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伊勢・南龍神社
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2022年12月22日 (木)
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和歌山城下にあった[[南龍神社]]の分社。松阪は江戸時代、和歌山藩領だっだ。[[徳川家康]]家臣の横須賀党の子孫たちが[[和歌山徳川家]]に松坂城の御城番として仕えた。その屋敷が三の丸の御城番屋敷で今もその末裔が居住している。 | 和歌山城下にあった[[南龍神社]]の分社。松阪は江戸時代、和歌山藩領だっだ。[[徳川家康]]家臣の横須賀党の子孫たちが[[和歌山徳川家]]に松坂城の御城番として仕えた。その屋敷が三の丸の御城番屋敷で今もその末裔が居住している。 | ||
- | + | 明治維新後、御城番の末裔は合資会社「苗秀社」を設立。1874年(明治7年)、城跡に小祠を建てて藩祖を祀った[https://dl.ndl.go.jp/pid/9569082/1/31]。和歌山の南龍神社の1875年(明治8年)の鎮座より早い。これは私祠だったため1883年(明治16年)7月7日、苗秀社の落合清義らが請願。12月2日許可。1884年(明治17年)5月8日地鎮祭。11月13日、松阪城の本丸上段に鎮座した。和歌山南龍神社では祠掌片山武右衛門が勧請の対応をし、同神社を支える享誠社から橋本房彦が参拝した[https://dl.ndl.go.jp/pid/9574675/1/24]。 | |
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- | + | 1963年(昭和38年)、廃絶となり松阪神社に合祀(現地解説板では1953年(昭和28年)に廃絶)。 | |
+ | 『松阪近代略史』によると、貯水池築造のために付近に遷座。伊勢湾台風で社殿が大破し、松阪神社に奉遷したという。 | ||
+ | 1964年(昭和39年)に御城番屋敷内に遷座したという[https://www.matsusaka-kanko.com/wp-content/uploads/2013/04/all-bushou.pdf]。 | ||
*「南龍神社史料」『松阪市史』[https://dl.ndl.go.jp/pid/9570647/1/114] | *「南龍神社史料」『松阪市史』[https://dl.ndl.go.jp/pid/9570647/1/114] | ||
*堀哲1985「松阪城下町における社寺の機構と伝承」[https://dl.ndl.go.jp/pid/2274603/1/75] | *堀哲1985「松阪城下町における社寺の機構と伝承」[https://dl.ndl.go.jp/pid/2274603/1/75] | ||
*2013松阪市観光協会パンフレット[https://www.matsusaka-kanko.com/wp-content/uploads/2013/04/all-bushou.pdf] | *2013松阪市観光協会パンフレット[https://www.matsusaka-kanko.com/wp-content/uploads/2013/04/all-bushou.pdf] | ||
+ | *『松阪近代略史』[https://dl.ndl.go.jp/pid/9569082/1/32] | ||
[[category:三重県]] | [[category:三重県]] |
2022年12月22日 (木) 時点における最新版
南龍神社(なんりゅう・じんじゃ)は、三重県松阪市殿町(伊勢国飯高郡)の松坂城跡にある、和歌山藩祖徳川頼宣を祀る霊社。御城番屋敷内にある。領主奉斎神社。無格社。
和歌山城下にあった南龍神社の分社。松阪は江戸時代、和歌山藩領だっだ。徳川家康家臣の横須賀党の子孫たちが和歌山徳川家に松坂城の御城番として仕えた。その屋敷が三の丸の御城番屋敷で今もその末裔が居住している。
明治維新後、御城番の末裔は合資会社「苗秀社」を設立。1874年(明治7年)、城跡に小祠を建てて藩祖を祀った[1]。和歌山の南龍神社の1875年(明治8年)の鎮座より早い。これは私祠だったため1883年(明治16年)7月7日、苗秀社の落合清義らが請願。12月2日許可。1884年(明治17年)5月8日地鎮祭。11月13日、松阪城の本丸上段に鎮座した。和歌山南龍神社では祠掌片山武右衛門が勧請の対応をし、同神社を支える享誠社から橋本房彦が参拝した[2]。
1963年(昭和38年)、廃絶となり松阪神社に合祀(現地解説板では1953年(昭和28年)に廃絶)。 『松阪近代略史』によると、貯水池築造のために付近に遷座。伊勢湾台風で社殿が大破し、松阪神社に奉遷したという。 1964年(昭和39年)に御城番屋敷内に遷座したという[3]。