阿弥陀仏の名を与えられた。心地覚心から印可を得て、諸国を遊行。越中野尻で[[日蓮宗]]信徒に迫害され、淵に沈められそうになったが、奇瑞により領主に助けられた。野尻の日蓮宗信徒はみな念仏に帰依したという。1300年(正安2年)、上野国で[[他阿真教]]に出会い、3日間の法談を経て浄阿と改めた。真教と共に遊行し、1304年(嘉元2年)1月、共に[[無量光寺]]に逗留。1309年(延慶2年)、上洛して[[祇陀林寺]]釈迦堂に寓す。1311年(応長1年)2月には[[後伏見上皇]]の妃の広義門院寧子の出産に念仏札を授けたところ、無事に皇子(のちの[[光厳天皇]])が生まれた。よって後伏見上皇から上人号を賜り、寺号を金蓮寺と改めた。[[花園上皇]]から勅額を得たという。[[無量光寺]]にいた真教は形木名号と印可状を送って相続。また浄阿は上奏して、綸旨で真教に「他阿上人」号が許可された。1314年(正和3年)9月、他阿真教が金蓮寺に立ち寄ると広義門院が聴聞に参詣。広義門院は浄阿に賦算の許可も与えるように請願し、洛中に限って賦算権を認めた。1341年(興国2年/暦応4年)6月2日死去。74歳。『浄阿上人伝』『浄阿上人絵詞伝』『浄阿上人行状』が残る。(時宗教団史) |- |2 |浄阿 |1304-1360 |1341-1360 |作阿。1304年(嘉元2年)生。1341年(興国2年/暦応4年)7月形木名号を相続。1360年(正平15年/延文5年)8月25日死去。57歳。連歌師としても活躍。 |- |3 |浄阿 |1301-1370 |1360-1370 |厳阿。[[熱田円福寺]]開山。[[足利家]]の出身。1301年(正安3年)生。元は天台僧だった。故あって比叡山を去り、熱田洲崎の毘沙門堂に滞在。この時、他阿真教に帰依して時宗となる。熱田神宮に千日社参し、その加護で円福寺を創建した。足利尊氏の寄進で整備。1360年(正平15年/延文5年)9月3日形木を相続。1370年(応安3年)9月28日(26日、27日とも)死去。70歳。『新後拾遺集』に歌を収録。 |- |4 |浄阿重阿 |1317-1379 |1370-1379 |隠岐国大光明寺(大光寺。隠岐郡隠岐の島町有木大光寺前。[[隠岐国分寺]]境外仏堂として小堂が残るという)より晋山。1370年(建徳1年/応安3年)11月8日、形木名号相続。熱田円福寺の請願で熱田神宮に『日本書紀』を奉納。1379年(天授5年/康暦1年)1月26日死去。63歳。大光寺に御影像が伝わる。 |- |5 |浄阿慶恩 |1318-1396 |1379-1396 |[[足利尊氏]]の伯父とも。熱田円福寺2世。厳阿の弟子。1379年(天授5年/康暦1年)2月5日、形木相続。この頃は足利義満の援助を受けた。先代の縁で隠岐に賦算。高田神社に参詣し夢告を得た。帰京後、二条良基、九条経教を説いて至徳4年、百首和歌と千句連歌を高田神社に奉納した。『高田明神百首和歌』が現存する。化導16年。1396年(応永3年)9月15日死去。79歳。慶阿とも。 |- |6 |浄阿釈阿 |1337-1415 |1397-1415 |[[堺引接寺]]より晋山。1397年(応永4年)7月6日、形木相続。化導22年。1415年(応永22年)6月死去。79歳。 |- |7 |浄阿文阿 |?-1439 |1415-1436 |厳阿の弟子。熱田円福寺より晋山。1415年(応永22年)6月5日相続。1436年(永享8年)5月25日、宝福寺に隠居。化導22年。1439年(永享11年)7月24日死去。 |- |8 |浄阿 |1368-1447 |1436-1445 |堺引接寺より晋山。1436年(永享8年)5月25日相続。1445年(文安2年)菩提院に隠居。化導10年。1447年(文安4年)1月7日死去。80歳。 |- |9 |浄阿 |1385-1465 |1445-1456 |熱田円福寺より晋山。1445年(文安2年)7月12日相続。1456年(康正2年)4月11日、念珠院に隠居。化導10年。1465年(寛正6年)11月21日死去。