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京都七条・金光寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

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金光寺(こんこうじ)は、京都府京都市下京区材木町にあった時宗本山級寺院呑海が創建。遊行派の京都での拠点だった。廃絶。松尾大社関連旧跡七条仏所と関係があった。京都・長楽寺に合併。無量寿院七条道場。通称は遊行寺。山号は黄台山。しばしば混同されるが市屋道場金光寺とは別寺院。(参考:同名寺院金光寺

歴史

七条東洞院にあった。現在の真宗本廟の近く、枳殻邸の南側のあたり。創建は1251年(建長3年)とも1301年(正安3年)ともいう。 他阿呑海七条仏所康弁から定朝の邸宅跡を寄進されたという。遊行派の京都の拠点として存在感を示し、四条道場とたびたび争論した。戦国時代まで遊行上人を輩出した有力寺院だった。

14世紀はじめの善阿は連歌師として活躍した。1461年(寛正2年)の飢饉では、金光寺の願阿弥という僧が勧進して六角堂の近くに小屋を建て、苦しむ市民に粥を施した。五条橋の修復も行った。

天正年間、豊臣秀吉の都市改造で七条仏所を他に移して拡張。400石が与えられた。和漢三才図会では寺領197石とする。 江戸時代には学寮が置かれた。隣接していた火葬場は元禄年間に設けられ、1873年(明治6年)に廃止された。

1858年(安政5年)、1864年(元治1年)、1875年(明治8年)と火災が続いた。1876年(明治9年)、子院を本寺に合併。 1908年(明治41年)、東山の長楽寺に合併。

松尾大社松尾祭の時、僧侶が御旅所に参詣したという(年中行事大成)。 (日本歴史地名大系ほか)

組織

歴代

持阿を称した。

  • 1呑海(1265-1327)<>:遊行上人4世。藤沢上人1世。
  • 2安国(1279-1337)<>:遊行上人5世。藤沢上人2世。
  • 3一鎮(1277-1355)<>:遊行上人6世。藤沢上人3世。
  • 4
  • 5
  • 6
  • 7尊明(1350-1417)<>:遊行上人13世。藤沢上人7世。
  • 8太空(1375-1439)<>:遊行上人14世。藤沢上人8世。
  • 9尊恵(1364-1429)<>:遊行上人15世(藤沢上人には就任せず)。
  • 10暉幽(1398-1466)<>:遊行上人17世(藤沢上人には就任せず)。
  • 11
  • 12
  • 13弥阿()<>:一説に遊行上人21世知蓮と同一人物。
  • 14意楽(1465-1518)<>:遊行上人22世(藤沢上人には就任せず)。
  • 15
  • 16
  • 17
  • 18
  • 19
  • 20法爾(1563-1640)<>:遊行上人32世(藤沢上人には就任せず)。
http://shinden.boo.jp/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E4%B8%83%E6%9D%A1%E3%83%BB%E9%87%91%E5%85%89%E5%AF%BA」より作成

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