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以酊庵

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

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以酊庵(いていあん)は、対馬国下県郡(長崎県対馬市厳原町日吉)にあった朝鮮外交を担った日本の臨済宗寺院。開山は景轍玄蘇。開基は宗義調。幕末に廃絶。山号は瞎驢山。

目次

歴史

1580年(天正8年)、博多聖福寺の景轍玄蘇(1537-1611)が宗義調(宗義智とも)に招かれ創建。景轍玄蘇は同年「日本国王使」となり、朝鮮に渡る。名称の「酊」は景轍玄蘇の生年の干支の「丁酉」に因むという。対馬と朝鮮の密約が暴露された1635年(寛永12年)の「柳川一件」で住職を廃し、以後、五山の僧が輪番住職として赴任し、幕府の役職である「朝鮮書契御用」を務めた。初めは天道茂の扇原にあったが、1683年(天和3年)、対馬国分寺(元は金石にあった)と寺地を交換して日吉に移転(日本歴史地名大系。国史大辞典で別説)。1732年(享保17年)、国府大火で焼失。西山寺に寓居。1866年(慶応2年)、輪番僧を廃止。1868年(明治1年)に以酊庵自体も廃絶した。資料は西山寺に受け継がれている。河合曾良の墓がある。景轍玄蘇の墓があったが西山寺に移転した。 (日本歴史地名大系、国史大辞典)

組織

歴代住職

  • 1景轍玄蘇(1537-1611)<1580-1611>:博多聖福寺10世。筑前国出身。父は河津隆業。1580年(天正8年)と1589年(天正17年)に朝鮮に渡り外交を担った。文禄・慶長の役にも従軍。1609年(慶長14年)、朝鮮に渡り、己酉約条を成立させた。明の皇帝神宗から蜀紅錦の袈裟を贈られた。1611年(慶長16年)10月22日死去。75歳。西山寺に像が伝わる。弟子の規伯玄方が『仙巣稿』を編纂。
  • 2規伯玄方(1588-1661)<1619-1635>:景轍玄蘇の弟子。筑前出身。師の死後、1619年(元和5年)住職に就任。1621年(元和7年)と1629年(寛永6年)「日本国王使」として朝鮮訪問。寛永の時には首都漢城(ソウル)に入京した。1635年(寛永12年)の「柳川一件」で盛岡藩に配流。1658年(万治1年)許される。南禅寺語心院住職・建長寺公帖などを歴任。1661年(寛文1年)10月23日死去。74歳。西山寺に像が伝わる。(日本人名大辞典)

歴代輪番

幕府の役職である「朝鮮書契御用」を務めた。当初は1年交代。1655年(明暦1年)から任期2年。

1年または3年で交代する。南禅寺以外の五山天龍寺相国寺建仁寺東福寺万寿寺)の僧から選ばれた。

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