ようこそ『神殿大観』へ。ただいま試験運用中です。

伊勢・如来寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2023年6月4日 (日)

移動: 案内, 検索
伊勢如来寺-02.jpg

如来寺(にょらいじ)は、三重県鈴鹿市三日市町(伊勢国河曲郡)にある、善光寺如来信仰浄土真宗寺院。真宗高田派本山兼帯所太子寺と共に伊勢の真宗発祥地という。院号は無礙光院、無量光院。山号は光明山。(参考:同名寺院如来寺_(同名)

目次

歴史

  • 飛鳥時代:聖徳太子が一光三尊仏(善光寺如来)の模像を祀ったのが起源とされる。太子寺と共に元は天台宗だった。
  • 1235年(嘉禎1年):親鸞が京都帰還の際に伊勢を巡錫し、如来寺にしばらく滞在したという。太子寺ができたのもこの時だともいう。真宗の伊勢開教の始まりとされる。(河芸郡史)
  • 1236年(嘉禎2年):顕智が伊勢布教の拠点とした。(河芸郡史)
  • 1310年(延慶3年)7月4日:顕智は当寺で説教したのを最後に姿を消したとされる。姿を消した7月4日(現在は8月か)を忌日として顕智を偲ぶオンナイ念仏が行われている。
  • 1456年(康正2年)頃:下野専修寺が伊勢に移転。
  • 1514年(永正11年):専修寺11世応真が如来寺と太子寺を本山兼帯所に定めた。両堂の厨子の鍵は専修寺法主の親印とした。
  • 1582年(天正10年)6月5日:徳川家康が太子寺に滞在(境内石碑)。
  • 1793年(寛政5年)4月:専修寺、三日市門徒の勢力を削ぐために伊勢神戸に別院を創建。
  • 江戸時代:末寺36寺、20あまりの道場があった。
  • 1752年(宝暦2年)1月:太子堂再建許可。2、3年で再建。
  • 1776年(安永5年):如来堂再建許可。
  • 1780年(安永9年)3月15日、如来寺再建。遷座法要。

(『高田の寺々』、『日本歴史地名大系』ほか)

伽藍

名称 概要
如来寺本堂
伊勢如来寺-06.jpg
東側。本尊は聖徳太子が感得した一光三尊仏。他に一光三尊仏の御前立と顕智像を祀る。
太子寺本堂
伊勢太子寺-10.jpg
西側。本尊は自作の聖徳太子像。他に円遵作の太子像と善然像。
顕智墓
顕智墓-03.jpg
顕智の墓
善然墓
顕智墓-04.jpg
善然の略歴は不詳。
一ツ橋記念碑
顕智墓-05.jpg
顕智が姿を消した「一ツ橋」が村の端っこにあった。
天台塚 天台宗時代の遺物を埋納した塚。明治維新頃まであった。廃絶。

護持寺院

三日市四院

名称 旧称 概要
良珠院
伊勢如来寺-09.jpg
恵光坊 如来寺を護持
常超院
伊勢如来寺-14.jpg
常林坊 如来寺を護持。浄林坊とも。
寿福院
伊勢太子寺-18.jpg
真蔵坊 太子寺を護持。1514年の奉加帳が伝わる。
摂取院
伊勢太子寺-13.jpg
清泉坊 太子寺を護持。観音堂がある。
(廃絶) 宝樹坊 元和年間、廃絶。
(廃絶) 実相坊 天正年間、廃絶。

画像

資料

  • 1918『河芸郡史』[1]
  • 清水智乗1936「顕智上人恩愛会に関する伝説」[2]
  • 真岡慶心1936「北勢に於ける専修門流の消長」[3]
  • 真岡慶心1964「北勢に於ける真恵上人の足跡を偲びて」[4]
  • 五来重1961「伊勢三日市の「おんない」と真宗高田派の大念仏」[5]
  • 伊藤清太郎1980『神戸平原地方郷土史後編』[6]
  • 1980『鈴鹿市史1』「三日市と浄土真宗―付「おんない会」」[7]
http://shinden.boo.jp/wiki/%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E3%83%BB%E5%A6%82%E6%9D%A5%E5%AF%BA」より作成

注意事項

  • 免責事項:充分に注意を払って製作しておりますが、本サイトを利用・閲覧した結果についていかなる責任も負いません。
  • 社寺教会などを訪れるときは、自らの思想信条と異なる場合であっても、宗教的尊厳に理解を示し、立入・撮影などは現地の指示に従ってください。
  • 当サイトの著作権は全て安藤希章にあります。無断転載をお断りいたします(いうまでもなく引用は自由です。その場合は出典を明記してください。)。提供されたコンテンツの著作権は各提供者にあります。
  • 個人用ツール