81歳。 |- |10 |浄阿 |?-1465 |1456-? |尼崎正福寺より晋山。1456年(康正2年)5月11日相続。1465年(寛正6年)5月17日死去。享年不詳。 |- |11 |浄阿 |?-1494 |1462-? |厳阿の孫弟子。姫路称名寺より晋山。1462年(寛正3年)5月22日相続。1494年(明応3年)12月15日死去。 |- |12 |浄阿 |1423-1499 |1479-1499 |熱田円福寺より晋山。1479年(文明11年)4月13日相続。化導21年。1499年(明応8年)8月23日死去。77歳。 |- |13 |浄阿 |1442-1507 |1500-1507 |1500年(明応9年)9月27日相続。化導14年。1507年(永正4年)2月23日死去。66歳。 |- |14 |浄阿 |?-1519 |1507-? |伊勢楠歓喜寺より晋山。1507年(永正4年)6月形木相続。化導8年。1519年(永正16年)4月27日死去。 |- |15 |浄阿 |1451-1532 |1512-1532 |堺引接寺より晋山。1512年(永正9年)1月形木相続。化導21年。1532年(天文1年)9月2日死去。82歳。 |- |16 |浄阿 |?-1536 |1532-? |守山守善寺より晋山。1532年(天文1年)11月19日、形木相続。化導5年。1536年(天文5年)6月3日死去。 |- |17 |浄阿 |?-1544 |1535-? |美濃表佐阿弥陀寺より晋山。1535年(天文4年)11月14日相続。化導10年。1544年(天文13年)10月22日死去。享年不詳。 |- |18 |浄阿 |?-1545 |在職年不詳 |1545年(天文14年)9月23日死去。 |- |19 |浄阿 |?-1553 |1544-1553 |[[浄信寺]]より晋山。1544年(天文13年)4月9日、形木相続。化導10年。1553年(天文22年)8月15日死去。享年不詳。 |- |20 |浄阿 |1488-1554 |1553-1554 |近江仏眼寺より晋山。1553年(天文22年)2月、形木相続。化導2年。1554年(天文23年)7月1日死去。67歳。 |- |21 |浄阿 |?-1577 |1558-1577 |守山守善寺より晋山。1558年(永禄1年)3月、形木相続。1577年(天正5年)10月10日死去。享年不詳。 |- |22 |浄阿 |1520-1589 |1578-1581 |熱田円福寺より晋山。1578年(天正6年)4月15日、形木相続。1581年(天正9年)隠居。化導4年。1589年(天正17年)1月29日死去。70歳。 |- |23 |浄阿 |1531-1596 |1581-1596 |近江仏眼寺より晋山。1581年(天正9年)4月、形木相続。化導10年。1596年(慶長1年)4月30日死去。66歳。 |- |24 |浄阿 |?-1609 |1602-1609 |遊行12世(?)の弟子。二本松殿(畠山氏?)の子。近江仏眼寺より晋山。1602年(慶長7年)形木相続。1609年(慶長14年)5月24日死去。 |- |25 |浄阿半雪 |1571-1654 |1609-1628 |大阪より晋山。1609年(慶長14年)6月で形木相続。1628年(寛永5年)10月南涼院に隠居。1654年(承応3年)6月5日死去。84歳。 |- |26 |浄阿碧道 |1598-1631 |1628-1631 |元住職地不明。1628年(寛永5年)12月28日、形木相続。1631年(寛永8年)9月25日死去。34歳。 |- |27 |浄阿残遊 |1584-1656 |1637-? |浄信寺より晋山。1637年(寛永14年)4月形木相続。1656年(明暦2年)2月13日死去。73歳。 |- |28 |浄阿仙山 |?-1672 |1639-? |美濃表佐阿弥陀寺より晋山。1639年(寛永16年)6月形木相続。化導34年。1672年(寛文12年)11月23日死去。 |- |29 |浄阿慈観 |1624-1682 |在職年不詳 |遊行25世(?)の弟子。越前より晋山。真壁町常永寺、敦賀西方寺を経て1636年(寛永13年)4月法流相続。1673年(延宝1年)金蓮寺住職(?)。化導10年。1682年(天和2年)12月29日死去。59歳。 |- |30 |浄阿白信 |?-1699 |1683-1690 |元住職地不明。1683年(天和3年)4月形木相続。1690年(元禄3年)11月大阪光堂へ隠居。化導9年。1699年(元禄12年)1月15日死去。 |- |31 |浄阿円廓 |?-1705 |1691-1705 |28世浄阿仙山の弟子。美濃表佐阿弥陀寺より晋山。1691年(元禄4年)5月法流相続。1705年(宝永2年)5月12日死去。 |- |32 |浄阿唯称 |?-1711 |1705-1711 |堺引接寺より晋山。1705年(宝永2年)8月形木相続。1711年(正徳1年)5月10日死去。享年不詳。 |- |33 |浄阿恵観 |生没年不詳 |1712-延享 |[[浄土宗]][[鎮西派]]の僧侶。京都正栄寺(鎮西派)より晋山。1712年(正徳2年)3月形木相続。金蓮寺の浄土宗改宗を企図したとされ、[[触頭]]浅草[[日輪寺]]に訴えられ、延享年間、追放された。 |- |34 |浄阿真順 |?-1771 |?-1771 |尼崎海岸寺より晋山。晋山年月不詳。1771年(明和8年)2月15日死去。 |- |35 |浄阿仁山 |1718-1779 |1772-1779 |浄信寺より晋山。1772年(安永1年)3月形木相続。化導8年。1779年(安永8年)10月9日死去。62歳。 |- |36 |浄阿良山 |?-1796 |1780-1793 |小柿常勝寺より晋山。1780年(安永9年)子1月形木相続。1793年(寛政5年)、宝福寺に隠居。化導14年。1796年(寛政8年)5月25日死去。 |- |37 |浄阿真如 |?-1820 |1793-1801 |[[尼崎善通寺]]より晋山。1793年(寛政5年)3月形木相続。1801年(享和1年)3月、子院元正院へ隠居。化導9年。1820年(文政3年)7月28日死去。 |- |38 |浄阿灌澄 |1744-1819 |1801-1819 |熱田円福寺より晋山。1801年(享和1年)5月23日、形木相続。化導19年。1819年(文政2年)知5月10日死去。76歳。 |- |39 |浄阿真月 |?-1821 |1819-1821 |尼崎善通寺より晋山。1819年(文政2年)5月24日、形木相続。化導3年。1821年(文政4年)4月27日死去。 |- |40 |浄阿廓山 |?-1821 |1821-? |乙川光照寺より晋山。1821年(文政4年)8月15日、形木相続。1821年(文政4年)9月27日死去。 |- |41 |浄阿覚山 |?-1851 |?-1851 |浄信寺より晋山。1851年(嘉永4年)4月6日死去。 |- |42 |浄阿雪乗 |1804-1876 |1855-1870 |浄信寺より晋山。1855年(安政2年)5月11日、形木相続。1870年(明治3年)閏10月木本に隠居。化導16年。1876年(明治9年)9月28日死去。73歳。 |- |43 |浄阿真瑞 |1809-1886 |1871-1886 |尼崎善通寺より晋山。1871年(明治4年)5月28日、形木相続。化導16年。1886年(明治19年)9月20日死去。78歳。 |- |44 |浄阿真成 |?-1893 |1888-1893 |浄信寺より晋山。1888年(明治21年)7月10日、形木相続。化導6年。1893年(明治26年)11月4日、浄信寺にて死去。 |- |45 |浄阿慇乗 |1846-1899 |1895-? |小柿常勝寺より晋山。1895年(明治28年)6月27日、形木相続。化導4年。1899年(明治32年)4月18日死去。54歳。 |- |46 |浄阿灌柔 |1847-1908 |在職年不詳 |足利灌柔。熱田円福寺より晋山。1908年(明治41年)3月16日死去。62歳。 |- |47 |浄阿学解 |1868-1919 |在職年不詳 |木本学解。尼崎善通寺より晋山。化導10年。1919年(大正8年)8月7日死去。52歳。 |- |48 |浄阿真隆 |1852-1923 |在職年不詳 |木本真隆。浄信寺より晋山。1923年(大正12年)2月26日死去。72歳。 |- |49 |浄阿真碩 |生没年不詳 |在職年不詳 |[[京都・宝福寺]]より晋山。四条京極より鷹峰に移転着手。宝福寺に隠退。 |- |50 |浄阿灌瑞 |生没年不詳 |在職年不詳 |足利灌瑞。熱田円福寺より晋山。円福寺に隠退。 |- |51 |浄阿智道 |生没年不詳 |在職年不詳 |柴田智道。大阪大和田光明寺より晋山。 |- |52 |浄阿蓮乗 |?-1955 |1943-1955 |木本蓮乗。富士泰徳寺より晋山。1943年(昭和18年)4月形木相続。化導13年。1955年(昭和30年)4月5日死去。79歳。 |- |53 |浄阿伝承 | |1955-1956 |西川伝承。乙川光照寺より晋山。1955年(昭和30年)6月形木相続。1956年(昭和31年)8月光照寺に隠退。 |- |54 |浄阿学龍 | | |山羽学龍。47世の弟子。京都染殿院より晋山。 |} ==資料== *1892「元禄頃、嘉永頃、四条道場画巻抜萃模様二葉」『大日本窯業協会雑誌』1-9[https://doi.org/10.2109/jcersj1892.1.9_Plate1] *1892「四条道場一遍上人画巻、享保頃小袖紋様、英一蝶十二月画巻四図二葉」『大日本窯業協会雑誌』1-10[https://doi.org/10.2109/jcersj1892.1.10_Plate1] *河野憲善1960「四条道場の創建と浄阿真観」『印度学仏教学研究』8-1[https://doi.org/10.4259/ibk.8.202] *大橋俊雄1978『一遍と時宗教団』 *有賀祥隆1978「金蓮寺(四条道場)の絵画」『時宗教学年報』6号 *若杉準治1982「金蓮寺蔵浄阿上人絵伝について」『京都国立博物館学叢』4[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10962441] *阿部征寛1982「京都四条道場金蓮寺文書―中世編」『庶民信仰の源流:時宗と遊行聖』 *阿部征寛1982「四条道場(金蓮寺)と浄阿上人真観」『庶民信仰の源流:時宗と遊行聖』 *小山正文1994「『西国巡礼三拾三処普陀落伝記』:四条道場金蓮寺浄阿真順法談本」『時宗教学年報』22号 *藤原正義1996「金蓮寺蔵「頓阿書状」年次考」『時宗教学年報』24号 *大槻洋二1998「京都・新京極の成立母胎としての寺町:伝統都市の近代における歓楽街形成に関する史的研究その1」[https://doi.org/10.3130/aija.63.199_4] *古賀克彦2000「【新出史料紹介】時宗四条派本山金蓮寺歴代記(小倉山蓮台寺蔵)[付四条道場金蓮寺(浄阿)歴代]」『時衆文化』1 *古賀克彦2005「時衆四条道場金蓮寺歴代浄阿の上人号について」『寺社と民衆』1 *川端咲子2002「四条道場芝居考」『芸能史研究』159 *2012「四条道場金蓮寺末寺宝福寺領地指図(堅紙)一三〇」『長楽寺蔵七条道場金光寺文書の研究』 *本多康子2015「京都時衆教団における祖師伝絵巻制作:金蓮寺本を中心に」『鹿島美術財団年報』33 *小林善仁2017「明治初期の境内地処分と旧境内地の開発:新京極を事例に」『佛教大学総合研究所共同研究成果報告論文集』3 *津田徹英2018「詞書の筆跡からみた金蓮寺本『遊行上人縁起絵』の位相」『美術研究』423[http://doi.org/10.18953/00008490] *井並林太郎2020「六字名号・一遍上人僧尼踊躍念仏図(金蓮寺蔵)について」『文化学年報』69 [[category:京都府]]
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